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「有限性の後で」/カンタン・メイヤスー

p20 生起
存在の存在者を知覚する人間との根源的な共-帰属のことを生起という。

p25
相関性について
超越論的な視点、思弁的な視点の2つ

p33
祖先以前的言明
現在のものとして普遍化が可能な経験に基づいているという点で、真である。
言明の普遍性は真であるが、その真理性の指示対象(世界の贈与なき世界)の実在との一致から生じていると素朴に信じるということはないのだろう。
化石を理解する私たちは、今の所与から、論理的に説明するしかない。過去のものとして与えられている現在のものである。

p45
2段落目

p49
アスタリスク以降はまとめなのでこの辺りが理解できれば良いかも。

p51
超越論的なものの力は、実在論を幻想にすることではなく、実在論を驚くべきものにすることにある。明らかにし工夫可能だが、しかしながら真である実際の、そのような近くにおいて、実在論は優れて問題提起的なものなのである。

p58
神は存在しないということは、いかなる矛盾もない事実だ、とカントは証明したい。
⇨そうでないと、デカルトは神を絶対的なものとして、見つけたことになる。
⇨カントの視点からみても、神があらゆる論理的要請に引き出されることになるもの自体になるため、それを退けたい。
⇨p59の黄色付箋

p61
思考は、世界のしかじかの法則によって世界の諸事実をたしかに理由づけられるわけだが、さらに思考は、理由律によりそうした諸法則のためにそうなっている存在について、つまり、世界それ自体のそのように存在するということについて理由づけられなければならない。
⇨Xは、Xの規定によってのみ、事実として存在せねばならない。

p63
私たちは、絶対的必然性であるような何かを一切考えずに、絶対的必然性を考えなければならない。

p69
1と2の問題。
1の事実の次に、2が確立する。
⇨相関項の事実性
⇨思考の諸形式は、演繹の対象になりえず、ただ記述の対象にしかなり得ない、「第一の事実」である。p70

p70
絶対者の思考可能性、不可能性。
強い相関主義者は、不可能性を選ぶ。
⇨それは、相関項の事実性の、どうしようもなさ、からくる。
⇨絶対的真理性は演繹できない。
⇨矛盾が絶対的に不可能だと知っているという主張は無意味なのだ。
⇨私たちに与えられた唯一の事柄は、私たちは矛盾したことは決して思考できないという事実のみ、とするのだ。
⇨強い相関主義者への反駁として、メイヤスーは、この上記した事実性を、世界の事物の単なる消滅可能性から区別することが本質的に重要だと考える。
⇨自然法則とは、事柄への偶然性を付与する。
⇨しかし、この自然法則という事実性は、世界の構造を成すと想定される不変項に関わっている。
⇨これにより、表像は最小限に秩序づけされる。
⇨相関主義者は、諸形式の事実性を主張する一方、それら諸形式が実際に変化しうるとは思考できないし、主張しない。p72

p78
強い相関主義においては、今や唯一の問いが残されている。相関についての条件づけられた必然性の近くに関わるものである。つまり所与及び言語の可能性の条件の資格である。

エックスはしかじかであり故にそれは存在するはずである、ではなくて、もし事実においてエックスがしかじかのものとして与えられるのならばエックスはそのようにしかじかであることを条件付けられているのである、このような問いになる。相関主義における議論はこうした条件の規定をめぐってなされる。すなわち、上好と言言を可能にする普遍的条件は存在するのかしないのかと言う議論である。

要するに、相関項における仮説的な事実は、その事実を条件付けるための更なる事実を要求する。

p80
相関主義は少なくとも、存在と思考の根本的な相関の事実性はいえる、と自負している。
⇨それにより、思考不可能なものは私たちに対し、他なるの思考はできないと言う私たちの不能性のみを突きつけるのであり、思考不可能なそれが他なる形で存在することの絶対的な不可能性をつきつけるのではないのだ。
⇨こうした発展の帰結は、絶対者を思考することの権利主張の消滅であるが、しかし絶対者の消滅なのではない、と言うことが理解されよう。というのも、相関的理性は、どうにもならない限界の引き受けを自覚しながら、絶対者へのアクセスを権利主張するあらゆる言説を、それらの言説においては何も、それらの妥当性の合理的な正当化には似ていないと言う唯一の条件下において、むしろ進んで正当化したのである。

要するに、存在も変わり得るし思考も変わり得るのであれば、根本的な存在と思考の相関も変化しうるであり、それは絶対者が消滅したと言うような相関主義が言う主張とは異なる様相を示す。

✳︎形而上学の終焉は、絶対者への権利要求の合理性を放棄した結果として、宗教的な激しい回帰と言う形を取ることとなった。
⇨相関主義に制圧されているがために、絶対者に関わる非合理的なものを批判する権利を、思考が手放してしまったと言う事実は、この現象の射程を考えるに、過小評価されるべきではない。p81
(強い主義は、存在と思考が別物であると考え、そこに相関を生む。)

p82
各人が自分の信仰を対立させあうしかないのだ、私たちの根底的な選択について証明可能なことは、もはや何一つとしてないのだから。言い換えるならば、思考の脱絶対化によって信仰主義の議論が生じるのである。
要するに、信仰は信仰を破壊し得る、このことが示すのは信仰主義は常に他の信心の価値を補強し毀損もし得ると言うこと。
⇨これによって、一般的に信仰こそが絶対にアクセスできる唯一の道だと言う権利を正当化してしまう。これによって現代は形而上学の終焉が認められ、そうした信仰主義よりも古いものであるそれ、形而上学に対する、勝利である。

p84
宗教化という言い方でしめしているのは、現代における思考から信心への接合の様態であり、信心に対する思考のほうの動きである、つまり、信心に対する思考の非形而上学的な従属である。
⇨ある特殊な形での、形而上学の破壊を経た上での信心に対する思考の従属、のこと。
⇨こうしたことが、脱絶対化の意味なのである。

p89
相関主義的コギト
思考を、存在との相互関係の中に閉じ込めるもので、それが覆い隠しているのは、思考が思考それ自身に関わると言う関係でしかない。

p90
共同体的独我論、監視管制のところから離れる事は大いなる外へのアクセスを想定している。それは延長実態に対して誠実な神が果たしていたのと同じ役割を、祖先以前的言明に含まれる数学に果たしていくものだ。
⇨祖先以前的なものは、それが思考可能であるために、絶対的なものが思考可能であることを要求している。
⇨しかしながら、これから探求されるべき絶対者は、独断論的なものではない。
⇨なので、私たちは相関的循環と言う障害物を乗り越える必要がある。何か絶対的なものを思考することが結局、私たちにとっての絶対的なものを思考することであり、故に絶対的なものについては何も思考できないと言うことになる。
⇨つまり、私たちに必要なのは、相関主義の強いモデルの網目を掻い潜ることのできる非形而上学的な絶対者である。
⇨相関主義があらゆる絶対論的思考を失効させるために用いている原理それ自体を、絶対化しなければならない。p91
⇨相関主義はある意味、本質的必然性の発見であると認めている。それは、私たちは私たちにとってのものにしかアクセスできない、即自的なものにはアクセスできないのだと言うことが絶対化されている。p92
⇨しかしながら、その事実は、絶対者が思考可能であると言うことであり、相関的循環によって妨げられていないと言うことである。すなわちこの相関項の事実性が絶対化されていると言う点である。
⇨ 事実による脱絶対化に力を与えているその源泉そのものが、正反対に、ある絶対的存在へのアクセスであると言うことを把握できるならば、私たちはいかなる相関主義的懐疑論でも達し得ない真理へのアクセスを開いたことになる。
⇨ 事実性を絶対化する。とは、存在するものがなぜ存在するのかを明らかにできないという、思考にとっての本質的な不能性を表しているものを絶対化する、と言うこと。p93
⇨そうすれば、私たちは最終的に思考の不可能性であるとこれまで誤って捉えていたことを事物の中に位置づけ直すことになる。
⇨あらゆるものに内在する理由の不在を、究極の理由を求める思考が逢着せざるを得ない思考の限界と考えるのをやめて、そうした理由の不在が存在者の究極の特性である、そうであるしかないのだと理解せねばならないのである。
⇨事実性は、あらゆる事物そして世界全体が理由なしであり、かつ、この資格において実際に何の理由もなく他のあり方に変化し得ると言う、あらゆる事物そして世界全体の実在的な特性として理解されなければならないのである。
⇨そしてこれは、知の有限性の印ではないと考えなければならない。p94
⇨あらゆるものにおいて、滅びを運命づけるような高次の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように守ってくれる高次の法則が不在であるからなのである。

