希望のハコ 最愛の娘になった最愛の君へ 第一話
あらすじ
元天舟会系渋沢組のヤクザであった鍵本義一ことカギは小籠包のキッチンカーを営みながら古い日本家屋で一人娘のハコと二人で暮らしていた。
しかし、この親子は普通の親子とは少し違っていた。
娘のハコは・・カギと同じ二十八歳だった。
彼女は十五歳の頃にカルト教団に拉致され、全ての記憶を失ってしまった。
それでもカギはハコを愛し続ける。
愛しい娘として。
それは最愛の女性が最愛の娘になってしまった男の直向きな愛の話し。
本編
拳が痛え。
カギは、ボクシンググローブのように腫れ上がった自分の両手を見る。
もう何人殴ったかも覚えていない。
顔は、腫れ上がり、頬は綿詰めされたように内側の肉が腫れ、口の中に溜まった血を吐き捨てると欠けたか折れたかした歯が幾つか飛び出す。左目も瘤でも出来たのか視界が塞がっている。
黒かったはずの千切れシャツは赤く染まって返り血なのか自分の血なのかも分からない。腹を守る為に水で濡らして雑誌を巻きつけた晒には何本もの刃物が突き刺さっている。気が付かなかったがズボンにもドスが一本刺さっている。なの痛みを感じないのはそれだけアドレナリンが頭から溢れてるからか?
カギは、役目を果たすことの出来なくなったシャツを脱ぎ捨てると背中に赤字で大きく✖️された逆さの孔雀の刺青が姿を現す。
「罪人が……」
足元から呻くような声が聞こえた。
カギの足元には作務衣のような厚手の白い道着を着た血塗れの男が腹這いに倒れていた。
男だけではない。
カギの立つ真っ直ぐ伸びた赤い絨毯の敷かれた廊下には同じような道着を着た男女が何十人も倒れていた。
血塗れで。
彼らは、"カーマ教"と名乗る信仰宗教の信者で世間一般的には"修験者"と呼ばれ、恐れられている。
カギが生まれる少し前、恐らく三十年くらい前に生まれて日本各地に広まった新興宗教だ。
仏教が百八のの煩悩を切り捨てることで悟りを身につけられると説くのに対しカーマ教は欲を強く持つことで新たな境地に到達することが出来ると説く。
つまりは欲望のままに生きることを推奨する宗教……。
簡単に言えばカルト教団だ。
そしてカギはそのカルト教団に単身で乗り込み、拳一つで信者達を潰していっている。
ある目的の為に。
男は、真っ青に腫れ上がった顔を上げてカギを睨みつけ、震える手でカギの足首を握りしめる。
爪が足首の皮膚に食い込み、血が滲む。
しかし、カギは眉一つ動かさず刀で切られたように鋭い目で修験者を見下ろす。
「神に逆らう不届者が……」
男は、唇を噛み締め、カギを穿つように睨みつける。
「地獄に堕ち……」
修験者は、最後まで言葉にすることが出来なかった。
カギが修験者の手を振り解き、そのまま顔を蹴り上げたからだ。
革靴の爪先が修験者の鼻にめり込む、骨の砕ける音が伝わる。
修験者は、ポッと小さく息をはいてそのまま気を失った。
カギは、革靴に付いた血を払い、通路の奥に目を向ける。
廊下に倒れている信者共は仕切りにカギを奥に行くのを阻止しようとしていた。
つまりカギの目指す先はそこにあると言うことだ。
「現実でもラスボスは奥の部屋か」
カギは、腫れ上がった頬と唇で皮肉っぽく笑うと晒に刺さった刃物を抜き、足に刺さった刃物が抜けないよう千切れたシャツの残骸で縛ってから奥へと進む。
血塗れで倒れた信者達が呻き声を上げてカギに手を伸ばそうとする。しかし、カギが鋭い目を向けて睨むと怖気付いて手を引っ込める。
それを見る度にカギは嘲笑いそうになる。
結局、こいつらの信仰心なんてこんなものなのだ。
弱い心を埋める為に強く、言葉の巧みな連中に従い、縋りつき、それを上回る圧倒的な暴力を振るう者が現れれば一切の信仰も忠誠も捨てて見て見ぬふりをする。
どこもかしこも皆同じだ。
何が欲望のままに生きるだ。
カギは、砕けた歯を噛み締める。
こんな奴らにあいつは……。
ハコは……。
扉が現れる。
大きな金の板で奴らの象徴である羽を大きく広げた孔雀の彫られた趣味の悪すぎる大きな扉が。
この奥にラスボスがいると告げんばかりの扉が。
そしてここにいるんだ。
「ハコ……」
カギは、小さく、泣くように呟く。
そして扉を破壊するように睨みつけ、両手を扉に叩きつけた。
空気が弾けるように扉が開く。
カギは、絶句する。
