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意志を否定して、意志を救う

他者への配慮として、「わかりやすい表現」というのは、実に望ましい形式である。誰かに何かを伝えるという行為において、短く、簡潔に言葉をまとめて、それを発語することに、なんら問題はない。

けれども、その言葉の中に含侵されている「意味」というのは、実に、その言葉のままであるという逆説があるだろう。その言葉には、まさにその「言葉そのもの」が、ただ純粋に含まれているだけである。

公理的な言葉としての「ことわざ」は、その「言葉そのもの」の意味合いを超越して存在してる点で、対照的である。

「暖簾に腕押し」

私の場合、のれんに腕を通したのちに見える景色というのは、まさに「酒場」であるだろうと、想像する。人が人とひしめき合う、快楽と憎悪と愚痴と幸福と醜悪がつまった、あの煌びやかな「酒場」である。

そこに広がる世界は、何よりも人間らしい、赤裸々な場所であり、「分かりにくい」カオスな場である。ここでは、みな平等だ。何でもかんでも、語り合いたいことを語り合えばいい。邪魔者は一切ない。そんな、資本主義社会における一種の安楽地なのだ、と。

しかし、わかる通り、「暖簾に腕押し」とは、実際は全く違う意味で用いられることは当然の事実だ。誰もがこう思う、このことわざは、原始的な理解を越えたところに、この言葉自体の実存があるのだ、と。ようするに、「暖簾に腕押し」という言葉そのものは、この「言葉」の意味を超越して、存在している。その超越性は、皆の心の中に存在しており、その事実性を相互に了承しているに過ぎない。

相互に了承し合う。このような、「社会的相互作用」は、行き過ぎることがなければ、実に倫理観の高いもので、かつ望ましいもののように思えてくる。あくまでも、行き過ぎることがなければ。

しすぎる関係と、しすぎない関係。それは、倫理的な超越性と、他者への配慮という美辞麗句を用いた権力の構造をここに見て取れるのではないかと、私は思う。しすぎる関係と、しすぎない関係の間にある、淡い関係性を見つめ直すことは、我々に必要な自己意識であるのではないか。


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「分かりやすいことが良いことである、というのはあまりよろしくないのではないか?」という感覚は、どうであろう。

初めに述べた通り、分かりやすいこと、は、それ自体は良い。言葉そのものとしての分かりやすさの追求は、利己的でありながら、他己的なもので、客観を重視した姿勢であるともとれるだろう。誰かに何かを伝えたい気持ちが、このような姿勢に現れる。

しかし、自己中心的な「分かりやすさ」とは、他者を排斥しがちである。その場合の「分かりやすさ」とは、自己が「分かりやすい」と解釈を施せる範疇であるということであって、その範囲は、「自己がその分かりやすさの解釈が可能な部分」のみ、ということなのである。

「分かりやすいことが良いことである」という、一部分の命題に対し、循環論法的に、その「分かりやすいことが良いことである」にかかわる材料をかき集めるのである。

そしてそのあとに、このように繋ぐ、「…というのは、あまりよろしくない」と。これは、自己矛盾につながる。「分かりやすいことが良いことであるということ」を、あまりよろしくないと解釈し、主張することは、その、「分かりやすいことが良いことである」という、あなた独自の解釈自体が《よくわかっていないと》、そのような判断は下すことができない。

「分かりやすいことがよろしくない」と申すのに、その人は、その主張について「よくわかっている」のだ。解釈し、咀嚼し、理解し、判断し、決定し、確信してしまっている。その、自分自身の、言葉そのものに対する態度が、実に脆弱なものであることに気付かされる。

何かを、「よろしくない!」と主張するのに、その主張を構成する解釈装置においては、「よろしい!」と言い、差異を設けて、差別しつくすのだ。


***


「の」「れ」「ん」「に」… ⇒ 暖簾があり、接続語があり、腕がある ⇒ 「のれんにうでおし(発音)」 ⇒ 「暖簾」「に」「腕押し」 ⇒ 「暖簾に腕押し」している風景を言葉で描写できる ⇒ 暖簾は軽いし腕を通すのなんて容易い ⇒ 簡単すぎて張り合いがないほど腕を通せる ⇒ 張り合いのないさま 
という「制限を前提にした」解釈経路。


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「自殺」

「自殺はよろしくない」、そのように主張する人が大半であろう。現代人の倫理観は、この回答への最短距離を知っている。しかし、前述した通り、「自殺はよろしくない」ことを、その通りだと解釈する自己とは、自己の内での循環論法に、故意にはまりこむことで安住しているに過ぎないことを意識すべきだ。

「自殺」という言葉自体は、全て印象と経験に基づいている。「自殺はよろしくないと解釈する」の「よろしくない」という部分に関して、「自殺」がいったいどのような事態であるのか十分に明らかでなければ、そのような判断を下すようなことはできない。