p96
まず第一に、事実性の絶対化、なぜ相関的循環と言う障害を越えられているのかを説明せねばならない。p94
⇨あらゆる事物の別様である可能性は、相関的循環それ自体の前提である絶対的なことなのだと、うまく示すことができるならば、相関的循環が自滅することなくして偶然性を脱絶対化することはできない、と明らかになるだろう。
⇨偶然性は、私たちにとって、が、即自を相対化すると言う相関主義に固有の操作によって、免疫的に排除されていたのだと明らかになるだろう。
⇨私たちにとってのものが私たちにとってのものであると言うためには即自的なものも理解する必要があるし、その私たちにとってに対して相対化しなければいけない。なぜこれが私たちにとってのものなのかと言う事はすべからく自分の内から発するものではなく、それはもちろん相関主義者ならば何かと相対的に発生したものであると結論付けなければならない。
よってその2つの区別が思考可能であるには、暗黙のうちに偶然性の絶対性を前提としている。この点を論証する必要がある。
⇨私たちにとっての何かとは、私たちにとっての何か以外の何かを、対比してみて見なければわからない。私たちにとっての何かが「分かる」ということは、他のものとの対比に成功しているということであり、つまりは私たちにとっての何か以外の何かの存在を暗に信じていることを示す。つまり、さまざまな何かは、さまざまに存在するのだという事実が絶対化されている。


⭐️p96 死後の世界に関する議論

1 、キリスト教の独断論者、無神論の独断論者
キリスト教の独断論者は、私たちの存在は死後も存続するのであり、神の永遠の観想において、そうなのであるとする。神様のようなものは即自的なものであり私たちの有限さにとって理解不能な存在者である、と私たちの有限な理性によって証明可能だと言うことを証明した、と主張するわけである。
無神論の独断論者は、私たちの存在は死によって完全に破棄される、私が私たちを純然たる無にするのだと主張する。
この2人は即自的なものについて実在論の主張をしている。

2、相関主義者(不可知論者)
この2人の独断論者を、反駁する。つまり私がもう生きていない時に、何があるかを知ろうと言うのは矛盾している、と反論する。すなわち、人がも存在していないときに、何があるかを思考しようとすると言うこの矛盾である。

3、主観的観念論者
上の3人の主張を反駁する。
自然な理性にとって到達不可能な神と言うのも即自的なものであるし、また純然たる死にしてもそうであり、そのようなものは思考不可能であるとする。また、私がもはや存在しないと言うことを私が思考するなど不可能であり、そのように思考する私は現に存在していると言う事実ゆえに、自己矛盾になるしかない。

⇨2は、1と3を反駁できることを論じなければならない。
⇨その理屈は、私は自分を、「存在している理由を欠くもの」として、「このように存続している理由を欠くもの」として、思考していると言うことだ。
⇨思考不可能なものを思考できないが、思考不可能なものの可能性であれば、実在の非理由において、間接的に思考できるのである。p98

4、思弁的哲学者
1と3は、その選択肢においては絶対的なものが現れていないと主張する。なぜならば、絶対的なものとは、不可知論者が理論化するような別様である可能性それ自体であるからだと主張する。
⇨不可知論者が観念論上反駁するには、私たちは自分をも存在しないものとして思考することができると主張することが必要である。つまり私たちが可死性、無化、神の下での全く別様になる事は、いずれも実際に思考可能であると主張している。
⇨それは私たちが存在していることの、自由の不在、に依拠することで私たちを無にしたり根本的に変化させたりできる別様である可能性を思考できると言う事実によってである。
⇨この別様である可能性は、私たちの思考に相関的に思考される事はありえない。なぜならそれは、まさしく私たちの非存在の可能性を合意するからである。p99
⇨自分の中に、私自身の非存在の可能性が存在しているとする。しかし、その存在は観念論者からすると、私にとってのことであるし、今私が存在していると言う事実からそれは存在しないと言うことで、その想定は無意味であり不可能であると結論を付けるかもしれない。しかしながら、私自身に非存在の可能性が存在していないと言うふうに思考することも、もはやそれは不可能であると言うことになってしまう。要するに、今私が何かを考えていると言う事実を認めることができなくなってしまう。
⇨非存在に関することを私自身が思考することが、その私自身の存在に常に相関してしまう。
⇨よって実際に存在している私が、私の非存在に関する思考を不可能にする。
⇨これはまさしく観念論者の主張に他ならない。つまり、非存在の可能性自体を私の思考に相関的と考える、と言うことである。
⇨主観的観念論者に反駁するためには、自分に起こり得る消滅は、その消滅についての思考に相関せずに思考可能である、と私は認めなければならない。p100
⇨観念論者は、このような思弁的な仮説によって実在論や形而上学に対して理由を与えうるがそれは不可能である、と反論するかもしれない。
⇨しかしながら私たちは、思弁的な仮説に優位性があると答えなければならない。そしてその理由は、不可知論者自身が私たちに与えてくれる。
⇨すなわち、不可知論者は、別様である可能性を再び絶対化することなしには、脱絶対化できない、ということである。p101
⇨不可知論者の反論は、またもや絶対的なものとして思考されねばならない別様である可能性の思考可能性に基づくしかない。したがってそれが、あらゆる選択肢を開いたままにする。
⇨相関主義は、可能性を閉じるような1つの形而上学的な選択肢を真理としていると考えられるけど、それはどんな選択肢より優先的に実現する理由を持たないと言う、開かれた可能性を考えることでのみ可能である。要するに相関主義者は実際は、自分が言っていることの逆のことをしている。
⇨この開かれた可能性、この全てが等しく可能である、こそが再びそれを絶対的であると考えることなしには脱絶対化することはできない、絶対的なものなのである。
⇨別様である可能性を、絶対化することで、いろいろな可能性を解く、と言うイメージ。

p101
相関主義者はこのように言う。
様々な可能性がある事は確かに確認できるが、複数ある可能性にどのような優劣を持ってそれぞれの可能性が起こり得るかと言う事はわからない。それは私たちが、存在と思考の相関にあるからであって、それはつまり無知ゆえの可能性が横たわっていると言う状況に面しているのだ。なので複数の可能性が実在的な可能性としてあるのではなく、無知が故の可能性が複数あると言う考え方をする。一方が起こり、また一方が起こらない場合と、一方が起こり、かつ一方が起こるような、いろいろな可能性の出来事も示すことができるけれども、それらの可能性全てが実在的なものかどうかと言う事はわからないし主張することができない。私たちがわかるのは相関の中でこのような起こり方が可能性として複数存在すると言う状況にいるだけだ。