様々な修羅場を超えてきたと自負するカギが思わず鼻を覆いたくなるような血の臭いが部屋の中を充満していた。
そして目の前に広がる現実離れした異様な光景に。
数えきれない燭台に灯された蝋燭の火、室内を流れる呪詛のような経、気味が悪いくらい大きなベッド、そしてその上で激しく揺れる大きな塊……。
カギは、それを人間として認識することが出来なかった。
どこかの精肉屋で売ってるような規格外にでかい豚足がトランポリンの上で跳ねている。
そうとしか見えなかった。
今、思えば脳があまりの衝撃的な映像からカギの心を守ろうとコミカルに見せようとしていたのかもしれない。
しかし、それは一瞬のこと。
視覚に掛かった靄が抜ける。
整理された情報がカギの脳に、心に伝わる。
豚足に見えたのは醜く太った中年の男。スライムのような垂れ下がった贅肉に尻まで伸びた汚らしくベタついた黒い髪、顔を埋め尽くす髭、開いているかどうかも分からない目。
テレビで何度も取り上げられたカーマ教の教祖だとすぐに分かった。
分かったが……どうでもいい。
カギの目が映したのは……脳が彼に見せまいとしていたのは教祖が跨り、醜い腰を押し付けているものだ。
散らばるようにベッドから垂れ下がった黒髪、青く腫れがり、血で汚れた顔、虚な目、伸びきったゴムのように力の抜けた裸体……。
俺の脳みそは馬鹿だ……とカギは、思った。
どんなに視覚情報を歪めようと、脳内麻薬を大量分泌して幻覚に酔わそうと俺が彼女を認識出来ない訳がない。
「ハコ……」
カギは、ずっと探し続け、求め続けていた最愛の女性の名を呟く。
しかし、女性は反応しない。
虚な目でどこか分からない空を見ているだけだ。
教祖が腰を振るのをやめ、ハコを投げ捨てるように離れてカギを睨みつける。
「何者だ貴様は⁉︎」
教祖は、欲望に汚れた声で叫び、来るはずのない信者たちを大声で呼ぶ。
カギの中で黒い怒りが茹つように弾ける。
怒りも殺意も超えた感情が埋め尽くし、赤黒く腫れ上がった拳を爪が食い込むほど握りしめた。
血が吹き荒れる。
骨の砕ける音と汚い悲鳴が部屋中に響き渡る。
…………………………………………………………。
気が付いたら目の前に肉の塊があった。
汚らしい髪と髭を赤く染め、目が潰れんばかりに腫れ上がり、醜く膨れ上がった身体をあらぬ方向に曲げた教祖と思われる肉の塊が。
教祖は、小さく開いた口から泣くような呼吸音を上げて「許してください……許してください……」と呟いていた。
しかし、カギは教祖になど目もくれない。
血で染まった身体を引きづり、綿のない人形のようにベッドに横たわるハコに近寄る。
「ハコ……」
カギは、その場に膝を付き、血の気のないハコの手を握りしめる。
「ハコ……ハコ……」
ハコからは反応がない。
目は虚に空を見ている。
それでもカギは、必死にハコの名を呼び続ける。
「ハコ……ハコ……俺だよ。カギだよ」
カギは、膨れ上がって感覚のなくなった手でハコの手を握る。
「助けにくるのが遅くなってごめん……本当にごめん!」
あれだけ人を殴っても眉の一つも動かさなかったカギの目から涙が溢れる。
「もう大丈夫だからな。俺と一緒に家に帰ろう……な」
カギは、ハコを抱き上げようとハコの顔に触れようとした。
その時、虚だったハコの目が大きく見開く。
「いやああああああ!」
ハコの口から悲鳴が上がる。
「もうやめて!逆らいません!逃げようなんて思いません!だからやめて下さい!」
ハコは、必死に叫び、懇願し、暴れる。
カギは、狂乱するハコを呆然と見る。
それだけでこれまでハコがされてきたことがわかって悔しさに唇を噛み締める。
「ハコ……」
カギは、暴れるハコをそっと抱きしめる。
優しく、愛おしく。
ハコの動きが止まる。
「もう大丈夫だ。誰もハコに酷いことなんてしないから……」
カギは、優しくハコの髪を撫でる。
「一緒に帰ろう。なっ」
ハコは、目を大きく開き、両腕を足らす。
表情から恐怖が消え、あどけない、子どものような表情になる。
「だ・・」
ハコの口から言葉が漏れる。
とても幼い顔でカギを見る。
「だあれ?」
カギの目が大きく震えた。
六年後……。
カギの朝は早い。
日が昇る前にアラームも掛けずに起床し、寝相の悪い娘の足をそっと払いのけて、起こさないように部屋を出る。
