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字面の良さ/美観

高祖父とか「へぇ~」です。6代子孫は昆孫だそうで…。

・・・知った所で末代だから関係ないというレベルですが。

因みに見慣れているのはこっち。

ケツ5

まあ何かというと、別に人間にも置き換えられますが、
馬の血統表の話で、
以前五輪の会長交代の際橋本聖子とマルゼンスキーに触れたあと、
その直系の末裔が今年まだ産まれていたという事をTwitterで見たので、
少し話題に重ねてみた、という感じです。

もうこういうのは有志がほぼ保護している、という状態なので
江戸時代的に言えばお家再興...なんてことはほぼ起こり得ないんですが、
そういうのに一縷の望みがまだあるという点で浪漫ではあります。
(馬は血統的には有名所を1~2代遡ると殆ど親戚になります。)

人間や社会、人生、歴史や王朝に重ねて見るという事が
中期の競馬ファンのすることのひとつです。

如何に栄華を極めても、如何に偉大な功績を残しても、
(直系としては)50年の間にここまで衰退するという・・・。

だから嘆くなという慰めがある一方、
そうは言っても嘆くわ、というのも当然どころか大いにあるのも事実。
・・・血に拘る人とそうでない人の二つがあるのもまたそうですが、
自分や家族は総合的には拘る方になります。

人生の成功にはいくつか種類があって、
その中で揺るぎないものはやっぱり血縁だと思うんですけどね。
…ところが社会情勢か何か、現代の(自分らよりより)若い世代は
余りそんなことは思わない・・・のかどうか知りませんが、
冗談でも余り野心的な話は出てきてないような気がします。
(財閥作りたいとか、国を建てたいとか?)

世界平和はある意味今となっては野心的かもしれませんが…。

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そこでタイトルの件は何かというと、
まあこれは所謂見てほれぼれする血統=名前が並ぶ、
そういうものが最近は減っているというか、
名前の響き、力強さ等に美観が昔は感じられた、
例えれば数学の出来る人がしばしば数式が美しいという、
そういうのに似た感じではないかと思います。

アメリカの血統は如何にそうそうたる名前、
一流に一流が重ねられても余り美しさ、というのは無いんですけど、
現地で見限られたようなヨーロッパ系を多用した昔の日本では
そういう独特というか特有のモノがあったと思います。

ちょっとした知識や情報が無ければ
まさに単に名前が並んでいるだけなんですが、
多分わかる人には伝わるんじゃないでしょうか。

父ノーアテンション 母ナイスデイ 母の父インターメゾ

これはその当時でも決して超一流というものではありませんでしたが、
先日足の甲を骨折して春を棒に振ることになったらしい タケユタカ を
全国に一躍有名にする切っ掛けになったある馬の血統です。

言葉や名前が使い尽くされたというのもありますが、
これだけでも何となくオシャレ感があるような無いような、
そんな感じです。

マルゼンスキーに戻してちょっと言うとその娘の一頭、
ライラックポイントが有名です。・・・悲劇の名馬の母として。

お洒落なのかロマンなのかは微妙な所ですが、
80~2000年代初頭に掛けての日本経済とも合わせた
そういう時代だったんだろうという、そんな感じです。
眺めていて楽しめるというか、口に出した際の響きというか・・・。

ウイニングチケット、
なんてのもやっぱり平成初期、昭和の感性あってこそだと思います。
(栄光のダービー馬と毎年形容されてもその血の多くは残らない?
 ・・・「栄光」自体がある意味死語ですが。)

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ここからこんなことを言うのもなんですが、
現代はスタイリッシュに、またややストイックになり過ぎている、
(命名にしても何にしても?)
それは個人がそれならいいがやはり社会がそうなるのは
どうなのかと、まぁ思います。
(「なる」のと「させられる」の違い程度の話。)

スタイリッシュというのはもっと何かに似せて言えば
結局は効率重視に至る為に経済効率に通じ行くもので
必ず省かれるものがあり、その過程こそがいわば面白味に繋がる、
そうだったのではないかというのが
2000年代を20年過ぎて感じ考えることです。

(ジオラマとかミニチュア系の例えが出そうを自重?)

・・・面白味というのはもっと人間味とか
そういう動的感性に置き換えた方が良いかもしれませんが、
味や熱、試行錯誤のもっと躍動的なものと、
まぁ自身の実際は全然そうではないかそういう経験もないので
想像的にはなるんですが、燻る不満感、
不自由感や閉塞感を持つような人は或いはこういう話のどこかに
引っ掛かるものもあるんじゃないか…とも思います。


建築とか見てみ…っていう、ホントかどうか、
建築家も現在の建築を嘆くらしいので。

少なくとも高層建築のデザインが死んでるのは確かだと思いますが。
(70~90年代にイメージされた未来都市は日本には来なかった?
 一瞬ドバイには来てたようだけど。)

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最後に、近年の日本の2~3割に関係するであろう老齢期の問題。

この件に関してはもう僕には結論が出ていて、
認知症になるかならないかが全て。

これで人生や関わる周囲に大きな影響がある。
人口の5~10%程度には人生の軌道修正すら起こり得ることかもしれません。

とにかく身内に認知症が居ない人、せいぜい90前後からの
ほぼ老化によるそれと同一視出来るぐらいの人や家は
それだけでかなりの幸運と言えるので
その辺は本当に人生や家族親類に感謝していいかもしれません。

だから、残念だったけどあの時死んだのはあれでよかったかもしれない、
そういうケースや家族、これは今後更にあると思うし或いはあったと思う。
(死んだから却って残るという事もあるにはある。…これとは別ですが。)

若年性アルツハイマーという恐ろしいものは
50代より早くからも来るらしいし、(本人も何をしているか)分からない、
意思疎通がまともにとれないというのは
双方にとって少なくとも嬉しくない現象です。
そしていつ終わるのか分からないという、定期的な話で
余命宣告がある方がある意味いいというのもまぁ・・・です。

人生100年時代構想
https://www.kantei.go.jp/jp/headline/ichiokusoukatsuyaku/jinsei100.html
「人生100年時代」に向けて
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000207430.html


これらと共に何か言葉だけ付け足してそれらしく終わると
現代ないし今後の人生に於いての大なる問題は
「孤立」と「孤独」に如何に対処すべきだったか・・・
それはつまり如何にして陥るか、です。

これを回避出来る者は或いは限られていた可能性が今生じている、
ウサギと同様に人間もまたストレスで死ぬのかもしれず、
これが社会の諸問題の根源である、
孤独を愛する者はあっても孤立を愛する者はいなかった‥‥

孤立とは生じるもの、陥るものである。


これぐらいでいいですかね?

5分ぐらいで考えた一文にそんな深い意味はないので悪しからず...。

もし何かあれば報奨金として頂戴します。