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直感

「素直に感じる」ということを直感というのかもしれない。けれども、「素直に感じる」とはなんなのだろうか。素直に感じたことには、真の素直さが表されているのだろうか。一旦直感を信じてみてもいいけれど、その直感の中にある素直さというものの正体が不明なままだ。正体が不明なものは怖い。怖いものは遠ざけたい。けれども遠ざけることはできない。だから、人はいつまでたっても素直さの「本当の意味」、広く言えば本質性みたいなものの存在を信じざるを得ない。直感を正当化できるような本質的なものの存在をどうにかこうにか作り上げて、それを絶対的なものみたいな存在にしてしまう。こういう絶対的な存在、自分が心の底から信じるに足る何かを作り上げることはとても大切。けれども、そんな絶対的な存在だって、実は自分の直感に頼っているということを忘れてはだめだ。直感とは素直に感じること、すなわち理性の前に感情が揺り動かされて発動する感覚だ。絶対的な存在も、私自身の直感の前では論理や理性に負けるんだ。直感とはなんぞや、と自分に問いかけ続けて作り上げた絶対的な何かを、またその直感で肯定し続けることは避けられない。自分自身の直感から始まった物語は、その始まりと共に、つまり自分が持っている直感と共に、進んでいくしかない。直感は何かに対して「好き」「嫌い」を生んでしまう。直感は2項対立の母といえるかもしれない。そして、直感から産み落とされた子供たち(「好き」「嫌い」)は、そのまんまの姿で成長していく。成長するにつれて形は変わっていくけれど、その子供たちの本質は不変だ。「好き」は「好き」のまま、「嫌い」は「嫌い」のまま。直感に判断された何かは、一生「好き」には「好き」と、「嫌い」には「嫌い」と、判断され続ける。とても悲しいけれど、それは仕方のないこと。しかしここに、直感で「好き」「嫌い」を判断した者自体の心に、母を疑う気持ちを挿入できたとしたら…事態は違う経路を辿るかもしれない。いろんな方法があるけど、2つの対立軸に別の軸を据え置いてみるのだ。「好き」「嫌い」の直感の原因はよくわかんないけど、少なくともそう思う前にできることは無くはないはずだ。自分の直感で「好き」「嫌い」と思うことは、ずーっとそう思うことを自分に許している状況と言える。「好き」と思うことで視野が広がったり狭くなったりするとこもあるし、「嫌い」においても同じだ。許している状況が何度も繰り返されれば、それだけ直感を無意味に肯定し続けることにもなる。それはいいこと?わるいこと?どちらともいえない。この質問を読んだあなたは、この質問の答えが無いことを悟り、直感的に答えを導くだろう…。答えがないなら答えなければいい。いいことかわるいことか分からないなら、どちらも実現させればいい。それができないなら、断定的な回答を避けるための努力をしてみたらいい。ただそれだけのことだ。

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