思弁的哲学者はこう返事をする。
無知ゆえの可能性が複数あると言うふうに言ったが、なぜそのような思考に至ったのかと考えたことがあるでしょうか。実のところ、このような可能性の絶対性、つまりその非相関的な性格を実際に思考するに至っていなければ、この無知による可能性を思考するには至らないのではないでしょうか。様々な論に対しての懐疑的な論証が単なる信念ではないのだとしたら、その論証の核心が思考可能であることを、あなたは認めなければならないのではないでしょうか。その確信とは私たちが私たちと世界を含むあらゆる事物の非存在の可能性、または別様である可能性に到達可能である、と言うことではないでしょうか。振り返ってみれば、あなたたちは私たちにとっての世界、または即自的な世界を想定し得るけれども、それはあらゆる事物の可能性の絶対性を思考可能だと言うことを示しているのであって、そうでなければ、私たちにとっての世界や即自的な世界を区別する事はできません。別名である様々な世界を想定することができると言うのは、別様である可能性の絶対性が思考可能であるからである。
⇨別様である可能性、つまりあらゆる事物の平等で無差別の可能性を示す「非理由」を、単に思考に相対的であると言う事は考えられない。
⇨なぜなら、非理由を絶対的なものと考えることでのみ、私は独断的なあらゆる選択肢を脱絶対化できるからである。
⇨理由がないと言うことを絶対化するにあたって、それが単に思考に相対的だから無理だと言う事は言えないのであるのは、私たちが様々な可能性を実際に見ているからであって、例えば独断論であったりとか観念論であったりとか、様々な可能性を観測できていると言う事実がある。つまりその可能性を観測できていると言うのは、非理由の絶対化によって様々な可能性が逆説的に解かれているからこそ観測できる事実であり、ある種の脱絶対化を行っているということである。

p104
相関性と事実性。
この2つの決定のうちの1つを暗に絶対化することでしか、機能できないものがある。例えば観念論に対して相関項を絶対化することを選んでみる。しかしながらそれは、事実性を絶対化すると言う対価を払ってできることなのである。
逆に思弁的な選択肢に対し、事実を脱絶対化することを選んでみた場合、その場合は相関性の優位に従属させこの事実性は私にとってのみ真であり、それ自体に置いて必然的に真なのではないと認めることになる。
⇨脱絶対化をするために、他方を絶対化する必要があると言うこと。
⇨ゆえに私たちは、相関項の絶対化か、もしくは事実性の絶対化か、と言う2つの循環の支配から逃れる道を持っている。
⇨すでに神の存在論的証明を斥けているので、ここでは事実性の絶対化を採用する必要がある。永遠の相関項、と言う主観主義的な形而上学が拒否されなければならない。p105
⇨事実性にかかわる絶対的な存在と言う想定が独断的なテーゼにならないことを、次に確かめていく必要がある。
⇨私たちの求める絶対者は独断的であってはならない。
⇨よって、何かしらの特定の存在者が存在することの必然性を主張するのではなく、あらゆる存在者が存在しないかもしれない可能性の絶対的な必然性を主張する。
⇨この存在の証明は間接的ないし反駁的と言えるようなもので直接的証明のように他の命題から原理を演繹するのではなく、その原理の真理性を疑うならば必然的な不条理が生じるのだ、と明らかにするものである。
⇨その原理に疑いを向ける者が、実はその原理を真として前提した上で、それに疑いを向けていると言うことを示すことで、演繹なしにその原理を証明する。p106

p107
存在の即自が、私たちにとって、と別であり得る絶対的な可能性を思考できるからこそ、相関主義者の議論は有効性を持ち得る。
⇨と言う事は、神や私と言う存在はその二者を区別できるからこそ存在させることができるのであって、この2つの存在は相関主義者による無知による可能性であり、この可能性を絶対化している。そこには様々な可能性があると言う理由律から逸脱している性質がある。この性質について反駁する事は、この性質を前提とすることなのである。その絶対性に反駁する事はそれを前提とすることなのである。このことについてメイヤスーは時間の概念と結びつけて考えている。
⇨時間の中で様々なものが生じたり滅んだりするけれどもそれは時間の中でのことであってつまりそれ自身の中で、と言うことなのである。例えば時間が消滅するとしたら、時間が時間の中で消滅するとしか考えられない、したがって時間は永遠であると考えるしかない。しかしながらここで十分に気づかれていないのは、こうした凡庸な議論が機能するためには決して凡庸ではない時間を前提にしていなければならないと言うこと。例えば、いかなる法則性もなしにあらゆる自然法則を破壊できる時間であったり、それは単に自然法則に従っているあらゆるものを破壊するだけなのではなく何かの定まった法則によって規定された時間が崩壊し、それではない時間へ、つまり他の法則によって支配された時間へと変わり得る可能性は十全に考えられる。p107
(時間とは、あらゆるものを滅ぼしたり生じさせたりできる観念である。)

p108
経験的偶然性と絶対的偶然性。
⇨絶対的偶然性のみを、偶然性と呼ぶことにする。経験的偶然性は、破壊可能性を指す。それはつまり、経験という相関によって破壊される偶然性である。

p109
存続するのではなく破壊される方を必然的とする理由がどうやって得られるのかわからない。
⇨理由律から十分に身を離すならば、特定の存在者の破壊も永遠の存続も、いづれにせよ理由なく起こり得なければならないのだと言う主張が要請される。
⇨偶然性とは、なんでも起こりうると言うことであり、何も起こらないかも知れないと言うことであり、また、現に存在するものがそのままで存在し続けるということも偶然的なのである。
⇨強い相関主義は、決して理由律の放棄ではなく、理由律の不合理なまでの信仰を弁護しているのである。(信仰対象の思考不可能なものは、思考不可能なものとしてそこに存在している。この価値は超越的に存在することを正当化するのに足りている。強い相関主義は、理由律に従い続けているがゆえに、このような信仰主義的な全き他者の信念と共犯関係にあるのだ。)
⇨思弁は逆に、理由律の外部への思考の解放を際立たせる。

p110
相関的循環を抜け出す道は、事実性である。
⇨事実性とは、別様である可能性、偶然性の必然性である。
⇨しかし、この事実性の絶対化は、独断的であってはならないと、前に述べられている。絶対化とは、確実な認識をその上に打ち立てることが期待されるのに、事実性の絶対化には、その極端な形が求められている。つまりそれは、ハイパーカオスである。
⇨ハイパーカオスは、思考不可能なものは一切ない。ゆえに、この絶対者は、求められていた絶対化から最も遠いような、つまり即自的なものを記述する数理数学を可能にするものから、最も遠いのではないか?(即自は物自体である。物自体は物の本質であり、唯一的である。ハイパーカオスを絶対化して、この即自的なものを導けるのか?と自己問答している。)
⇨カオスが神で、その派生が数学的絶対者だとする。これでは、秩序を保証するどころか、崩壊可能性のみを保証するものなのだ…。p111
⇨カオスはいかにして、祖先以前的な認識を正当化できるのだろうか?p112

p113
カオスの全能性の自己限定、自己正常化。
⇨私たちは実はカオスの全能性以外の必然的命題を作ると言う条件のもとでなければ、絶対知を展開することができない。つまり、カオスの全能性を全能性そのままではなく、カオスの力を規範的に制限するものを見つけることを意味する。しかしながら、カオスの力を規範に服させるような上位のものはない。カオスはカオスに作用するのであって、その規範でさえもカオスから作用されるものである。カオスの唯一の必然性は、カオスであり続けると言う事だけ。また、ハイパーカオスは自己制限を有していて、偶然性のみが必然的であるのならば必然的に存在してはならない、故にハイパーカオスは無矛盾律を満たさなければならないと言う点である。
⇨カオスがそのように偶然的、非必然的である事は、実は、存在者にどうにでもあり得るわけでは無いことを強いるのだ。
⇨カオスの全能性はカオスであって、存在者はその絶対的なカオスをカオスのままに感じとる事は不可能であって、それを可能にするのが何かの制限である。その制限と言うものが偶然的、非必然的といった性質にある。よって存在者はそのような存在になるために、何でも良いのではない諸条件に従っている、つまりカオスな条件に従っているのではないと言うことである。そして私たち存在者は存在するものの絶対的本性とそのカオスから抽出した性質が同じになる。
⇨非理由は、単なる不条理ではない。それは存在者の、非存在の可能性と、別様である可能性のために従わねばならない制限を確立しようとする言説である。p114
⇨私たちがカオスから感じている絶対的なものというのが、非存在の可能性と別様である可能性、この2つの可能性のために従う必要のある制限そのものである。これをどうにかして絶対的なものであるとして確立する必要がある。
⇨以上のことから、今のこの世界のカオス抽出物とはまた別の、他の世界のカオス抽出物も存在していると言うことであろう。カオス抽出物から得られた存在者も実際にカオスであり別様であるのであって規定的なものではない。そしてカオスが前提となった世界も、いろいろな世界があり得るはずだということがわかる。
カオスが絶対的なものとして、また全能的なものとしてそのままこの世界の存在者に反映させるとすると、それはカオスによって別様である様々な個人が存在していると言うことになり、そのようないろいろなものがあってわからないと言うような事実が絶対化され、つまりは絶対化された個人と言うものがどこに自分の絶対的なものをさぐればいいのかと言うものが不在になると言うことである。これは近代的な有限性である。著者が論じているのは、カオスの全能性が全て反映されるわけではなく、カオスはまさにカオスとして存在しているのだから、そのカオスがカオスになった状態でどのようにこの世界に反映したかと言うタイミングが、今ここに表されている。とすればカオスから導かれる世界と言うのはまさにカオスから選びとられた1つの選択肢に他ならないことであって、そこに存在している人間も、もはや人間として存在していると言うことがその1つの選択肢から導かれたことなのである。なので、このカオスの1つの切り取られた側面、つまり私たちの絶対的本性を明らかにすることが、カオスを明らかにすることにつながる。そしてそのカオス自体は本当に無数の世界を生み出しうる根源であると言うことが、順を追って導かれるはずなのだ。
⇨ここで、カオスはカオスであり続けるためには、実は思考不可能なものを生み出すことができないのだ(いわゆる無矛盾律に即して考えると、ということ)と立証することができないだろうか。p115
⇨もっと正確に言えば、私たちがこうして問うているのは、偶然の必然性はカントが物自体について、その思考可能性を担保するものとして定式化した2つの言明(物自体は無矛盾である。物自体が存在する。)の絶対対的真理を要求するのではないかと言うことだ。
⇨カオスを制限し、物自体を見ることは論理的にできないのだろうか?p114


