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#48 仕事についての愛を語る

 今、仕事がとても楽しい。この世に生れ落ちてから数十年という月日が流れているが、ここにきてようやくわたし自身が本当はなにをやりたかったのか、この先どうなりたいのかというのが見えてきた。

 仕事とは、もちろん企業の利益を生み出し、社会に還元するというのは資本主義の前提としてわかっている。利潤を元手に、勤め人は恩恵を得るということも。でもそれはあくまで建前であって、それを一個人に落とし込んだときに目先にぶら下げたニンジンもとい給料をぶら下げられても、少なくともわたしはダメな人間だということを、ここ数年働いて理解している。

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思えば回り道

 ちょうど新人になりたての頃、海外とかかわる仕事がしたいと熱烈にアピールしていたものの、当時の会社の予算の関係によりなんと全く志望もしていなかった営業に配属された。君は、愛嬌があるからねと言われて。

 もちろん要望通りにいかなかったことに対する不満はあったものの、特にこれと言って自分の中で強烈な軸があったわけでもなかったし、何より役員より直々に配属を言い渡されたものだから断るに断れなくなってしまった。結果、数年間わたしは上司との軋轢の中で苦しむことになる(以前の記事でも触れたが)。

 やがて時は経ち、なぜか3年おきくらいに配置換えのタイミングが幸運にもやってきて、今ではわたしは人に教えるという仕事に就いている。最初部署が変わったときは、やっていけるのか心配だったけれど、これが意外とうまくいっているのだ。自分でもびっくりするくらいに。

 思えば両親が教師だったこともあって、わたし自身は幼いころ同じ道を歩むことに猛烈に反発した。だって、身近な人と同じことをやるのってつまらないじゃない。当時わたしは自分にしかできないものを欲していた。じぶんだからこそ、できるもの。

 そんな風に考えていたのに、大学に入ってからは食いっぱぐれないからという理由で英語の教員免許を取り、お金が良いからという理由で塾講師のアルバイトをしていた。思えば、なんて矛盾した行動をとっていたことだろう。

 他にも、学生時代は居酒屋、イタリアンレストラン、ラーメン屋、倉庫のピッキング作業など割とふらふらしていたことを思い出す。要は自分が何に適しているのがわからなかった。でも、改めて振り返ったときに一番楽しかったのは塾講師の仕事だったといまさらになって気づくのである。

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目的だとか大義名分だとか

 わたしが就職活動していたころは比較的まだ氷河期を引きずっていたので、やりたいことというよりは自分が何をできるかということを考えながら職を探していたような気がする。で、縁あって今の場所=講師という立場にいるわけだが、これも運命の巡り合わせでかつて自分が毛嫌いしていた仕事を一所懸命毎日こなしているわけだ。

 あれだけ毛嫌いしていたのに、好きになるスピードは速い。これは恋愛の法則と少し、似ているかもしれない。結局血は争えないのかと思うこともあるし、もしかすると環境がわたしの価値観や考え方を築いたのかもしれない。気が付けば、「やりたくなかったこと」は「やりたかったこと」に転化されている。

 自分の驚くべき心境の変化。なぜ、人に教えることに対してわたしはこれほどまでに魅力を感じているのだろう。もしかするとわたし自身人よりも承認欲求が高いことが原因かもしれない。

 加えて、noteでここ3年ほど記事を執筆する中で、コメントをくださる人たちや意外なご縁もあったりして、そんな中で「伝える」だけではなくて「教えてもらう」というプロセスに喜びを見出し始めている。人はみな生まれた時から一人だけど、ひとりだけでは味気ない。わたしは常に新しい世界の出来事を貪欲に欲していて、他者とのかかわりあいの中でその行き場を見つけているのだろうか。

 最近入ってきた新人にも研修という名目で教えることを行っている。今の人たちは、なぜそれをやるのかという目的や大義名分がないと、作業の進め方に苦慮するらしい。上司がいいからこれやっておけよ!という指示ではきちんと動かないのだ。

 彼らを見ていると、若かりし頃の自分を思い出す。気が付けば、その姿を自分と重ね合わせている。右も左もわからない中で、あくまで学生気分が抜けなかったわたしは、結局深く考えることなく最初の配属先で苦しんだ。彼らの視点に立って、不安を拭い去るべく熱意を込めて話をする。

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「愛」を象る片鱗

 新人に対して研修を行うのも、3年目である。昔よりは要領がつかめてきた気がする。最初教えた人たちは今や会社のさらなる利益を生み出すべく、しっかり社会人として歩んでいて彼らの姿を見ると、ああこの仕事をやっていてよかったなと心の底から思うわけだ。

 人が成長する姿を見て、わたし自身も身が引き締まる思いになる。ともに成長している気分になる。この年になっても、学ぶことはたくさんある。不足している知識も山ほどある。これまでひたすら考え続けて働いて感じたことは、なんだかんだわたしは一人が好きだけど、同時に人の可能性についてもどこか期待しているのかもしれない、ということ。

 人に寄り添う。相手の立場になって考える。感情を読み取ろうとする。決して容易くはない。寄り添ったつもりでも相手を傷つけてしまうこともあるし、深く介入しようとしたばかりに自分自身が逃げ切れない茨に追い詰められることもある。

 少しでも、人々が暮らしやすくなる世界になるために。そんなことは詭弁かもしれないということはわかっている。誰かにとって暮らしやすい世界は、誰かにとって居心地の悪い世界。だからこそ、誰かの抱える物差しの幅を広げること。そのためには、自分自身も鍛錬を積み重ねること。

 どんな形でもいい。わたし自身が誰かに教えるでもいいし、物語を通して誰かの心を揺さぶるでもいい。表現することによって、少しでも何かが、ほんの些末な何かが「よくなっている」と思い込むことができたら、きっとそれがわたしの生きる意味になるような気がしている。

 その先に生じるのは愛の片鱗だと、そう信じたいだけだ。


故にわたしは真摯に愛を語る

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