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鮭おにぎりと海 #21

<前回のストーリー>

「フーテンの寅さんって、知ってる?」

彼女が屈託のない笑顔で振り向いて、そんなふうに言う。彼女は、暑いからかいつもの様子とは違って後ろで髪を束ねていた。その姿が、その時の僕にはとても新鮮に映ったのだった。

気付けば大学に入って2年目の夏を迎えていて、ひょんなことから学食でお昼ごはんを食べるようになった女の子から江ノ島に誘われた。彼女の名は、葛原南海と言う名前だった。正直言うと、誘われたときに指定された日が近づくごとにどうしようもなく浮き足立つ自分がいることを自覚せざるをえなかった。そもそも女の子と一緒に出歩くなんて経験自体、片手で数えられるほどしかない。

そしていざ当日を迎えてみると、葛原さんに会ったら果たして何を話せばいいのかわからなくなってしまった。結果として、葛原さんが話のリードをすることになった。情けないと自分自身思いながらも、ぎくしゃくとした返答を返す。

江ノ島駅で待ち合わせして江ノ島へ辿り着いた後も、微妙に距離感がちぐはぐな会話が続いていた。そしてちょうど江ノ島の弁財天商店街に差し掛かったあたりで、葛原さんからフーテンの寅さんに関する話題を振られたのである。

「うん、名前だけ知ってるよ。あれだよね、『男はつらいよ』っていう映画シリーズに出てきた人のことだよね。」

「そうそう。わたしね、あの映画のシリーズがすごく好きなの。今まで生きてきた中でいろんな映画を見てきたんだけど、そんな中で一番影響を受けたのが『男はつらいよ』に出てきた寅さんだったの。幼い頃は、できれば寅さんと結婚したいと思っていたんだよ。」

と言ってクスリと葛原さんは軽く微笑んだ。その笑顔に妙に惹きつけられて、彼女から目を離せなくなってしまう。そして、僕は話の末路が分からないながらもその場でとりあえず相づちを打った。

「それでね、そのシリーズの中でも忘れられないエピソードがあるの。寅次郎あじさいの花、というエピソードなの。かがりさんっていう丹後出身の女の人が出てくるんだけど、その人と寅さんが江ノ島に行く場面があって。その場面が今でも忘れられないの。」

彼女の顔はとても憂いを帯びていた。弁財天商店街ではお店の前に店員さんが声を張り上げて呼び込みを行っていて、声が聞き取りづらかった。そのことを感じ取ったのか、彼女は喋ることをいったん一休止した。

商店街には観光客が大勢いてそこを抜けると、江島神社までの長い階段が正面にそびえ立っている。何段も階段が連なっていて、その階段を一段一段上るのに一苦労だった。葛原さんからそのフーテンの寅さんの話を聞きたかったのだけれど、普段運動をしていない反動なのか階段を上る度に息切れする自分がいて何とも情けなかった。

無事階段を上り参道を抜けたところをまたゆっくりと歩いて行く。葛原さんは僕の歩調に合わせて進んでくれている様子だった。そのまま進んでいくと、右側に大きな縦長に長い建物が姿を現す。

「あれはね、江ノ島シーキャンドルっていう江ノ島にある唯一の展望台なの」

と彼女が由来も含めて懇切丁寧に教えてくれる。彼女は、僕なんかよりよっぽどいろんなことを知っている。

そのまま他愛もないはなしをしながら、いつしか辿り着いたのがおおよそ外観がどこか大衆食堂然とした場所だった。

「ちょっとここで軽く休んでいこうか」という葛原さんの言葉にすくわれ、そのまま大衆居酒屋のようなお店の中に入っていった。

そして彼女は改めて、『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』に出てきた場面について少しずつ、そして穏やかに話を始めたのだった。


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