p115
1 必然的存在者は不可能である
2 存在者の偶然性は必然的である
この二つの存在論的言明で、物自体に対するカントの言明(物自体は無矛盾である。物自体が存在する。)の真理を推論することができるだろう。

p116
◎1のテーゼ
「矛盾した存在者は絶対的に不可能である、なぜなら、存在者がもし矛盾するものであるならば、それは必然的なものになるだろうからだ。必然的存在者は絶対的に不可能なのである。(偶然性の必然性は、偶然しかないはずだから)したがって、矛盾も同様に絶対的に不可能なのである。」

(a)
矛盾した存在者は、なんでもないものなのだから、何も主張し得ないのでは?
⇨矛盾した存在者を、矛盾しているということを、そもそも人はどうやって知るのか?
⇨その思考不可能性から、絶対的な不可能性を推論することはどのように可能なのか?
⇨つまり、上の最初の反論は、矛盾した存在者に関する主張は無意味だということを、正当化せずに主張しているのだ。

(b)
無矛盾の真理性の議論それ自体が、論点先取を犯しているのではないか?議論には合理的な推論が前提なのだから、無矛盾律を前提としているのいう点で、議論それ自体が立証しようとしていることを認めた上でなされてるだけではないか?
⇨無矛盾律とは、思考可能なものの規則についてのみを言っており、可能的なものの一般についての規則ではない。
⇨存在者が必然的でありえないがゆえに、存在者に論理的一貫性がなければならないからではなく、矛盾の不可能性という結論が導かれる。なので、この議論は前提が異なるので、循環論法には陥らない。矛盾の不可能性をあらかじめ認めているのではない、ということだ。

(c)
しかし、また次のように反論されるかもしれない。この議論は循環的だ、と。矛盾の絶対的不可能性が導かれたのちに、それを前提とした議論が展開されてるにすぎないのでは?
⇨矛盾の絶対的価値を認めていないのであれば、その場合になぜ、矛盾から存在者の必然性のみを推論し、存在者の偶然性は推論しないのか?
⇨つまり、「存在者は必然的かつ偶然的である」という命題が矛盾っぽいから、特定の命題「矛盾であることは必然的であることであり、その反対に、偶然的であることではない」を推論する。この矛盾っぽい命題を前提としているからこその、議論なのではないか?まず初めの命題を、偽が真として展開すること、すなわち、無矛盾律の絶対的な価値を先に確立しちゃっているのではないか?
⇨この反論は、3つのうち最も深刻。対抗する必要がある。

矛盾を想定するときに純粋に矛盾を想定できるわけではなく、そこには矛盾していない状況の想定が含まれている。だからこそ、矛盾を矛盾として想定する事はできない。AとBと言う事象がありその両者において何が矛盾しているかと言うことを想定した瞬間、その矛盾に対する矛盾していない状況も想定されている。
メイヤスーの論じているポイントから、矛盾と言うものは思考不可能であると言う。その理由は、矛盾が思考可能であればその矛盾の中に存在している対象は何かしらの必然性を伴って存在していることになる。そうなってしまえば、その必然性を伴った対象によって相関の波にさらわれてしまうことになってしまう。その波にさらわれないためにも、まず矛盾の思考は不可能であり、矛盾した存在者と言うものも存在しないこと、この点の論証に勤めている。

p119
★矛盾した存在者=カオスにおいて唯一、生じることも消え去ることもできないもの、つまり、あらゆる生成変化、変容から排除されているもの、それは、カオスの偶然性の全能性を台無しにする「不変のもの」
⇨矛盾した存在者は、存在しなくなるときでも存在し続けてしまう、いうことをみてきた。
⇨したがって、もしそういう存在者が存在するならば、端的に言って、それが存在しなくなることはありえないだろう。にもかかわらず、平然とそれは存在しないことをその存在に含ませているのである。(矛盾するということは、矛盾という性質を付与するような他物が存在するということであり、いわゆる契約を結ばれているということである。この契約は、多方面からなされるので、存在しなくなるためには、その契約を破棄する必要があるのだろう。)
⇨こうした存在者、つまり実在的に矛盾したものは、ゆえに、完全に永遠的なものなのである。
⇨矛盾した存在者を存在に導入すれば、規定という概念までもが破壊される。そのような存在者は、「あらゆる差異を吸い込むブラックホール」である。そこでは、あらゆる他性が取り戻せなくなる。
矛盾を自己の中で想定することは、つまりはありとあらゆる規定を、また別の規定で均すことを言うのだろう。
⇨生成変化においては、事物はまずこれであって、そして次にこれの他のものであり、と言うふうになる。事物が存在し、そして次にもはや存在しなくなる。そこには矛盾は全くない。
⇨実在的に非論理的な存在者と言うのは、むしろ正しく、あらゆる生成変化の最小限の条件を徹底的に破壊するものなのである。それは具体的な生成変化のプロセスが展開するのに必要な他性の次元を消去する。
⇨持論:つまり最初の条件から存在者がもしくは事柄が生成変化を起こし次の段階ではその前の存在者もしくは事柄が存在しない事態が起こると言うことであるので、前と後の存在者や事柄と言うのは矛盾することがない。この生成変化の中に矛盾が生じると、その矛盾が最低限の条件として規定され、その矛盾した事柄や存在者によって生成変化が規定されてしまう。これは最初の次元を徹底的に破壊する存在者となる。
矛盾した存在者にとって他者であると言う事は、その存在はそれの他者でもあると言う事実からして、それ自身以外ではありえないと言うことに等しくなる。よって矛盾のある存在者はあらゆる他性を破壊し尽くす。
⇨変化を起こさせうるあらゆる他性の次元を無化にし続けている。p121
⇨あらゆる事物を差別化し、この存在者が別様であることを考える全可能性を破壊している。差異をふたたび導入する、したがって思考可能な生成変化を再び導入する唯一の可能性は、矛盾した言明を許容するのをやめることなのだ。
⇨存在するものが生成変化し得るためには、そしてしかじかの他の仕方で規定されるためには、そもそもしかじかの仕方で規定されている必要があるのだ。(そもそもの規定というものが、制限されたカオス、つまり物自体ということか?)これがあれに、またそれ以外のものに生成変化し得るためには、これがこれであって、あれでもそれ以外のものでもないのでなければならない。
⇨無矛盾律は、何か固定した本質性を示すのではなく、存在論的な意味としては偶然性の必然性、言い換えれば、カオスの全能性なのだとわかるのである。
⇨つまり無矛盾律が前提になっていると言う反論に対して、まず私たちは非理由律から無矛盾律が存在論的に絶対的な真理であることを知ったので、そもそもこの無矛盾律が無意識的な偶像的な事実となったわけではない。そして理由なしと言う前提は全てにおける相関を退くためのものである。
⇨理由律が絶対的に偽(つまり、理由なしが絶対だということ)であるからこそ、無矛盾律は絶対的に真(つまり、矛盾した存在は存在しない、ということ)である、と言うことである。p122

