鮭おにぎりと海 #10
<前回のストーリー>
大学生になって、それまでよりも行動範囲がぐんと広がって、自分がどこにでも行けるのではないかという錯覚を感じる。大学に入る前には将来見据える先が全く予想できなかったので、とりあえず自分自身が興味を持てる本と外国語の世界を両方学べる英米文学を専攻した。
周囲からは就職先に苦労するよ、と口酸っぱく言われたのだけれど、いざ授業を受けてみるとこれほどまでにわたしの希望に沿った学部はないのではないかというくらい勉学に没頭することができた。
★
まず、課題図書で学校側から課題図書として出されたのが、マーク・トウェインの『ハックルベリーフィンの冒険』とナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』の三作品である。これらはいずれもアメリカ文学だった。
大学に入るまでわたしはたくさんの本を読んできたが、どちらかというとイギリス文学の方が身近な存在だった。ルーシー・モード・モンゴメリの『赤毛のアン』、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』など。どちらかというと、現状に強く抗おうとする女性たちの作品を読むのが好きだった。アメリカ文学だと、唯一きちんと読んでいたのがルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』。
正直大学から与えられた課題図書の三作品は、大学に入ってから初めて知った。でも最終的に読み終わった後、この作品たちは今後わたしが生きていく上での道筋を示してくれたように思う。
★
課題図書の中でもとくに印象に残ったのが、『緋文字』という作品。これは教会の神父と不倫をしてしまったへスター・プリンという女性が、その罪のために「A」という赤い文字を背負って生きることになった、という筋書きになっている。
彼女は最終的に自分の不倫相手を最後まで言わずに死んでいくのだが、悔恨と共に一種の清々しさを纏った生き方だったように見えた。どうしたらこんな風に強く生きることができるのだろうと、わたしはへスター・プリンのことを尊敬の眼差しを持って読み進めた。
『緋文字』を読んだとき、わたしはこれから大人になるということについて漠然としたイメージでしか抱いていなかった。けれど、なんとなく歳を重ねるにつれて人はいろんなものを背負うことになり、ときには意識することなく罪を犯してその事実と向き合うことになるのかもしれない、と『緋文字』を読んで思ったのだ。
この世界の物事は殊の外、尽く自分の思い通りにいかないことで進んでしまっていることが割と多くあるように思う。
★
『ハックルベリー・フィンの冒険』では、アルコール中毒の父親を持つハックという少年の冒険譚を中心に描かれている。この作品は、かの有名な『トムソーヤの冒険』の続編として書かれたものだそうだ。
彼は自分自身が置かれた環境に反旗を翻し、当時根強かった黒人に対する差別に対しても抗うべくもがいていた。そして途中途中で出会う様々な種類の人間に対して、彼は彼なりの信念を持って対面する姿がひどく印象的だった。
それと、『グレート・ギャッツビー』という作品においては人の本質が色濃く描かれていた。主人公ギャッツビーとトム・ブキャナンの間で揺れるデイジー。何が人を人たらしめるのだろう。今を生きるというのはどういうことか。自分が自分として生きるためにはどういうことか。
この作品が描かれた19世紀前半は、男女平等と謳われる世界ではなく圧倒的に女性の方が立場が弱かった。そんな風潮の中で、男性の思うようにならない女性の姿を描いたフィッツジェラルドは先見の明があったと言わざるを得ない。
★
どっぷりとまだ見ぬ海の向こうに生まれ育った人たちの人生に触れ、勝手に彼らに対して慣れ親しんだ気持ちを抱くようになった。
言葉の渦が、わたしの頭の中に渦巻く思考の濁流に呼応するかのようだった。わたしは、様々な文学を読むことによって自分の新しい人生を生きているような気分になったのだ。
末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。