希望のハコ 最愛の娘になった最愛の君へ 第二十話
"ねえ、ゆかり見て!あの空、マンゴーラッシーみたいじゃない?"
夏の夕暮れと夜の混じり合った空を見てハコが楽しそうに笑っていたのをゆかりは思い出す。
あの時は、何言ってんだろう?くらいにしか思わなかったが、環境が変わり、心境が変わってから改めて見ると確かにマンゴーラッシーのように見える。
(つまり……あの頃のハコはとても幸せだったってことだ)
愛情をたっぷり注いでくれる祖母がいて、親友と呼べる自分がいて、幼い頃から一緒にいてくれたカギがいた。
その幸せが溶けてしまったのだ。
暗い空に侵食されていく空のように。
ゆかりは、じっと空を睨む。
闇よどこかに行けと心の中で何度も唱える。
しかし、夜が消えるはずがない。
空は少しずつ闇に浸食されていく。
「どうしたの?ゆかりママ?」
ゆかりの右手を握って隣を歩くハコが心配そうに覗いてくる。
「どこか痛いの?」
ゆかりの左手を握って歩くカンナも「ママ?」と心配そうに覗き込んでくる。
そんなひどい顔してたのかな?
ゆかりは、いけない、いけないと頬を擦る。
「何でもないよ。お空が綺麗だなと思って……」
ゆかりに言われてハコとカンナも夕暮れと夜の混じった空を見上げる。
「なんか怖い……」
カンナがぎゅっとゆかりの左手を握りしめる。
「大丈夫よ。ママが一緒にいるから」
ゆかりは、そう言ってカンナに優しく笑いかける。
ハコを見ると、彼女はじっと空を見つめていた。
その顔があの頃のハコの顔に重なって見え、ゆかりは思わず口を開く。
「ハコ……あの空なんに見える?」
ゆかりに突然声をかけられてハコは大きな目を丸くする。
「あのお空?」
右手で夕暮れと夜の混じった空を指差す。
「そう。なんに見える?」
マンゴーラッシー?
それとも?
ハコは、大きな目を顰めてじっと夕暮れと夜の混じった空を見る。
「んーっと」
ハコは、唇を固く紡いで唸る。
「オレンジフラペチーノ?」
「えっ?」
ゆかりは、思わず瞬きする。
ハコは、大きな目をゆかりに向ける。
「この前、お仕事の帰りに寄ったフタバでパパが飲んでたオレンジフラペチーノに似てる」
オレンジフラペチーノ……。
ゆかりは、思わず空を二度見する。
確かにオレンジの夕日と夜が混じり合った姿はコーヒーとオレンジソースの混じったオレンジフラペチーノに似てる……。
「ハコ少しもらったけど酸っぱくて飲めなかった」
オレンジフラペチーノの味を思い出してハコは思わず舌を可愛らしく出す。
オレンジフラペチーノ……オレンジフラペチーノ……。
「ぷはっ」
ゆかりは、思わず吹き出す。
あいつ、似合わないお洒落な飲み物飲んでるのよ。
ゆかりは、堪えきれずに大声で笑う。
ハコもカンナもゆかりがなんで大笑いしてるのか分からずキョトンっとする。
ゆかりは、涙の浮かんだ目でハコを見て優しく笑う。
「やっぱりあんたはハコだ」
ゆかりの言葉にハコの顔に?が浮かぶ。
ハコはハコだよと言うように。
ゆかりは、ハコとカンナの手をぎゅっと握り、「ほら急ごう」と祭りへと急ごうとした。
その時だ。
「ハコさん……ですね?」
突然、名前を呼ばれてハコは目を丸くする。
男が目の前に立っていた。
角刈りに黄色と黒のストライプのポロシャツを着た胸板の厚い三十代前後の……言ってはなんだがそれ以上の特徴のない、道ですれ違っても直ぐに忘れてしまうような男……。
しかし、その男から異様な雰囲気が漂っている。
