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希望のハコ 最愛の娘になった最愛の君へ 第二十二話

 全開になった車の窓から入り込む塩気を含む風、雲一つない青い空の下に果てなく広がる大きな海にハコは目と口を丸くして思わず窓の外に顔を出そうとするのをカギが手を伸ばして止める。
「鼻削れるぞ」
 カギは、視線だけをハコに向け、窓を閉める。
 ハコは、むすっと頬を膨らませてカギを睨む。
「ちゃんとカンナを見習っていい子にして見ろ」
 真ん中の席に座ったカンナは、窓に頬っぺたをみしっとくっ付けて空と海を鼻息荒く見ている。
「私には変態にしか見えないけどね」
 愛娘の所業をゆかりは半眼で見る。
 あれから二日経って気持ちも持ち直したのか?顔色はとても良くなっている。
「それだけ二人とも楽しみと言うことよ。ゆかりさん」
 後部座席に座ったダリア婦人が穏やかに言う。
「こんないい天気ですもの。絶好の水族館日和ね」
 ワンボックスのレンタカーを借りた五人はカギの運転で一路、水族館に向かって走っていた。
 水族館があるのはカギ達の住む街から高速に乗って一時間程度、さほど遠い距離ではないもののキッチンカー以外に乗るのも、高速道路に乗るのも、ましてや海を見るのも初めての今のハコに取って、興奮するなと言う方が無理難題であった。
 カギは、言うことを聞いて窓を閉めたまま目を輝かせて海を見るハコに昔の記憶を呼び起こす。

 それは十五歳になるかならないかの頃のこと。
 ゆかりが父親の元に旅立ち、火の消えかけた線香花火のようにしょげているハコを元気づけようとカギは海に連れ出した。
 海に連れ出した……とは言っても当時のカギには免許もなく、自由に使えるようなお金もなかったので二人で小遣いを叩いて電車に乗り、鈍行に揺られながら県外の海にやってきた。
 当然、お洒落なカフェに寄ったり、海の家で豪遊出来るお金もないからニャックでハンバーガーと飲み物を買い、持参したレジャーシートを砂浜に敷いて二人で海を眺めながらハンバーガーを食べた。
 楽しかった。
 電車に乗って、海を眺めながらハンバーガーを食べてるだけなのに堪らなく楽しかった。
 ハコも同じみたいでハンバーガーを食べながら楽しそうに海を見つめる。
 その顔が堪らなく可愛くて……綺麗で……いつまでも見ていたいと思ってしまった。
 そうしてると唐突にハコがカギに目を向けて来る。
 カギは、咄嗟に視線を反らす。
「どうしたの?」
「……何でもない」
 カギは、そっぽ向いて塩味の強いポテトを食べる。
 ハコは、何かを察したのか、にやぁと笑う。
「ひょっとして……私のあまりの可愛さに見惚れたあ?」
「……自分で言うか?それ?」
「ゆかりに言われたからね。可愛くなる秘訣は自分で自分を可愛いと思うことだって」
 ハコは、寂しそうに小さく笑う。
「次にゆかりに会う時に可愛くなーいって言われないようにするの」
「…ふうんっ」
 カギは、興味なさげに呟く。
 そんなことしなくても十分にお前は可愛い……そう思いながらも言葉に出来なかった。
「カギ……ありがとうね。連れてきてくれて」
 ハコは、小さな声でお礼を言い、ハンバーガーを小さく齧る。
「お陰で元気出たよ」
 ハコの言葉にカギは鋭い目を大きく開く。
 言葉足らずなカギの誘いの理由をハコはちゃんと理解していたのだ。
「……そりゃ上々」
 カギは、照れを隠すように塩気の強いポテトを齧る。
「それじゃあ今度はゆかりが遊びに来た時にでも三人で来るか」
 正直、ゆかりとハコが間に入ってくれての付き合いだから友達と言うわけではない。
 それでもハコが望むなら三人で来ても全然構わない。
 そう思っていたがハコから出たのは予想に反したものだった。
「カギと二人で来たい」
 ハコは、恥ずかしそうに呟く。
「次もその次もカギと二人で海を見に来たい」
 ハコの言葉にカギの目が震える。
 ハコは、じっとカギを見る。
「カギはどう思う?」
 ハコの顔がカギの顔にゆっくりと近づいてくる。
「私と一緒は……いや?」
「そんなことは……」
 カギの心臓が激しく高鳴る。
 ハコのことをまともに見れない。
「俺も……ハコと一緒に見に来たい」
 カギがそういうとハコは嬉しそうに笑う。
「また来ようね」
「……ああっ」
「約束だよ」
「ああっ」
 カギは、小さく微笑んだ。