p122
◎2のテーゼ
「私たちにとっての現象的領野のみならず、即自的なものの領野があるだろう」というテーゼ。
⇨ライプニッツのテーゼ:なぜ何かがあるのであって無ではないのか、と言う問い。
⇨即自的なものが存在する事は絶対に必然的であって、したがって即自的なものが無へと消える事は無いと言うことの証明を行う。
⇨反対に私たちにとっての領野は本質的に可滅的である、なぜならそれは思考する、そして、あるいは生きている存在に相関的だからである。
⇨つまり私たちが死んでもそれに伴ってあらゆるものが無に帰することではなく、あらゆる世界への関係が消滅したとしてもそれ自体における世界は存続するはずだと言うことを証明すると言うこと。

p122
形而上学の観点、信仰主義の観点を拒否せねばならない。
⇨例えばライプニッツの問いを理性にとって無意味だと主張する事は無神論ではなく、現代的な形での信仰者の立場であってそれは、懐疑論信仰主義的なそれである。何かの主張はその主張の中には何かがあると言うことを確信していてそれに驚嘆するものが信仰者である。信仰者は何かがあると言うことに全く理由がないと信じているからである、存在は純粋な贈与であり、あるいはそれはおこらなかったかもしれないのだ。
よってこのように対立軸を作る……

p123
1、ライプニッツの問い対して《神/原理》
原理による合理的な主張可能性

2、ライプニッツの問いに対して《神/全き他者》
理性の管轄から解放できると主張する立場

p124
これらの問いは解決されなければならない。なぜならそれを解決できないとしたり無意味であるとしたりするなら、それを崇め奉ることになり正当化してしまうことにつながるからである。しかし、その解決は私たちを第一原因の特権性と高めるものであってはならない。そこから身を解き放つ必要がある。このような問題に対する唯一正しい態度は、大したものではないと言う態度、あるいは、魂の震えのようなものなど、嘲笑的であろうと深淵であろうと、不適切だと言う態度である。
⇨なんだ、そんなことでしかなかったのか、と言うような冷めた態度が求められる。なぜなら意味があったり無意味であったりと確信するのであればそれは信仰主義につながるからだ。

p124
事実性は絶対的であると言う言明。
⇨ 事実性は起こらないこともあり得る1つの事実なのではない。絶対的であるならば必ず起こりえなければならない。
⇨ 非理由律の意味は、事実性とは世界に付け加わるもう一つの事実なのではないと言うことだ。すべての事実が存在し、かつそれらの事実性が存在し、と言うように前者に後者が追補的な事実として加わるのではない。
⇨非理由律の弱い解釈及び強い解釈。(事実性の非事実性)


◎現象の絶対「非理由律の弱い解釈」とは
偶然性が必然的だと言うのは、もし何かが存在するのだとしたら、それは偶然的でなければならないと言うことである。
⇨事物が事実的であるのは必然的なのではなく、1つの追加の事実ではないと主張している。

◎実体の絶対「非理由律の強い解釈」とは
偶然性が必然的だと言うのは、事物は偶然的でなければならず、かつ、偶然的な事物が存在しなければならないと言うことである。
⇨事実的な事物がないのではなくあるのは、1つの追加の事実ではない、と主張している。


p125
弱い解釈は、この原理の最低限の意味として認める必要があるけれども、しかしながら、事実論性の原理への同意は、強い解釈の同意なしでも可能である。
⇨確かに、もし何かあるならば、それは偶然的でなければならない、しかしそれは決して、何かがあるのでなければならない事の論証にはならない。事物がもし存在するのだとしたら、必然的にそれらは事実でなければならない。しかし事実的な事物の存在を強制するものは何もないのだ。したがって、なぜ無ではなく何かがあるのかという問いは、次のような形をとる。弱い解釈に留めておく先程の主張とは反対に、非理由律の強い解釈を正当化できるか、という問いである。

p126
強い解釈の正当化を確立するために、まず弱い解釈だけが妥当であると言う想定から始める。
⇨私たちが言わねばならないのは、事実的な事物が存在するのは、事実であって必然的ではないと言う事だ。
⇨ 1つの事実を認める際にその事実に対する事実性を認めなければいけない構造がある。事実性とは別様である存在を認める性質のことであってまず1階の事実性を存在するものとして認めることが必要である。その段階ではこれは事物の事実性であるので、あらゆる規定された事物や構造が存在しないと言うことも思考できるようにする必要がある。その次に、二階の事実性が存在していて、これは事物の事実性の事実性なので、事実的であるような事物が存在しないために一階の事実性が生じない、と言う可能性も生じさせる必要がある。
⇨しかしながらこの構造だと、各階層でとある事物の事実や、事物の事実の事実を絶対的なものとして思考可能であると認めなければいけないのである。
⇨世界全体が存在しないこともあり得るものとして、あるいは現にあるような仕方で存在しないこともあり得るものとして思考され得るためには、私は世界全体の可能な非存在、その事実性が、私によって絶対的なものとして思考可能であると認めなければならない。
⇨また可能な非存在とは、私自身の可死的な側面であるということである。これを把握するには、私は自分の死、つまり自分の可能な非存在を、絶対的可能性としなければならない。
⇨つまり私は、事実性の絶対性を疑おうとしても、それを直ちに絶対的なものとして反復するしかないのだ。
⇨とある事物の事実性から発生する無限退行。p127
⇨つまり「事実性の必然性を疑う」と言う行為は、事実性の絶対性を思考内容として否定しながら、当の思考行為として事実性の絶対性を想定するが故に、おのずと反駁される。
⇨とある事実性をそれはそれで1つの事実であると認めるのであれば、また別の事実性を絶対的であると言わなければいけない。そして、これは反駁される。なぜならば何かが絶対的であるものとして思考可能であると認めなければならなくなるから。そうなってしまえば、第一原因であるカオスとはカオスではなくなり、常に何か想定されたカオスが根拠となっていることになるからだ。それはカオスの顔をした偽りのカオスである。
⇨なので、事実性は世界における事実の1つ、追加の事実としては考えられない。事実論性の原理の一環した解釈は、強い解釈でしかありえない。すなわち、事実的な事物が存在すると言うのは、事実の1つではなく絶対に必然的なことなのである。

p127
上記の内容に別の反論が介入してくる。
【以下反論】
⇨偶然性と言うのは存在しなかったかもしれないが存在するものや出来事に関する肯定的事実を指すだけではなく、存在したかもしれないが存在しないものや出来事に関する否定的事実も指すものである。

つまり
偶然性は必然的にあると言うのならば、存在し得るが存在していない事物があることもまた、存在しないこともあり得るが存在している事実と同様に、必然的であると言わねばならない。
⇨ではなぜ、偶然性は否定的事実のみの偶然性として存続し得るのだろう、と言わないのか。

偶然性の必然性=
1、存在し得るが存在していない事物がある
2、存在し得るが存在している事物がある
3、存在し得るが存在していない事物がない
4、存在し得るが存在している事物がない
5、存在し得ないが…
6、存在し得ないが…
7、存在し得ないが…
8、存在し得ないが…

なかには、否定的であり続ける理由がない否定的な事実があることもまた、存在しないこともあり得るが存在している事実と同様に、必然的であると言わねばならないだろう。
⇨上記のパターンがカオスのただなかで潜在的にとどまっているのだと考えても、二次性を放棄することにはならない、なぜなら否定的事実は否定的であるにしても事実だからである。
⇨ならば偶然性は、存在するようになることへの決して現実化されなかった可能性や傾向性のみを指すことになるんだろう。
⇨もし何らかの存在するものが事実上ずっと存続しうるのだと認めるならば、同様に、あらゆる存在しないものが事実上、その潜在的な存在にずっと留まり続けることもできる、と認めなければならない。

