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note短編小説|靄(もや)がかった者

 そこには何もなかった。

 教会や学校、食堂といった数々の建築物や家々のほんの一部だけが僅かに取り残され、かつてそこに存在していた人々の営みの残り香だけが、鼻を突く焼け焦げたすすの匂いを纏って立ち上がり、それ以上の意味を成していなかった。

 建築物だけではない。過去の世界で生きていた“何者か”だったモノの残骸が散り散りに点在して微動だにしない。ある者は俯いたり縮こまって身をすぼめ、またある者は幼な子を抱いた形で真っ黒く炭化し、形なき者は壁や地面に影となって消えた。

 遠くで煌々と揺れる炎が、地平線と重なり美しくこの何もなくなった世界を照らしていた。

 その光にかすかに照らされながら地平線を見つめる、ひとりの少女の姿があった。

 前の世界では“親”と呼ばれる大人が近くに居たような気がするし、彼らと“日常”と呼ばれた時間を過ごしていたような気がする。

 しかしそんな記憶も曖昧になり、いま強烈に覚えているのは彼女の周りを瞬時に包み込んだ真っ白い光と、身体をさらって運んでいった突風だった。その風はまるで怒り狂った巨人の渾身のひと吹きの吐息の如く強烈であったが、同時に不思議と暖かく心地よい気がしたのだった。

 幸い少女に大した傷はなく、その代わりにこの何もなくなった世界をひとり目の当たりに出来ている。

 ふと気づくと少女の後ろに、全身を真っ黒に包んだ者がひとり立ち尽くしていた。それはたしかに目の前に居るが、どこか掴みようのない靄(もや)のかかったような出立ちであった。

 少女は下からその者を見つめているが、顔色や表情も靄がかって窺いしれない。

 沈黙を破ったのは、靄がかった者からだった。

「ひとりなのかい?」

 男とも女とも取れ、また同時に判断のつかない声が両者の間にある乾いた空を揺らした。

「そうなってしまいました」少女は丁寧に応えた。

「気の毒だね」

「そうでしょうか」

「ああ、気の毒だよ。この先きっと苦労するでしょう」

 再び、暫しの沈黙が二人を包んだ。

「これは私がやったのです」

 そう重々しい口調で切り出した靄がかった者に、驚きと怒りを隠さず少女は聞き返した。

「どうして!? どうしてこんなことをしたんです? おかげで何もなくなってしまった! こうなる前に何があったのかも、もう分かりません!」

「どうして? はて、私にもさっぱり分かりません。結果がどうなるか概ね分かっていた気がしますが、分かっていながらもやってしまう、そういう気質、性(さが)、癖(くせ)みたいなものでしょうか……」

「そんな、バカみたいなことを!」

「まさに、バカみたいなことです」

 また少しの沈黙があり、次は少女がそれを破る。

「ほかには、何をしたんですか?」

「いやそれが、あまりに多くのことをやってきて、簡単にまとめるのは難しいのですけれど……」

「教えて下さい」

「実をいうと今回と同じことは80年ほど前にもやりました、これは三度目です。ヒロシマとナガサキという二つのアジアの都市に同じことを起こしました。」

「なんてひどい!」

「まったくです、さらに100年ほど前は色の付いた毒の煙や、沢山の弾丸を発射する鉄砲を作り出し、使ったりしました」

「なんてことを! ひとごろし!」

「やめて下さい、悪いところだけを見るのは。他にも色々やったのですよ」

「聞きましょう」

「そうですね、身体に入ると悪さをする病気の元を殺す薬を作りました」

 ほんの少しだけ、靄がかった者は自慢げに答えた。

「まあ、ひとごろしのあなたが?驚いた……」

「ええ、他にも人々を遠くまで運ぶ車輪の付いた乗り物を作りましたし、夜を明るく照らす光の球も作りました、人間をほんの少しですが月にも届けたのです。その他にも……」

 靄がかった者の語気はしだいに調子付き、ハキハキと自信に満ちたものへと変わり、己のこれまでの功績を羅列してゆく。

「なによりも! なににも増して! なにごとよりも素晴らしいのは命ですよ! 命を創りだすこと、それこそが私のやってきたことの一番の誇り、自慢でもあるのです」

 そう言い終わるか終わらないかで、靄がかった者の声と吐息が震えていたのを少女は感じ取った。

「それは本当に、素晴らしいことですけどね……」少女の声が少し優しさを帯びる。

「ええ、ほんとうに素晴らしいことなのです、命が生まれてくることは、ほんとうに」

「ですけど、どうしてこうなってしまったんですか? 周りにはワタシのほかに誰も生きていません」

「どうしてでしょう、それはわかりません、恐ろしい! 恐ろしい……」

 そこからふたりは再び押し黙った。近くとなく遠くとなく、炎に包まれた木々が爆ぜる音々が時折沈黙を破る。

 どれだけ時が過ぎたのか日が沈み始め、集まってきた濃い灰色の雲を夕日が照らし、赤々と空も燃えはじめていた。

「行ったほうがいい、雨が降るよ、黒い雨が」靄がかった者が再び重々しい口調と共に、いつから持っていたのか真っ赤な傘を差し出してくれた。

「ありがとうございます」

「もう……、手遅れかもしれないが」

「そんなことはありません。けどあなたは傘、いらないんですか?」

「私? 私は大丈夫ですよ。雨に打たれたって風に吹かれたって、どんな酷い目にあったってヘコたれませんよ」

「大した自信ですね、丈夫なんですね」

「ときどき具合が悪いのですが、あなたの様な人が居るかぎり私は大丈夫ですよ」

「そうですか、安心しました。さっきは声が震えていたから、少し心配で」

「やさしいのですね」

 靄がかった者がくれた真っ赤な傘を受け取り少女は、再び感謝を述べた。

 互いに軽く別れを交わし少女がその場から歩み始めた矢先、大粒で真っ黒い墨のような雨が激しく降りはじめ、二人を叩いた。

 慌てて傘をさす少女が「そういえば」と言いながら振り返り、最後に靄がかった者に問いかけた。

「すみません、お名前を教えて下さい。また会えたら傘を返したいのです」

「私? はて、今まで色々な呼ばれ方をしましたが、私にもよく分かりません。しかしあえて名乗るとするならば、私の名前は “感情” です」

 赤々と夕日に照らされた灰色の雲から降り注ぐ黒々とした雨。それに打たれる真っ赤な傘がクルクルと回りだす。

 少女は走り出した、バシャバシャと強く足音を荒野に響かせて、赤い傘の回転は黒い雨玉を勢いよく弾きながら、前へ前へと進んでいった

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