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#88 宗教と愛について

 いつの頃から「愛」という定義があったのだろうか。そして、「愛」と切っては切り離せない宗教との関係について。どうしても避けては通れない道だった。

 たぶん、昔の人たちが愛についてどう考えているのかを知ることによって、もっとより深く愛を知ることができるのではないか、そんな期待も込めて手に取ったのが『「愛」の思想史』という本。この本は、過去の哲学者が語った愛と絡めながら、キリスト教における愛について触れている。短いながらも示唆が多かった。

人間とは単に偶然生まれて偶然死んでいく存在なのではなく、神の無性の愛によって肯定されている存在なのだ。

『「愛」の思想史』山本芳久 p.126

 誰かを愛すること、誰かに愛されること。
  それは、私たちの生活の基盤を形成している。

 愛には「求める愛」と「与える愛」がある。かつて『ナルニア国物語』シリーズを執筆したC・S・ルイスは、一見与える愛に比べると求める愛というのはただの利己主義とも捉えられるが、そもそも誰かに対して愛を求めなければ、そして一人でこの世の中を生きていけると思ってしまうことはそれ自体が冷酷な利己主義者であることを示している、と述べている。

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 愛はつまり、どうすれば人は幸福になれるのか? という人が生きる中での永遠の問いにも紐づいている。ここでは、無生物への愛(つまり、何か物や趣味に対して愛着を持つこと)は除外する。なぜなら愛し返すことがないから。相互的であることが、幸福になることの条件なのだ。

 私たちが生まれるはるか昔、ギリシア時代まで遡った時に、かの著名な哲学者たちは時が流れる間に愛に関して二つの概念を定義した。一つがエロース、もう一つがアガペーである。この二つの定義の違いは、長らく哲学者たちの心を捉えて離さなかった。

 簡単にそれぞれの定義について見ていくと、こんな感じだ。

・エロース
 人間が価値あるものを徹底的に追いかけていく愛
・アガペー
 無償の愛に基づいて他者へと親密に関わる愛

 エロースはどちらかというと、中心となるのは自分。それに対して、アガペーは他人に施す愛というのが中心となっている。

 エロースはもともとギリシア神話に登場する恋心と性愛を司る神を示していたのが、哲学者たちによって言葉の定義を与えられた。愛の対象となるものは、愛する人が幸福になるための手段とし、かのプラトンは第一段階として外見を愛するところから始まり、内面的な美しさ、そして移ろわない本質的な美、つまりイデアへと転化するとした。

 アガペーはどちらかというと、キリスト教的な愛と密接な関係性がある。新約聖書にも出てくる言葉で、無償の愛を与えることによって、その愛の対象に初めて価値を与える、とした。キリストはかつて人間に対してお互いに大切にし合う愛に満ちた生き方を説いた。

 有名なものは、「隣人愛」だろうか。「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」。善きソマリア人の教えに代表されるような、例え種族が違っていても無条件に愛を伝えることの大切さ。現実的には難しいところもあるかもしれないけれど、この世界の行き着くべき理想とする形。

 時が流れる中で、まずアウグスティヌス(354 - 430)は人間の心には無限の憧れがあるとした。でも、この世のありとあらゆるものは有限である。限りあるものをいくら手に入れても、人の心は満たされない。対して神は無限の存在であるからして、その神という存在と深く繋がってこそ満足が得られるとした。これを、「神への愛」とした。

 スウェーデンの神学者であるニーグレン(1924 - 1958)は、アウグスティヌスのこの立ち位置を批判していて、アウグスティヌスが語る「神への愛」とは結局は自分が幸福になることについてした重きを置いていなくてキリストが語るアガペーをおざなりにしていると批判をした。

 それに対してまた異なる視点からニーグレンの考えを否定したのが、ベネディクト16世(1927 - 2022)である。彼は、エロースを追求する中で自ずとアガペー的な要素が入り込んでくる。相手の幸せを願うことでエロースは新たな活力を与えられる。相手を幸せにしたいというアガペー的な愛が生まれると、その人と親しくなりたいというエロースもますます強くなると述べている。

 つまり、過去にはエロースとアガペーは両立しないという見方もあったのだが、いやいや実は両者は同時に成立するものなのだということを述べているのだ。

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 最後まで読み終えた時に私が改めて感じたのは、本の中で述べられている愛を向ける先として「自分への愛」と「他者への愛」と「神への愛」という3つがあって、これらはきちんと正しい愛情を捉える上ではどれか一つでも欠かすことのできないものなのだ、ということだった。

 「神への愛」というのがどうしても馴染みがないということであれば(これはおそらくキリスト教の人たちから見た時には身近なのだが、そうでないとなかなかイメージしづらい部分もあるので)、これを身の回りの見えない力への愛と置き換えてもいいかもしれない。この世の中に私たちを見守る見えない大きな存在に対する愛。

 今思うと、昔の私はどうしても自分を中心に考えていて、どうすれば私が傷つかないかなとか、私が気持ちよく暮らせるにはどうしたらいいのだろうとか、全部そのベクトルが自分へ向いてしまっていた。でも、こうしてさまざまな観点から愛を捉え直すことによって、それは間違いだったと今ならわかるようになってきた。

 おそらく愛とはまず自分の心が満ち足りていなければいないとダメで、それはある種「求める愛」という形で誰かに対して希求することによって育まれるものなのかもしれない。でも相手に受け入れてもらうためには最初それでも良いかもしれないが、求める愛ばかりだとそれはやがて植物と同じでやがて水不足のために枯れてしまう。

 だから私たちは求める愛だけではなく、自らも相手に対して愛を与えなければならないのだ。相手を慈しみ思う心。そうして互いに思いやることによって、正常な姿が保たれる。与える愛だけでも成り立たない。上手い相互のバランスによって成立する。愛は、そう互いが互いを思い合うことで少しずつ確かな所作となって形が作られていく。

 時には人との愛は、その方向性によっては脆くも崩れてしまう愛の形(ちょうど水を与え過ぎてしまうと根腐れを起こすかのように)なのだろうが、神への愛はより不変的であるように見える。

 それはいつだって、私たちがどんな人間であろうと最初から与えられており、決して揺るがないような愛の形なのである。だから私たちは安心して日々を生きることができる。愛がない生活は辛い。この歳になって私もほとほと感じることだが、この世界で本当に、誰の手も借りずに生きることなんて不可能なのではないだろうか。

 一人で生きていると思っている人間こそ、それはどこか独りよがりな行為で、自分自身が周りの人たちに見えざる愛の形によって生きていることを知らない。脆い、私たちは時に何か見えざる声によって押しつぶされそうになり、誰かの心許ない声によって心を打ち砕かれ、忙しない日常の流れに目的を見失う。もしかすると、ぽきりと茎が折れる音が聞こえることがあるかもしれない。

 そのたびに思う。私は周りの人からの愛を求め、時に救われ、そして自分自身も誰かに水を与えるかのように愛を注ぎ、救いたいのだということを。神様は本当にいるかどうかわからないけれど、とてつもなく大きな存在によって私たちはきっと、生かされている。


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