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鮭おにぎりと海 #37

<前回のストーリー>

息を吸うたびに、鋭い冷気が胸の中を圧迫する。外は、氷点下何度という世界で、俺はそれなりに生地のしっかりとしたダウンを着込んでいるにもかかわらず、これまで経験したことのない寒さに襲われた。

時は11月中旬、シカゴではすでに本格的な冬の季節が到来していた。本来であれば俺はあたたかな建物の中ですやすやと寝息を立てていたはずなのに、何の因果か極寒の地に叩き落されてしまった。吹きすさぶ雪のつぶて、それだけでもうすでに頭がくらくらしていた。

周りを見渡すと、明かりがついている建物はあるものの高級そうなホテルばかり。今日泊まる予定だったユースホステルの建物に携帯電話も財布も置いてきてしまったために、今の俺は文字通り一文無しとなっている。

それからどれくらい歩いただろうか。立ち止まると寒さのためにそれだけで体が言うことをきかなくなるので、全身を温めるためにもひたすら歩き続けた。その時間、大体15分くらいだっただろうか。今思えば短いと思われる時間だが、その時はなんだか永遠の時間であるかのように思われた。

間が悪いことに、俺はしばらくひげを剃っていなかった。そのため、鼻の下も顎の下もむさくるしい毛に包まれていた。時々すれ違う人はいれども、まわりからはさぞかしホームレスに見えたことだろう。事実人とすれ違うたび、皆が俺に対して哀れな目を向けるのだった。

最後、たどり着いたのは一軒のコンビニエンスストアだった。

♣︎

店の外観には、日本でも見たことのある7を象ったシンボル。何だか天に救われた思いで、なんの躊躇いもなく自動ドアの前に立った。そのまま中に入ると温かい空気が全身を包む。しばらくの間寒さに貫かれた俺の体は感覚が戻ってこなかった。それでも少し経つと、震えが止まった。

時間は、そのとき深夜1時くらいだった。店員はその時一人だけ。頭がチリチリしていたのが非常に印象的だった。歳は自分と同じくらいだろうか。当然ながら、その店員も俺の姿を認めるなりどこか不審そうな眼付きで見てくる。いたたまれない気持ちでいながらも、しばらくはこの店から離れることはできない。このまま外へ叩き出されようものならいよいよ体がもたない。しばらくの間、俺は店内をうろうろうろうろしていた。

それから5分くらい経過しただろうか。さすがにやばそうな雰囲気だと思ったのか、店員自ら俺に話しかけてきた。どこか独特のなまりの残る英語で。

「あんた、いったいどうしたんだい?」

隠していても仕方がないので、俺は今日の夜に出くわした粗末な出来事の顛末について話をした。泊まろうとしていたユースホステルが満室だったのだが、店員の計らいでなんとか泊めてもらえるようになったこと。ところが、深い眠りに落ちる前に叩き起こされて牢屋に入れられそうになったこと。その間、意外にも髪の毛がチリチリしたその店員は、俺の話を親身に聞いてくれた。すべてを話し終えた時にその店員が口を開く。

「大変だったな。」

彼は憐憫にも似た表情を俺に向ける。そして彼は思い出したかのように、レジへと戻っていく。数分後、彼が持っていたのは一つのカップだった。そこからは湯気が立ち上り、なんだかとてもいい匂いがする。

「これ俺からのおごりだ。良かったら飲んでくれ。」

そういって渡されたのは、一杯のココアだった。

♣︎

そのココアは、俺が今まで飲んだどんなココアよりも極上の味がした。さすがにもう涙は出てこなかったが、俺は彼のその優しさにいたく感謝した。そのチリチリの髪の毛さえ神々しいもののようにさえ思えてくる。

「どうして、俺にこんなにも優しくしてくれるのだ?」

「俺もあんたと同じなのさ。同じようにこの町では嫌われ者なのさ。」

チリチリ頭のその店員の名は、サミュエルというらしい。

聞けば、彼はアメリカで生まれたものの、貧しい地方の出身なのだという。家族を支えるべく出稼ぎという形でシカゴの街へやってきたものの、最初は仕事が見つからない。そしてだんだん貯金も底をつき始め、毎日ひもじい思いをしながら継続して仕事探しをしていたのだという。結果なんとか最終的にコンビニの職を得て、今に至るそうだ。

「今ならわかる。この街はほかの場所と比べると一年通してとても寒い。その気温に呼応するかのように、人に関しても心の冷たい人が一定数いる。それでも時々、ほんの一握りだけど心の温かい人がいる。俺はそういう人たちに救われてきたから、その代わりといっては何だが、困った人がいたら助けてあげずにはいられないんだ」

♣︎

この日の夜、俺は確かにひどい思いもしたが、同時に救われもした。きらびやかな街の正体を見たような気もしたし、人の真の温かさに触れることができたような気もした。

よく見ると、サミュエルは自分の首にかけてあるロザリオを愛おしそうに触るのだった。彼の中にも、彼を支えてくれる神様が宿っているのかもしれない。俺自身も、何だか見えない神の手に触れたような気がした。

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