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宿命的な記憶が流れをつくる運命的な河川

???はあの時の記憶を引きずり続けている。
その記憶は、壮麗に、美しく存在している。どこかにある重たい扉を開く瞬間にその記憶が始まり、そのたびにそこから漏れ出す刺激的な光に眼を細めてしまうのだ。つまり、その強い光が、美しさの記憶を蘇らせている。その記憶は「美しい」を伴いながら、私の記憶を呼び起こすのである。しかし同時に、その記憶の存在自体が光によって蒸発させられて見えなくなっていることも事実だ。夜間に走行する対面車両のランプによってその先にいる人間に気づくことができないように、その記憶が「ある」ことは確かに否応なく思い出してしまうのに、その記憶の実体がどのような正体であるのかを知ることができないでいる。その記憶は、確かに私の脳内にある「何か」であるのだ。私の腕で届くほどの距離にその記憶を留めている脳があるのにも関わらず、その記憶の実体は何もわからずにいる。これは至極当たり前の話だけれども、それでいて不思議な事実に感じざるを得ない。ここにあるのに、ここには見当たらない、ということ。おそらく、間違いなく何処かにはあるのだろう。そうでなければ、記憶の有無の議論には決して辿りつかない。無いのであれば、その記憶に引きづられる私自身に気づくことは不可能だからだ。

記憶に近接することによって正体が暴けないのであれば、逆説的に遠ざかってみればいいのだ。遠くから眺めることができれば、刺激的な光から眼を守ることができるかもしれない。そして、光で蒸発する記憶を観察することができるかもしれない。それはあり得ない仮説ではないだろう。私は、どうにかして遠ざかろうと試みた、「その記憶を忘却するという方法論」によって。しかしながら、簡単な話、忘れようと思えば思うほど、その記憶の存在を忘れることはますます難航を極めた。忘れることで遠ざかり、遠ざかることでその記憶の正体を暴くことは、端的に言って徒労でしかないのだ。私は知りたいのか?忘れたいのか?矛盾した行為は自身の信念を揺るがせた。また、そもそも私自身が奥へ手前へ運動することで記憶から遠ざかったとしても、その記憶の実体の「体積のようなもの」が変化することも、ついになかった。私は「体積のようなもの」自体を記憶しているから、自前の方法論を駆使してその記憶を引き剥がそうとしたところで、記憶自体の存在がそこにあることに変化は無いのである。私が知るその記憶の「体積のようなもの」は、近くから見ても遠くから見ても、全く変化しないのである。つまり、遠ざかることの意味はほとんどないのだ。たとえば、遠くからやってくる列車は確かに徐々に大きさを増やしながら近づいてくるけれども、私はその列車の「体積」を知っているから、その列車が徐々に大きくなってはいないということを、正確に知ることができる。列車が遠ざかる時も同様だ。近くでも、遠くても、列車は列車でしかない。記憶は近づいてはこないが、いくら私が動いたところで何にも変わらずその記憶は正体を隠したままそこに鎮座しているのだ。よって、この方法論では、私はその記憶に引きずられている感覚を捨て切ることは不可能ということになる。秋のトンボが湖面と勘違いして車のフロントガラスに卵を産みつけるように、それはちゃんと「間違った行為」なのだ。その記憶は煌々と輝き続けている。輝きによって蒸発するその記憶は、蒸発しているにもかかわらず、その蒸発しているという事実を経験することで、ますます私の脳裏から離れることはなくなった。

運命的に、私はその記憶に引きづられ続けなければならない。宿命的な記憶に、運命的に引きづられ続けなければならない。宿命的な記憶が、私の脳内にある他の記憶も引っ張っているとすれば、この先も私は宿命的な記憶に引きづられ続けなければならない。なぜなら、宿命的な記憶が流れをつくる運命的な河川の上流をひとたび堰き止めてしまうだけで、全ては今に流れてこなくなってしまうからだ。

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