#3. クリィムソーダの記憶(A面)
【中編小説】
このお話は、全部で9話ある中の四つ目の物語です。
◆前回の物語
安定剤
大学を卒業してから、私は小さなIT会社の事務として就職し、鈴木はそれなりに大きな規模の映像プロダクション会社に勤めることになった。
最初こそこまめに連絡を取り合っていたものの、お互い仕事に忙殺されるようになり、次第にLINEや電話をする機会も減っていった。それでもなぜかある時を境にして、私たちは定期的に手紙を交換し合うようになる。鈴木はこのご時世で今どき珍しい、アナログな人間だ。
*
大学を卒業してから、鈴木と一度だけ会った。
確か私が社会人になって2年目の頃だった。その当時付き合っていた彼氏に振られてしまって、どうしようもなく凹んでいたとき。胸の真ん中が切り取られたような苦しい気分になって、誰でもいいから話を聞いて欲しかった。こんな経験は初めてだった。数日間、まともにご飯も喉に通らない。もう寂しさで胸がはち切れそうになって、迷った末に鈴木と連絡をとった。正直魔がさしたということになる。
事前にLINEで指定された、少し小洒落た雰囲気のイタリアンレストランへと向かう。お店にはシャンソンが流れていた。
「鈴木、久しぶり。元気してた?」
「それはこちらのセリフだよん。水原、なんかもうすっかり社会人って感じだね。心なしか大人っぽく見えるわ。てか少し痩せた気がするけど、気のせい?ちゃんと食べてる?おじさん、心配だよぅ」
相変わらずの軽いノリ。この気を遣わないやりとりがなんとも懐かしかった。そしてたぶん鈴木は今日呼び出した理由をなんとなく察しているところもあるのかもしれない。
「はいはい、お世辞はいいから。早くお店に入ろ」
久しぶりに会った鈴木は、大学当時ボサボサだった頭が綺麗に切り分けられていて、どこか爽やかな雰囲気を醸し出していた。ビシッと着こなしたスーツが強く印象に残った。幾分か、鈴木自身も前より痩せた気がする。
中身はというと、大学の頃と比べるとたいして変わっていなかったがそのギャップがなんだか新鮮だったし、正直いうとほんの少しドキッともした。
目の前に並べられていくピザやパスタ、赤ワイン。鈴木が選んだお店は雰囲気も味も全てが洗練されていて、私がこれまで行ったどのお店よりも落ち着いた。洗練さとリラックスできる空間は両立しないと思っていたけれど、これは新たな発見だった。
「いやーそれにしても俺たちも随分歳をとったねえ。最近急激に体力の衰えを感じるようになっちゃって、いかんいかん」
「『たち』って私も一緒にしないでよ。私は十分まだ若い気でいるんだから。もう年取ったって思った時点で負けよ、負け。ちょうど少し前に1年目の子が配属されてきたんだけど、彼女たちと比べても私はまだ全然イケてる、って思いながら仕事してるし」
「ははは、水原は相変わらずだなあ。その逞しさ、俺にもちょっと分けて欲しいわ」
しばらく二人してくだらない話をして、近況を語り合う場面になった。話の流れから先日まで付き合っていた彼氏と別れたことを言わざるを得ず、思わず付き合ってから別れるまでの経緯を話してしまった。
「……ということなのよ。信じられる?その男、大久保って言うんだけど、今思い出しても本当にムカつくやつでさ。何度蹴飛ばしてやりたくなったか。それでも今もふとした拍子に思い出しちゃうんだよね」
酒の勢いも手伝って、私は思わず涙がこぼれ落ちそうになった。
「———水原」
涙が落ちてこないように少し上を向いた。天井にはセンスの良い灯が点々と並んでいる。店内には「オーシャンゼリゼー」と歌うハスキーがかった声が聞こえてきた。
「何よ?」
「もしさ、もしだよ?———もし俺たちがこのまま二人とも5年後くらいに独身貴族だったらさ、そのぅ、俺のこともらってくれよ」
最後はどこか冗談っぽい口調で鈴木は言った。私は正直、鈴木の言葉をどこか胡散臭さをもって聞いていた。こいつは基本適当なことしか言わないから当てにならないと心の中の自分が言っている。少し顔が熱ったので、慌てて目の前にある赤ワインをぐいっと一気に飲む。
「やだ、何言ってるの鈴木。冗談は顔だけにしてよね」
私は照れていることがわからないようにできるだけさりげなくぶっきらぼうに聞こえるような口調で言葉を口にした。———一瞬。ほんの一瞬かもしれないけど、その時鈴木の表情が悲しげになったような気がした。
「なはは、もちろんですよ、水原先生。まあお互い、上を向いて歩いていきましょうや」
その後私は少し居た堪れない気持ちになって席を外した。戻ってくると、鈴木が錠剤を口にしているのが遠目に見えてしまった。そのことについて触れるべきか迷ったものの、結局何も言わずにいた。
私は知らなかった。少しずつ鈴木が心のバランスを失い始めていることに。
*
その日は結局何事もなく解散した。私は、鈴木に対して一抹の淡い思いを抱いて。
夜はたくさんの人たちで溢れかえっていた。その熱気に思わずむせ返りそうになる。駅のホームまで続く道には酔っ払いと思われるおじさんが一定数いて、誰彼構わず声をかけていた。
今日、鈴木が隣にいてくれてよかった。寂しさで胸がぎゅっと締め付けられて、自分がやけを起こしてしまう可能性もあったかもしれない。鈴木は不思議と私の心を安心させてくれたし、今日一緒に過ごしただけでもだいぶ心の隙間を埋められた。こうやってみんな、知らず知らずのうちに誰かに依存しながら生きているのかもしれない。
人は一人じゃ生きていけない、か弱い生き物だ。
最後、ずっと鈴木は坂本九の『上を向いて歩こう』を歌っていた。こいつはどうせきっと私のこと仲のいい友達くらいにしか思っていないだろうから、悩むだけ損。だから結局その日淡く芽生えた鈴木への思いはその日でなかったことにした。
思えばこの時から鈴木と半月に1度のペースで手紙を交換するようになった。どういう経緯があったのか、正直後半は記憶があやふやなので覚えていない。
<#4へ続く>
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