だい

実用的にみえないけど実は実用的みたいなことが好きな普通の社会人。

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クラシック音楽は「見るな!」「聴くな!」「理解するな!」

\\ 「「クラシック音楽の敷居は決して高くない!!」」 // 世界的に有名な指揮者であるグスターボ・ドゥダメルは、このコロナ禍とマッチした、クラシックの新たな可能性を引き出す活動を開始しました。 バーチャルリアリティー(VR)を使い、オーケストラの団員の一人であるかのように、クラシック音楽の世界を体験できる取り組み「シンフォニー・プロジェクト(Symphony Project)」がこのほど、スペイン・バルセロナ(Barcelona)で始動した。 VRを活用した、クラシッ

    • 依存し合う塔/『東京都同情塔』

      以下は、「東京都同情塔」を読んだ人、読むつもりがない人向けです。 目的地までの最短経路をGooglemapで検索する。検索の結果、「目的地まで車で〇〇分」と表示される。その瞬間、私は頭の中で目的地までのありとあらゆる時間を逆算し始める。目的地までは〇〇分かかるのだから、支度はこの時間までに終わらせて家を出なければいけないだろう。おのおのの支度のおのおのの所要時間はこれこれこれくらいで…そういえば昨日夕飯で使った食器を洗っていなかったのだった。今から昨日使った食器の後片付けを

      • 言いかたをかえる

        身体上にある細胞は今この瞬間も生まれては死んでいる。私自身が途方もない数の細胞から構築されている有機生命であるとするならば、今この瞬間私は私ではなくなっているということになる。死を迎える細胞への手向けをすることもなく、そして生まれ行く細胞を厚遇することもなく、その細胞のことをただ思う私は死に続けながら生き続けている。このように語る私はその事実を承知しているのだ。ならば、こうも認めなければならない。死に続けている私自身は、生きながらその死を認めていることになるのだと。そして、そ

        • 偶像の効用としてのカミングアウト①

          たとえばのお話。人類の持ちうる「思想」みたいなものを一箇所に集めることができるとして、そこは「矛盾」が生じないような理想郷になりうるのだろうか。A思想、B思想…AA’思想、BB’思想…、と全ての思想を列挙しつくしそれを解体した後に、組み替えなおして成立する全体像は人類の偶像となり得るのかどうか。 1,可能と志向する場合1、「偶像的全体」を見ようと欲求することに関して 図1で示す「偶像的全体」の存在が可能なのだと仮定してみる。それの存在以前の世界に雑多にあったA思想、B思想

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          誰かが死んだまま生きている

          1,ふと退屈した気分が私自身を取り囲むと、とりあえず何かしなければならないと考える。しかし、何もする気になれない。それは、「退屈」という気分が促した意識だ。 2,ふと居なくなってしまいたいという考えが私自身を取り囲むと、その逃げ込む先を自死に求める人もいるのだろうと考える。そして、その人は死に至る。 前者の例、そして後者の例も、具体的に言えば全く違うレベルでの行為だ。しかし、もっと一般的に言えば、その両者に関わる相違はほとんどない。 死とはどういうものなのかを、今実際に生き

          誰かが死んだまま生きている

          「ブラームス交響曲1番」と「僕」とその間にある「何か」

          ブラームス1番と惑星の本番が終わりました。 アマチュアらしく純粋無垢に楽しむにはまったくの似つかわしくない2曲を、練習時間に制限のある中どうにかやり切りました。もちろん心残りだらけですが。 ブラームスはシンフォニーという構造に怯えながら、それでも「何か」を越えるために長大な時間をかけて1番を書いたという事実、それを踏まえてこの曲に臨まないとなりません。それは、音符でもなく、ブラームス1番に付与されてしまった経験知でもなく、漠然とした「何か」です。漠然とした「何か」は、当初

          「ブラームス交響曲1番」と「僕」とその間にある「何か」

          「有限性の後で」/カンタン・メイヤスー

          p20 生起 存在の存在者を知覚する人間との根源的な共-帰属のことを生起という。 p25 相関性について 超越論的な視点、思弁的な視点の2つ p33 祖先以前的言明 現在のものとして普遍化が可能な経験に基づいているという点で、真である。 言明の普遍性は真であるが、その真理性の指示対象(世界の贈与なき世界)の実在との一致から生じていると素朴に信じるということはないのだろう。 化石を理解する私たちは、今の所与から、論理的に説明するしかない。過去のものとして与えられている現在の

          「有限性の後で」/カンタン・メイヤスー

          本来性がない疎外

          1,「本来性がない疎外」。つまり、「外側へはみ出た対象が向かう本来性は無いほうが好ましい」ということ。はみ出てしまった対象は、内側へ戻るために「本来性」を再度獲得しようと企てるが、その企ての必要性は全くないのではないか?ということだ。なぜ必要がないといえるのだろうか?1つの回答としては、その「本来性」は「~べき」という表現であらわされる規定みたいなものを当人に強制的に要請するからだろう。例えば、「おまえは馬鹿だから頭良くなれ」という発言がある。馬鹿は枠の外側にあるのだから、お