そして、「よろしくない!」と判断する心というのは、どこまでいっても、自己の絶対的な印象と経験に依拠している。それは、自己にとっては非常に「分かりやすい」解釈である。しかしながらその解釈は、自己の印象と経験で構築された、螺旋入れ子の無限循環論法の罠にはまっているものでしかない。

そもそも、そのような経験主義的な判断を良しとする経験を、いつどこで獲得したというのだろうか。

上記の、「自殺について」で、このように書かれている。

死の必然性は、さしあたり、次のことからも演繹させられよう。人間は単なる現象なのであって、いかなる物自体でも、したがってまたいかなる真実性でもない、ということ。というのは、もしも人間がこういうもの(物自体)だとしたら、彼が消滅し去る(死)ことはありえないだろうから。
「自殺について」p42

人間が語り得る「真実性」とは、すべからく形而下的な物であって、もし人間が物事の本質を語り得る「物自体」であるならば、それは形而上的な物ということになり、そのようなものは、決して死ぬことは無い。ということだ。

言い換えてみれば、「自殺」という言葉に付与された「真実性」とは、それは各々にとっては、各々の解釈でしかなく、それは絶対的なものではない、ということである。そして、「自殺」という言葉の形而上的意味合いは、このような各々の解釈、いわば印象をかきあつめつくして、それを合わせることによって練り上げられた「概念」である。

この概念というものは、死ぬことがないはずだ。しかし、その概念を生み出そうとする人間は、全て必ず死ぬのである。

絶対的な物は、なによりもすべての「本質」であり、その本質自体が崩壊することは考えられない。であるのに、その言葉(「自殺」や、「分かりやすいこはよろしくない」という言葉)は、容易に崩壊する。そして人間も、容易に崩壊し、死んでゆく。

時間と空間の客観において、人間は流動し、そのなかで「死」を迎える。人間というのは、物自体に関して、単に現象する媒介物に過ぎない。

「人は何事かを誤差なく語ることは出来ない」というわけだ。

幸福な人生などというものは、不可能である。
「自殺について」p99

「生きたい」という意志が、困窮を見つけだし、解決に至り、その後に退屈を生み、更なる困窮を生む。

非常にまで人生を悲観的に捉えたショーペンハウアーは、このような「生きたいという意志」という自己意識を、自分自身の個体の上において、制限することを前提としている時点で、偶然の幸福の可能性に期待をかけているに過ぎないのだ、と悟る。

人間は、生まれた時点で、何かに囚われている。それは、身分や階級だけではなく、とある思想においてもそうではないだろうか。そのような、ある種の困窮した状態というのは、生まれた時点で約束されてしまっているものだ。

懐胎と妊娠とは、「意志に対して再び認識の光が賦与された」ことを意味している。この光によって意志は再び己の脱出路を見出しうるのであり、また救済への可能性が新たに出現してきたことになるわけである。
「自殺について」p90~91

男女が交合し、子供を産み育むということは、それだけ「意志」に対する「認識」が、広角的になるということである。(けれどもこのような異性愛規範とそれに関わる妄想は現代には合わない思想であると思う。)

種を継続していく、という行為が「生きたいという意志」から発露され、その「生きたいという意志」の「認識」が更新されていくイメージであろう。

その先に存在するべき「認識」とは、「生きたいという意志の否定」への帰結へ向かうべきである、と述べられている。

「生きたいという意志の否定」とは、しすぎる関係を、しすぎない関係、要するに、何かしらの意志とその外部の間にある、淡い何かを見せるものだ。


***


「自殺について」を読了後、自己の中にある「生きたいという意志」が消え去ることはなかった。しかし、その意志の否定というのが、個体の消滅を表しているのではないという点に、非常に深い洞察があるとも感じている。

例えば、「自殺」という言葉について。「自殺」という言葉のイメージ、つまりは、この言葉が身にまとっている罪的なものについては、消えることは無い。また、「暖簾に腕押し」もそうだ。「暖簾に腕押し」は、私たちの相互的な認識によって、制限しあい、それを前提としているからこそ、成立する言葉であるのだから、それを不成立とするためには、成立たらしめる概念や「解釈」を崩壊させねばならない。「分かりやすいこと」も、そうである。

さまざまな、「意志の発露」について、または「言葉の意図」について、それ自体の認識を広げることの難しさを、「自殺について」の洞察として、色濃く感じることができる。

前回に私が以下のnoteに書いた、「同質性を拒む自己と他者」の形式のようにも見える。

自己は、他者が存在して初めて、存在できる。存在同士は、《同質化》に向かい、そこに安住することに、もはや我慢をしなくてもいいのだ。私は私だし、他人は他人だ。

私たちは、実は何もわかっていない。それなのに、分かった気で雄弁に語り得るような、ある種の危険な動物なのだ。このように、しみじみ思うに至らされた。


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