つまり、反論者は事実性が絶対的なものとして思考可能である事は否定しておらず、事実性の絶対性は否定的事実のみの絶対性として考えることができると主張している。
⇨事実性の必然性は、もはや肯定的事実の存在を保証するものではない。p128

【以上反論への対応】
事実性は存在と非存在と言う2つの領野が存続すること、それが事実性の思考可能性の条件それ自体である。
⇨何らかの存在性偶然的であると考えるとき、その存在者の存在それ自体を偶然的であると考えることができない。
⇨なぜならば、存在の場所は、実際、私はそれを決して思考できない。存在しなくなると言うのは、何か特定の存在者の生成変化としてのみ思考可能であって、存在一般の生成変化としてではない。
⇨持論:存在が偶然的に存在していると言う事は、別様の可能性が含まれていることであって、その存在一般に関しては決してその偶然性からその存在を消す事は絶対にできない。なぜならば別の可能性が含まれていることが絶対化されているため、その存在者が存在しなくなることを認めることができてもその存在論的に不在になると言う事は思考ができない。別様の可能性を絶対的なものとして含めるのであれば、私自身は非存在をそれ自体のものとして考えることができないのである。つまり、私と言う存在は、私の存在自体や私の非存在自体を、自由に考える事はできないと考えなければならない。
⇨結果として、否定的事実のみの偶然性を考えることもできないのである。(←反論) p128

p129
「無ではなく何かが存在する事は必然的である、なぜなら、他のものでない何かが存在する事は必然的に偶然的だからである。」
私たちは存在しないと言うことも現時点から想像することができるけれども存在しないと言うことをそれ自体として認識する事は決してできない。想像できても私が存在しないと言うことが絶対的なものとして考える事は不可能なのである。なので上記のように書かれているが「無ではなく何かが存在する事は必然的である」と言うのは、まず何かしらが存在すると言うことが必然的であることが前提にないと事実性の論理に私たちを組み込むとことができなくなるためである。そして次に「他のものでない何かが存在する事は必然的に偶然的だからである」と書かれている。存在するということが必然的にあるので、第一原因をカオスにゆだねている私たちは、その私たちの必然的な存在は、存在に揺れたりまた非存在に揺れたり、事実性、いわゆる別様の可能性を含むことが可能であって、それが必然的に偶然的なことであると表現されている。

p129
非形而上学的な思弁は、まず第一に、物自体とは表像の超越論的諸形式の事実性に他ならないと言明するものである。
⇨持論:つまり私の目の前に現象している表像物は、アプリオリな形式によって物自体に同一視できないものではないということではなく、別ような可能性のそれ自体である。
⇨形而上学的理性ではない、思弁的に理性的なものを目指す。p130

p133
事実論性と言う用語で、事実性の思弁的本質を示すことにする。すなわち、あらゆる事物の事実性それ自体は、事実の1つとしては思考され得ないと言うことである。
⇨事実論性は、事実性の非事実性として理解されるべきことである。

p133
事実性を事実性それ自体に帰属させることの不可能性を、「事実性の非二重性」と呼ぶ。
⇨独断的ではない思弁よって到達できる、唯一の絶対的必然性の発生を示している。

p134
非理由律=事実論性の原理
⇨ただ事実性のみが事実的なのではない。p134
⇨言い換えれば、存在する者の偶然性のみが、それ自体、偶然的なのではない。

p138
思弁は、経験的に一定である事物のその現象的な普遍性に捉えられた状態から、私たちを解放し、その普遍性を実は一貫して支えている、純粋に知解可能なカオスに至るまでの私たちを高めるのである。
⇨一般的に行われてきたような転倒、つまり諸感覚による幻惑と現象的時間に対する立場、生成変化は現象の側、知性は不動者の側であると言うような共通の信念を捨て去り、それとは逆に、知的直感に従って、感覚可能な生成変化における普遍性の幻想を告発することが重要である。
⇨現象の見たところの連続性の下にあるカオスへのアクセスは、思考によってされるのであって、それは知的直感を持っている。そのような思考的な直感によって偶然性にアクセスすることができると考える。
⇨思考が究極の理由を発見するのに不適格であると言う発見にしてしまう限りではない。そのような発見が、最もうるすべき形態の宗教を復活させてしまう。そのような復活でしか、形而上学を伏せ去ることができない。しかしながらそれは形而上学を捨てたことにはならない事はわかることである。そのためにも私たちはまなざしを非理由へと転じなければならない。
⇨他でもないこの仕方で事物が存在しなければならない理由が存在すると信じている間は、私たちはこの世界を1つの神秘にするだろう、なぜならそうした理由は私たちに与えられる事は決してないのだから。

p139
(反論)しかしながら、事物のみならず自然法則までもが実在的に偶然的であると主張するのは馬鹿げている。なぜならもしそれが真だとするならば、自然法則はいかなる理由もなしに、実際にいつも変化している事が可能なのだと認ねばならないだろうから。つまりは、自然法則よりも上位であり隠されている法則があるとしてそれに従って変化するのではなく、いかなる原因も理由もなしに変化すると言うことが起きなければならないのではないか。つまりは事実論性の原理は、自然法則の実際上の偶然性を肯定することにあるのではないか。

(反論への反駁)
反駁としては、自然法則の安定性と言う事実によって可能である。これは自然法則が偶然的である可能性と言う考え自体に反駁するに十分であると思われる。
⇨反論する人たちは処方側には何らかの必然性が実際に存在していて、そういったことが気まぐれな無秩序を権利上禁ずるのだと結論づける。この物理的必然性は私たちの世界、つまりは私たちが観測できない世界以外の数多くの物理を矛盾なく考えられるものであるということが現時点では確定しているのだからこれは必然性を備えているのだと結論せねばならなくなる。しかしながらこれは端的に言って不可能である。
⇨そのような物理的必然性の観念を、謎めいているからと言う口実によって放棄するのは、それはそれで明白な私たちの世界の安定性を放棄することなしにはできないだろう。
⇨物理的必然性のない世界はあらゆる瞬間あらゆる地点においてつながりを欠いた膨大な数の可能的なものに委ねられて、そのようにして世界は物質の最小のかけらに含まれる根源的な無秩序へと炸裂してしまうであろう。そうなってしまえば実際にこの法則が偶然的であると言うことが知れ渡っているはずである。しかしながらそのような状況では私たちにはそのことを知るための場所に私たちが存在していないという機会もたくさんあるはずである。そうした偶然性に由来する無秩序は、見るべきものとして意識に与えられる世界と同時に、あらゆる意識も粉砕してしまう。
⇨世界が安定しているからこそ、また自然法則が安定しているからこそ、この安定した世界や自然法則のみ観測できるのであって、そのような観測によって物理的必然性も生まれていく。しかしながら私たちは事実論性の原理によってそれを反駁する必要がある。反駁する必要があるが、法則が絶え間なく変わることを期待しているのではない。別の言い方をすれば私たちが主張するのは、事物は実際にいかなる理由もなしに最も気まぐれな動きを取り得るが、しかし私たちが事物と結んでいる通常の日常的な関係を全く変えずに、そうできるんだと真剣に認めることができると言う主張である。これこそ、次に私たちが正当化すべきことである。p141
⇨自然に関する私たちの理論の将来の妥当性を問うものではなく、自然そのものの将来の安定性を問うものなのである。p143
⇨ ヒュームの問題は物理学理論ではなく、物理学それ自体が明日もなお可能であると私たちに保証してくれるのは何か、と言うことである。p144
⇨つまり、経験科学は今日そうあったように明日も可能であるということを証明できるだろうか。p144

p142
自然の斉一性の原理(=原因)
⇨同じ最初の条件からは、同じ結果が常に起こるだろう、と言うこと。

カールポパーの議論
物理の何らかの理論が恒久的に妥当だと言うことを私たちは決して証明できないと言う主張をしている。なぜなら、未だかつて考えられたことのない状況でなされる実験の可能性は、アプリオリには拒絶できない。そしてそうした状況は当該の理論による予測を無効化できるからである。しかしながら彼は、同一の状況の中で、自然法則がいつの日か変化すると言うことを肯定はしていない。