「まだ、約束は守れてないな」
 カギは、ぼそりっと呟く。
「なあに?パパ?」
 ハコが海から視線を外して不思議そうにカギを見る。
「何でもねえよ」
 カギは、小さく苦笑してハコの頭を撫でる。
「もうすぐ着くからな」
「うんっ!」
 ハコは、嬉しそうに頷き、その後はカンナと二人だけの世界の話しで盛り上がっていた。
 カギは、フロントガラスを通して海を見る。
 あの時とは違う海なのにどこかであの時のハコがまだ待ってる……そんな気がした。

 予想通りだが水族館に着いてからは大忙しだった。
 初めての水族館にハコは大興奮。
 日本でも有数のテーマパーク型の水族館はそれこそメインである水族館だけでなくジェットコースターやメリーゴーランドといった小規模の遊園地に大手フードチェーンが運営するレストランやスイーツ店、そしてゲームセンターなどのアミューズまで充足している。
 その全てがハコに取っては目新しくお預けを食らった犬のように目を輝かせてリード代わりに手を繋いでいるカギの手を振り解いて飛び出そうとする。
「ハコさん、今日は水族館でしょう」
 ダリア婦人がたしなめるとハコは小さな声で「はあい」としょんぼりと一度は答えるもののイルカのバルーンやイメージキャラクターの着ぐるみを見て再び興奮して飛び出そうとする。
 ちなみにカンナは何度かゆかり達家族で来たことがあるからかハコよりは落ち着いてるもののそれでも何か見るたびに「あそこ行きたい!」「アレ欲しい!」と小爆発を起こし、密かにゆかりを困らせていた。
 そんなこんなで苦行の道のりを超えて水族館に到着し、優待券を使って中に入った。
 水族館の中に入った途端、ハコもカンナも突然、静かになる。
 いや、静かになったと言うのは少し違う。
 心の中は外にいた時も遥かに弾んでいるが目の前に広がる幻想的な光景に意識を全て奪われたのだ。
 手をどれだけ伸ばしても収まらない巨大な水槽の中を円舞曲ワルツを踊るように珊瑚の周りを泳ぐ小さく、色鮮やかで可愛らしい熱帯魚たち。
 海が迫り来るような巨大なガラスの中を規則正しい法則を持って泳ぐ鰯や鯵たち回遊魚、ほの法則を突き破るように走る鮫やエイなどの捕食者たち。
 氷の世界を模した部屋の中で気持ち良さそうに寝転がる白熊。
 軍隊のように隊列を組みながら楽しそうにプールの中に飛び込むペンギン。
 そして全てを悟ったような表情で優雅に水辺を泳ぐ海亀……。
 その全てにハコは心を奪われた。
 カギは、夢中を通り越して魂だけを水槽の中に飛び込ませてしまったようなハコの姿を見て思わず唇を釣り上げる。
「あらあらすっかり虜になっちゃったみたいね」
 ダリア婦人が優しく目を細めて笑う。
 ゆかりとカンナは数メートル離れたところでセイウチを見て興奮している。
 ダリア婦人は、そっとハコの顔を覗き込む。
「ハコさん……楽しい?」
 ダリア婦人の顔に視界を遮られ、ハコの魂が身体に戻る。
 ハコは、ダリア婦人の目尻の下がった目を見て大きく頷く。
「……うんっ」
 ハコは、口を丸くしたまま頷く。
「とっても楽しい……」
 そういって輝くような大きな笑みを浮かべる。
「そう……それは良かったわ」
 ダリア婦人は、にっこり笑う。
「先生はどお?」
 ハコは、無邪気に笑ってダリア婦人に訊く。
「お魚さん好き?」
「ええっ大好きよ。でもね……」