          本来性がない疎外

          とりとめのないメモ集2023

          5と10はきりがいい。6と11はきりがわるい。なぜか。 初対面のせつな、多様さが消える。 薄青色のジーンズ、紺のオーバーシャツ、白い靴。 「~みたい」という比喩のクソさ。 稚拙さは遅れてやってくる。 人は毎日、交差点で他人と衝突事故を起こす。 いつにおいても、自分の隣にあるものは重要なものである。 燃やすのなら、その燃やされたものは跡形もなくなるくらいに燃え盛ってほしい。そして、何もかも消え去ってくれたらいいのにと思う。 二度とスキニーパンツが履けなくなる、み

          とりとめのないメモ集2023

          光の届かないフラクタルな街

          10年前、特段入社したくて入社したわけでもない会社の転勤の関係でA市に赴任することになった。そこは地元の埼玉県K市に比べると、ひどく閑散として小綺麗な街だった。その閑散さは、今ここに同じように人間が暮らしているのかどうかさえ不安になるくらいのものだ。その人気のなさが、この小綺麗な街並みをつくっているのではないかと思うほどである。人がまばらに歩いている様子は、数学の自明の数列のように規則正しい。また、その歩道に敷かれているタイルは綿密に並べられて補整してあり、一切のズレが存在し

          光の届かないフラクタルな街

          1Q84年の月

          「月がきれいですね」を「あなたのことが好きです」と解釈する、夏目漱石の有名な表現がある。そこには、月がとても「きれいだ」という刹那的感覚を、あなたと共有できたらいいという欲求がある。「月がきれいですね」とぼくが言い、あなたにも「そうね」と言ってもらいたいという予測と期待がある。この予測と期待は、ある種の確信を伴っているものでもあるだろう。月がきれいであることに同意してもらいたいということは、月がきれいであるという感覚を共に分かち合いたいということでもある。何かを分かち合うとい

          1Q84年の月

          錆を凝視している。金属を腐食する錆。錆に腐食される金属。その両者の前後関係を考察する意味はほとんどない。私の目の前に、その錆が存在していることが重要だ。金属が晒されてきた歴史。錆が築かれてきた歴史。歴史を垣間見ている今の時間。時間自体が重要なのだ。錆は金属に対し絶対的な存在を誇示している。その状況を金属はどう思っているのか、私には知る由もない。知る必要もない。絶対的な存在を変更することはできない。だからこそ絶対なのだ。この錆を凝視していると、不思議とその錆に親しみのようなもの

          宿命的な記憶が流れをつくる運命的な河川

          ???はあの時の記憶を引きずり続けている。 その記憶は、壮麗に、美しく存在している。どこかにある重たい扉を開く瞬間にその記憶が始まり、そのたびにそこから漏れ出す刺激的な光に眼を細めてしまうのだ。つまり、その強い光が、美しさの記憶を蘇らせている。その記憶は「美しい」を伴いながら、私の記憶を呼び起こすのである。しかし同時に、その記憶の存在自体が光によって蒸発させられて見えなくなっていることも事実だ。夜間に走行する対面車両のランプによってその先にいる人間に気づくことができないように

          宿命的な記憶が流れをつくる運命的な河川

          今は、どうだろうか?

          家の中には「世界の幸せ」が詰まっていた。 おいしいごはんが待っているのも家だったし、好きなテレビを見ることができるのも家だった。気持ちよく寝れるのも家だったし、ゲームボーイを初めて触って興奮したのも家だった。夜中に灯りひとつで読む本の楽しさを教えてくれたのも家だったし、朝にだれかの声で心地よく自然に目覚めるのも家でだった。常にその場所には、幸せと思われる何かが詰まっていた。 今は、どうだろうか? 家の外には「世界の楽しい」が詰まっていた。 学校へ行くまでの道のりは新しい発見

          今は、どうだろうか?

          「実用的な生き方をする人が嫌い」という信念を持つ自分を好きになることはない『ノルウェイの森』/村上春樹

          私自身の問題ではあるのだけれど、普段からプラグマティックな考え方に完全に同意することができないでいる。実用的なことがあたかも正義であるかのように語る人を見聞きすると、その語り自体さえもプラグマティックに支配されているのではなかろうかと思うからだ。実用的なものへの称賛自体が、つまりは実用性に富んでいると思ってしまう。実用的に実用性を語るということ。全ては実際的で実用的であると実用主義者は語るのであるから、その語り自体も実用性に富んでいるのである。実用と実用の相互作用がここに存在

          「実用的な生き方をする人が嫌い」という信念を持つ自分を好きになることはない『ノルウェイの森』/村上春樹

          スキニーパンツくんとの出会い

          君とぼくが初めて出会ったのは、まだぼくが大学を卒業して社会の海に飛び込んだころだったことを記憶している。その出会いは、いくらか衝撃的だった。それは-幾分信じがたいことだけれど-ぼくは君に「全て」を見透かされていたからなのだ。文字通り、「全て」を。ぼくが経験してきたあらゆる喜怒哀楽の根っこを、君は太陽のような光量でもって照らし続けていたからなのだ。君がぼくの喜怒哀楽の中の「怒」と「哀」を注意深く照らし続けていたことも印象深く記憶している。たぶんだけれど、それらを照らしている時の

          スキニーパンツくんとの出会い