ヒュームの問い
「経験科学は今日そうであったように明日も可能であるということが証明できるだろうか。」
⇨形而上学的な回答、懐疑主義的な回答、カントによる超越論的な回答の3種類がある。p145

1、形而上学的な回答
因果的必然性の直接的で無条件的な証明をする。つまりは因果的必然性は神の唯一の本質から生じるのであって、外的な条件から生じるのではないと言うふうに証明をする。次いでそこから直接的に私たちの世界が現にそうであるような仕方で必然的に存在し存続するはずであると言うふうに推論するだろう。

2、懐疑主義による回答 p146
(a)ヒュームは、因果性の問題についての、あらゆる形而上学的な解決を拒む。自然法則の安定性は、確立することを確実に証明できないという想定からきている。より、存在や非存在は、同様に一般の基底として存在しうるものである。
⇨この真理を打ち立てるものは、経験と無矛盾律である。しかしながら、二つの手段とも、因果的連結の必然性を証明できない。経験は未来を知ることはできない、そして無矛盾も、今日や明日に存在しえないことを私たちにアプリオリに伝えるが、それは経験に頼ることなく不可能であり、明日については経験も頼ることができないからだ。
⇨ビリヤードの動静の推移の想定を例に取り、ヒュームは「私たちのアプリオリな推論はこの優先についてのいかなる根拠も私たちに示すことは決してできないだろう。」と述べる。
⇨これは、ライプニッツの理由律に反駁する論理である。つまりは、「諸法則が現在そうであるようにあり続けるはずであるということが私たちに証明できないのだから、私たちはいかなる事実の必然性も証明できないのだ。」とヒュームはいう。p147
⇨存在理由を持ち、同一のままで永続することが明らかであるものなど、何もないのだ。

(b)
逆にヒュームは、この問題を解決可能な問題に置換しようと試みた。つまり、「なぜ法則が必然的であるのかを問うのはやめて、むしろ法則の必然性に対する私たちの信頼はどこから生じるのか。」を問うことにした。事実の本性を問うのではなく、事実と私たちの関係へと置換したのだ。p148
⇨循環論理でこれを説明する。要するに反復による「慣れ」が、同一なものの反復を信じるという傾向を生むのだと結論する。

3、カントの超越論による回答
形而上学的解決⇨無条件的で直接的
超越論的解決⇨条件的で非直接的
超越論的な回答とは、いかなる類の因果的必然性も存在しないと想定して、そこから何が帰結するのかを検討するものだ。それはカントによれば、あらゆる形式の表像の完全な破壊である。
⇨法則に偶然性があるとすれば、その仮説は表像という事実によって反駁されてしまうことをカントは予見できた。(だからこそ、この主張は条件的であり、超越論的である)p149
⇨カントは、因果性が将来を規定しなくなることが絶対的に不可能であるとは言わない。しかし、そのような出来事が「表れる」ことが、不可能なのだと言っているのだ。因果性が世界を規定しなくなれば、いかなる事物の恒常性もなくなり、表増可能なものがなくなってしまうのだろうから。ビリヤードの動静についての推論は、ナンセンスであるとなる。なぜならば、因果性にとらわれるものはボールのみではなく、関わる事物すべてだからである。ボールだけが因果性から逃れているのはおかしい、ということだ。
⇨カントは意識の経験の世界の存在を引き合いに出し、このように説明する。「因果性があらゆるものを規定するというのは絶対的な必然ではない。だが、もし意識が存在しているならば、それはまさしくある種の因果性が必然的に現象を規定しているからという理由に他ならないのである。」
⇨概念の分析論におけるカテゴリーの客観的演繹。p148

◎3つの解答の共通部分
⇨因果性必然性という真理を疑いの余地なく認めている点。
⇨疑われることのなかった事実として扱われてしまっている。疑うならば、まず因果性の真理を証明するところにその本質があるはずだろう。ヒュームの懐疑とは、「私たちの因果性の推論を証明する能力を懐疑している。」というだけのことになる。
⇨世界の原因の必然性は認めるが、法則に必然性を与えている法則自体の原因は、私たちにはアクセスが不可能のままなのだ。つまりは、自然のプロセスには究極の必然性が確かに存在することが認められねばならない、ということになる。
⇨ヒューム自らが懐疑主義者と見做すというのは、真だと想定される必然性に対する私たちの同意を基礎付けることが理性にはできないとみとめることだからだ。ヒュームは懐疑主義的立場をとるが、その懐疑する内容は、あらかじめ認めねばならないのであり、そうでなければそのような立場を維持することは不可能なのである。皆が信じることを、懐疑する。信仰への懐疑は、懐疑的信仰を生むのではないか。

p151
メイヤスーは、先の3つの解決に共通するこの公準を拒絶することに本質を置く。ヒューム的アプリオリが、世界について私たちに教えることをまじめに受け取るのである。すなわち、一つの同じ原因から実際に結果として生じることをまじめに受け取るのだ。理性の教え、つまり論理的な理解可能性という唯一の要請に従う、思考からの明らかな教えがここにはある。
⇨理性は、私たちに非常に明らかな仕方で因果的必然性の明白な誤り(その論理の全面的な事前承認のこと)を教えているのに、なぜ実際のところ理性はそうした自己自信に背いて働き、因果的必然性が真理であると証明しようと試みてしまうのだろうか。その誤りの源は感覚的な確信であって、思考的な確信ではないのだ。p152
⇨懐疑主義的な立場は此処では最もパラドクス的である。つまり、存在論的な要求の基盤である理性の原理の無能力を明らかにしていながら、その根拠は現実の物理的必然性に頼ったままである。ヒュームは、つまり、形而上学を信じてはいないが、形而上学が事物の中に注入した必然性をいまだに信じているのだ。上記したように、循環性のあるものを信じる傾向を生み、それは非反省的に繰り返される。
⇨懐疑主義者は、底知れぬ必然性を信じている者だ。
⇨そのような者たちは、さまざまな摂理を信じることへと繋がっていく可能性がある。
⇨であれば、懐疑主義には、理性を信じそれによって現実から因果的必然性の背後世界を退去させる方が、より賢明なのではないか。p153
⇨形而上学的必然性に信を置いたままの懐疑主義は、現実世界の非形而上学的な性質についての思弁的な知へと馬を譲ることにはならないだろうか。p153

◎ヒュームの問題の再定式化 p153
真実だと思われている自然法則の必然性をいかに証明するのかと問わずに、私たちは、もし自然法則が偶然的なものだとみなされるとしたら、自然法則の明白な安定性をいかに説明するのか、ということを問わなければならない。
⇨つまり、自然法則が偶然的で必然的ではないならば、なぜ現存する法則はその基盤の上で偶然的に振る舞うことなく安定を保ちうるのであろうか。いかなる基礎づけによっても永続化されていない法則から、いかにして安定した世界が帰結として生じるのだろうか。ここの再定式化に、メイヤスーは賭けている。
⇨自然法則の偶然性の必然性は想定されているので、そのような因果的結合が必然的結合であると確信していると言うことになる。その上でそうした必然性に関する形而上学的な証明の可能性を信じないとして、因果的必然性の有効性を不条理によって証明するべく試みてみることを考えている。それは法則の不条理を想定して、その不可能性を導き出すことによって、その法則の証明を行うと言うことである。p154
⇨要するに、非因果的な世界は因果的な世界と同じく一環的であり得る世界であり、そこでは因果的な世界と同様に私たちの現在の経験が理解されるのである。
⇨別の言い方をすれば、私たちは因果的世界から非因果的世界へと移行することで何も失う事はないと言うことである。しかしながら、謎のみを除けば何も。

p155
●カントの、カテゴリーのいわゆる客観的な演繹における中心的なテーゼ
⇨「意識や経験といった観念自体が表像の構造化を要請するものであり、それによって私たちの世界は、互いになんのつながりもないさまざまな印象に、純粋に偶然的な継起ではないものとなるのだ。」
⇨世界は秩序に集積したものではないのだ。
⇨もし世界必然的な法則によって統御されていないとするなば、世界は私たちにとって脈絡のない経験へと断片化し、固有の意味での意識はいかなる場合においてもそこから生じることはないのだろう。
⇨意識の条件、概念が生じる以上、この法則の必然性とは議論の余地のない事実なのだ。p156
⇨しかしながら、その議論が可能になるのは、何度も述べられているが、その法則の安定性の概念があるからであり、必然性ではないのである。安定性という事実、および意識の条件と同様の学の条件についての規定については、むろん、何ものもそれに異議を唱えることはできない。
⇨つまり、法則の必然性とは、それをもとに意識の条件それ自体が作られる以上、議論の余地のない事実。
⇨しかし、メイヤスーのいう、「必然論的推論」については、そうではない。これは、法則の安定性それ自体、その強制的な条件として法則の必然性を想定している、という推論である。
⇨自然法則の安定性、すなわち、今日まで消して誤りとみなされてこなかった自然の斉一性の原理の安定性と言う色の余地な記述から、その斉一性の必然性と推論がなされるのはいかなる理由によるのか。
⇨安定性と言う事実、今日まで誤りとみなされてこなかったように思われるのだから、実際、極めて一般的である。その安定性と言う事実から、存在論的な必然性に移行することを許容する論理とは何なのか。