 ダリア婦人は、顔を上げて水槽を見る。
「水槽に入ってるお魚は少し嫌かな」
 ダリア婦人の言葉にカギは眉を顰める。
「それはどう言う意味で?」
 カギの言葉にダリア婦人は目尻の下がった目を震わせて口を押さえる。
「嫌だ……ごめんなさい。私ったら……」
 ダリア婦人は、申し訳なさそうに肩を竦める。
「こんな場所で不躾でした。申し訳ありません」
 そう言って頭を下げる。
「いえ、そんな……」
 カギは、周りを見ながら頭を上げてもらうようお願いする。
「ただね……わたしどうしても思ってしまうのよ……」
「思ってしまう?」
 カギは、首を傾げる。
 ダリア婦人は、もう一度、水槽を見る。
「助けたい……と思ってしまうの」
「助けたい?」
 カギは、鋭い目が水槽に向く。
 ハコは、二人の話しが難しくて早々に水槽の中に意識を戻す。
「人間の身勝手な欲望で閉じ込められたこの子達を助けたい……と思ってしまうの」
 ダリア婦人の唇が小さく釣り上がる。
「馬鹿よね……救えるはずがないのに」
 自虐的に、皮肉っぽく笑う。
「ちっぽけな人間がこんな水槽に入ったって息も出来なければ水圧にも耐えられない。例え装備を整えても一人で救いきれるはずがない。そして……救ったところで彼らは感謝なんてしない。そんなことがあったことすらも忘れてしまうのだから……」
 ダリア婦人の目尻の下がった目が薄く開く。
「でも、私は願ってしまったの。救いたいって」
「ダリア婦人?」
 カギは、鋭い目をダリア婦人に向ける。
 しかし、ダリア婦人は水槽に目を向けたまま言葉を続ける。
「だから……だからあの人は……」
 ダリア婦人の小さく細い両手がぎゅっと握りしめられる。
「ダリア……」
「ハコちゃーん!先生ー!」
 カンナの明るい声がカギの出かけた言葉を飲み込む。
 カンナは、大きく手を振りながらこちらに向かって走ってくる。
 カンナの声にハコの魂が身体に戻り、大きな笑顔が浮かぶ。
「カンナちゃん!」
 二人は、ぎゅっと抱きしめ合う。
 ほんの数分離れただけなのに何年も離れ離れだったかのように強くて抱きしめ合う。
「そろそろショーが始まるよ」
 後から付いてきたゆかりが呆れたように二人を見ながら言う。
「早く行かないと立って見ることになるよ」
 ゆかりの言葉にハコとカンナは、抱き合いながら慌て出す。
「イルカさんに触れなくなる?」
「それはまた別の施設とこだからショーが終わったら行こう」
 ゆかりの言葉にハコは少し残念そうにしながらも「うんっ」と頷く。
「ほら行くぞ」
「はあい!」
「はあい!」
 ハコとカンナは、同じように手を上げて返事をするとがっしり握り合う。
「パパ!先生!行こう」
 ハコの言葉にカギは小さく頷く。
「先に行っててちょうだい。私はお手洗いに寄ってから行くわ」
 ダリア婦人が言うとゆかりは小さく頷く。
「席取っとくので分からなかったら電話下さい」
「分かりました」
 ダリア婦人は、小さく頭を下げる。
「先生待ってるね!」
「早くね!」
 ハコとカンナは、ダリア婦人に大きく手を振る。
「パパ行こう!」
 ハコに促され、カギは後ろ髪を引かれながらもハコに付いて行く。
 ダリア婦人は、じっと歩いて行く四人の背中を見つめていた。

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