洗濯機に汚れた下着を入れ、風呂に入ってシャワーで汗を流し、髪を洗い、髭を剃り、眉を整え、顔を洗う。商売柄、髪を落とす訳にはいかないので三年前から髪は逆立つくらいに短くし、髭や眉も無駄毛がないよう気をつけている。
風呂から出るといつの間にか十匹まで増えた茶、白、黒、三毛等の野良出身の純和猫達にカリカリと新しい水を上げ、庭を耕して作った畑に水やりをする。畑にはトマト、インゲン、大葉、茄子、胡瓜と言った家庭菜園定番の物からキャベツや大根も植えており、土が良いからか良く育っている。その代わり雑草も良く生えるので辟易する。
それから昨日の夜の仕込みの続きを始める。
本当はその時に終わらせることが出来れば朝ももう少しゆっくりできるのだが夜は夕ご飯の準備や風呂、そして寝かしつけに追われてそれどころではない。
世の母親には本当に頭が下がって足を向けて寝られない。
仕込みが終わったのは七時少し前。
いつもより早く終えることが出来たことにカギは満足する。あとは朝食を作り終えれば三十分はゆっくり出来る。
久々にコーヒーを飲みながらテレビでも見よう、そんなことを思いながら厨房に立ってまな板に向かう、と。
泣き叫ぶ声がする。
高い子どものような泣き声が。
そして障子を思い切り開き、力一杯廊下を走ってくる音が。
カギは、肩を落とし、ふうっと息を吐く。
今日もゆっくり出来ないか……。
そう胸中で呟いて振り返る。
柔らかい衝撃がカギの鍛え上げられた腹筋にぶつかる。
背中にか細い両手が回され、ぎゅっカギを抱きしめる。胸元に沈んだ彼女の顔、光沢のある黒髪から昨日のジャンプーの匂いが鼻腔に入り込む。
「うっうええっうえーん」
娘は、カギの胸に顔を埋めたまま泣き、背中に回した手で、ぎゅっとカギのシャツを握りしめる。
「うっうえーん。パパァ。パパァ」
カギは、肩を竦めて苦笑し、そっと娘の髪を撫でる。
「どうしたハコ?」
カギは、優しく声をかけながら髪を撫でる。
「怖い夢でも見たか?」
ハコは、顔を上げてカギを見る。
大きく、可愛らしい目に大粒の涙を溜めている。
卵のような綺麗な曲線を描いた輪郭、白い肌、整った鼻梁に少し厚めの唇、百八十センチ近くあるカギの胸元まで伸びた身長に綺麗に膨らんだ胸や腰はまさにカギと同じ二十八歳の成人女性そのものだと言うのにその表情は不安と悲しみで表情を崩した幼子そのものだった。
「起きたら……パパいなかった……」
ハコは、声を震わせてぎゅっとカギを抱きしめる。
「ごめんごめん」
カギは、申し訳なさそうに笑ってよしよしとハコの頭を撫でる。それだけでジャンプー、そして女の香りが漂ってくる。
「お仕事の続きをしてたんだよ」
「ハコも一緒にやるって言った!」
ハコは、細い足で地団駄を踏む。
「起こしてくれなかったぁ!」
そのあまりに激しい音に驚いた猫たちがこっそりと覗きにくる。
カギは、癇癪を起こして胸の中で暴れるハコをぎゅっと抱きしめる。
「ごめんな。次は起こすから」
「絶対だからね!」
ハコは、小指を立てた右手をカギの顔の前に上げる。
「お約束。指切りげんまん!」
カギは、小さく苦笑して自分の小指をハコの小指に絡める。
指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます!
「指切った!」
そう言って小指を離すとハコは泣いてたのが嘘のように機嫌が良くなる。
しかし、再び顔色が変わる。
青ざめた表情でお股に両手を当ててモジモジと言う表現通りに腰と足をくねらせる。
「パパ……おしっこ……」
ハコは、声を震わせて言う。
「早く行ってこい」
カギは、肩を竦めて言う。
「一緒に行こう……」
ハコは、縋るようにカギを見る。
「一人でちゃんといけ。もうすぐ六歳だろう」
「ゔーっ」
ハコは、半べそになりながらも我慢出来なくてトイレに走っていく。
それを猫たちが慌てて追いかけて行く。
カギは、そんなハコの背中を愛おしく、泣きそうな顔で見つめた。
あの事件から六年。
紆余曲折を経て二人は家族となった。
しかし、それは二人の年齢に適した家族の形ではなく……。
「パパァー!」
トイレからハコの叫び声が飛んでくる。
「紙がないよー!」
「あーっわりいわりい!」
カギは、苦笑を浮かべて娘のもとへ向かった。
最愛の女性は……最愛の娘になってしまった。
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