上記の論理を支持する必然論者の推論。
1.もし法則が実際に理由なく変わり得るものであるならば、すなわち、文字法則が必然的なものでないとするならば、法則を理由に頻繁に変わるだろう。
2.ところが、法則が理由なく頻繁に変わる事は無い。
3.したがって、法則が理由なく変わることが起こり得ない。言い換えれば、法則は必然的である。

⇨この論理は可能性から頻度へ結論づけている。メイヤスーはこの帰結を、頻度の帰結と名付けている。可能な変化から、頻繁な変化へと帰結が出するの真とみなすので、必然論者の推論は真とみなされるわけである。この推論を失効させるためには以下の点において、またいかなる厳密な条件によって、この帰結自体が拒否され得るのか、ということを明らかにする必要があるし、そうするだけで充分である。
⇨自然法則が、偶然的なものならば、それは知れ渡っていたはずである、と言うことや、カントのように、それが知れ渡っていたならば、私たちはもはや何も知り得ないだろうと考えること。いずれの場合においても、法則の偶然性が結果として、自然法則の十分の頻繁な変化を伴うはずであって、その結果、その偶然性は経験において明らかに示される。
⇨つまりは、あらゆる経験の条件を破壊すると主張することである。

ここでヴェルヌの「偶然理性批判」を引き合いに出す。
⇨上記のようなカントやヒュームの論理が、法則の必然性を自明のものとみなすときに受け入れられていた。暗黙の論理の本性を明らかにしたことと書かれている。しかしながら、これはその著者にとっての論理の正当性のであって、つまり自然法則の必然性に対する信念を基礎づけるれたものとして見ているということがある。
⇨つまり、我々の狙いは、ヴェルヌの企てから、この論理に秘められたものを明るみに出し、その真なる本性を示して、その論理の弱点をなすもの発見できるかどうかと言う点にかかっている。

カントは、アプリオリと必然性との同一化、経験的なものと偶然性との同一化とは、全く逆に、ヴェルヌは、アプリオリなものが、私たちを偶然性に直面させるのであり、逆に、経験がそれに対して必然性を配置するのであると語る。
⇨ビリヤードのボールは、幾千もの異なる仕方で分別なく動き回ることができる、しかし、経験においては、毎回これらの諸可能性の1つだけが実現される。衝突の自然法則に一致する可能性が、実現される。
⇨ではなぜ、経験に先立つア・プリオリと、経験のこの違いから、アプリオリなものが誤りで、経験は偽りではないと結論することが、なぜ私に許されているのだろうか。なぜ今経験しているものが過去の経験と照合して、それが正しいものであると判断することが私に許されているのであろうか。
⇨確かの必然性を開示するのは、経験の恒常性であると私に肯定させ、アプリオリなものこそ真なる偶然性への道を開いていると、私に肯定させないものは何なのか。
⇨イカサマが施されているサイコロのように、極めて高い確率で同じ面が出るようなものを使っていると疑いを起こさせるようなものではないだろうか。p160

1つの出来事が生じるためのいかなる理由もアプリオリに存在しないように配置された出来事の集合
⇨完全に均質で対称的であると想定されるコイン、サイコロの場合がそれにあたる。
⇨そうしたコイン、サイコロについては、イカサマが出ない仕方で投げたならば、ある1つの面が上を向くような、いかなる理由も存在していないと私たちはアプリオリに想定できる。
⇨こうした仮説と共に出来事が起こることに対しての運を私たちが計算するとき、私たちは次のようなアプリオリな原理を暗黙のうちに認めている。
⇨等しく思考可能なものは、等しく起こるものである。p160

ものすごく大きいサイコロであったり、またずっと同じ目が出続けるサイコロであったり、また人類が生まれてから今に至るまでずっとサイコロを振っていて、ずっと同じ目が出ている結論があったり、そういったことを想像できるけれども、そのような原因には何かある原因が存在しているのであると考えたり、この結果が何かに対して必然化されていると考えてしまうこともある。
⇨経験に与えられる各出来事に対して、私たちは、この異なる無数の経験的な帰結をアプリオリに考えて、そのどれもが等しく可能と思うだろう。つまりは、過去に経験したものを、今の出来事に照合して、その出来事に対する様々な帰結を想定し、その帰結が等しく可能と思えると言うふうに想像する。
⇨つまり、ヒュームやカントが法則の必然性を自明のものとして認めるとき、彼らは正しくいかさまのサイコロを前にした賭博者のように推論をしている。
⇨「もし法則が実際に偶然的であるならば、偶然を統御している法則の観点からすれば、こうした偶然性が決して自らをあらわにしなかったと言う事は不条理であろう。」という推論の展開。あたかも、サイコロの中に巣ごもりした鉛玉のようにこのような推論が展開される。

必然論者の推論は、賭博者が宇宙の内部にある出来事に適応している確率論的な論理を、私たちの宇宙それ自体に拡張している。p162
⇨様々な可能性を生み出すような、私自身の精神によって、諸々の宇宙からなる大文字の宇宙である所の宇宙サイコロを作り出したのである。
⇨次いで、私は精神の中で、この宇宙サイコロを転がしてみる。だが、最終的に私は、生じる結果は常に同じであることを確認する。この宇宙サイコロは常に私の世界と言う宇宙、目を出す。衝突の法則は常に遵守されなければならないと言うわけである。
⇨理論物理学を確かに、私が住まう宇宙、目について予期せぬ新しいことを教えることができる。けれども、その教えは私の宇宙に関するより深い知なのであって、宇宙それ自体の偶然的な変化を言うものではないのだ。
⇨斉一性の原理は、宇宙それ自体によって決して破られてこなかった。最初の条件が等しければ、この原理によって常に同じ結果が与えられてきた。そうなると、法則と結果の安定性がありえないと言うのは、あまりに不条理と思われるから、私は結果の安定性は、偶然の事実に過ぎないと言う仮説をとることができなくなる。
⇨単にそう認められると言う足早な推論がされる。
⇨この必然性は、論理的、数学的に証明される必然性につけ加わる、補足的なものであるしかなくなる。
⇨つまりは、その各々の面が等しく思考可能である。宇宙サイコロなのである。
⇨イカサマのサイコロの鉛の魂のような必然性、つまり第二のタイプの必然性が現れてくる。このような必然性は、原初の謎めいた事実として残存し続ける。p163
⇨単に私たちは法則が実際に理由なく変化し得ることも、もう既に知っていたであろうと言う事だけではなく、私たちはそれを知るための場所に決して存在しなかっただろうと言わねばならないほどである。これは法則が頻繁に変わるのであるので、その法則が適用される世界へ存在するための条件を整えることがほぼ不可能に近いであろうと言うような推論からなる。よって、意識と世界との相関性によって要請される最小限の秩序と連続性と不可能にしてしまう。したがって、必然性は、自然法則の持続可能性がそうで、ある所の非常にありえないと思われる安定性の事実によって証明されるのである。こうしたことが、必然論者の論理であり、とりわけそれを支える頻度に基づく推論である。

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