近寄っていけない……と理解よりも本能が訴えてくる。
ゆかりは、ハコとカンナを下がらせて自分の背中に隠す。
「……どちら様でしょうか?」
ゆかりは、身体中から暑さとは別の汗が吹き出すのを感じながら言葉に出す。
男は、表情を変えずにゆかりを、ゆかりの後ろのハコを見る。
「貴方に用はありません」
男は、端的に言う。
「部外者は引っ込んで下さい」
部外者……その言葉で男が何者であるかをゆかりは察した。
「貴方……被害者団体の……」
「はいっ」
男は、言葉を濁すことなく肯定する。
「ハコさんの同胞です」
同胞……ゆかりは、皮膚が泡立つのを感じた。
ショルダーストラップで肩に下げたスマホに目をやる。
カギに電話を……。
しかし、そんな暇はなかった。
いつの間にか老若男女、様々な背格好の人間が十人以上、ゆかり達を囲っていた。
皆,どこからどう見ても普通の人。
しかし、その誰もが男と同じ異様な雰囲気を放っている。
ゆかりは、無意識に身体が震え、スマホに触れることも出来なくなる。
ただ、ハコとカンナだけは守らなければと、二人を握る手を強くする。
カンナは、何が起きてるのか分からず、きょとんっとした顔で母を見上げる。
ハコは、じっと自分たちを取り囲む人間たちを見る。
頭の奥で何かが焼けるのを感じながら。
男は、ゆかりが怯えているのを感じながら一歩足を進める。
ゆかりは、思わず声を漏らしそうになるも男を睨みつける。
「ハコに……ハコに何の用?」
「決まってるでしょう?」
男は、馬鹿にするように鼻で笑う。
「一緒に来てもらいます。そして私達と奴らを潰すことに協力してもらいます」
男の言葉に同意するように周りの人間たちの異様な雰囲気も強まる。
ゆかりは、唾を飲み込む。
「ハコは渡さない」
ゆかりは、怯えた目に力を入れて男たちを睨む。
しかし、男は平然とした表情でゆかりを見据える。
「貴方の意見なんて聞いてませんよ」
男は、また一歩近寄る。
ゆかりは、二人を庇いながら後ずさる。
「部外者は引っ込んでいて下さい」
「部外者じゃない!」
ゆかりは、声を振り絞って叫ぶ。
「私は、ハコの親友だ!」
ゆかりの発した言葉にハコの目が大きく見開く。
ゆかりは、肩で息を切らしながら男たちを睨む。
しかし、男たちの表情は変わらない。
むしろバカにするようにゆかりを見る。
「親友ねえ」
男は、頬を掻く。
「ハコさんが大変な目にあってる時に何もせずにヌクヌクと生活していた奴が親友な訳がないだろう」
男の言葉にゆかりは、下腹部が冷えるの感じた。
「親友なら、彼女を想うなら私達と一緒に立ち上がっていたはずだ。鍵本さんのように命をかけて救いに行ったはずだ」
男は、ゆかりの前まで近寄る。
冷めた目がゆかりを見下す。
「お前は……ただの部外者だ」
ゆかりの全身から力が抜けていった。
「きゃあ」
カンナの悲鳴が聞こえる。
振り返るとカンナが年老いた女性に身体を押さえられていた。
「カンナ!」
ゆかりは、声を上げる。
その瞬間、大柄の中年が飛び出して来てゆかりを羽交い締めにする。
中年のあまりの力にゆかりの身体が悲鳴を上げる。
ゆかりの守りから離されたハコの周りに男達が近寄っていく。
「逃げろハコ!」
ゆかりは、呻きながら叫び、ハコに手を伸ばす。
しかし、ハコは身が竦んでしまって動けない。
男達は、ゆっくりとハコに近寄っていく。
「さあ、ハコさん」
「一緒に行きましょう」
「奴らを潰し、無念を晴らしましょう」
男達は、一斉にハコに手を伸ばす。
ハコの脳裏が焼けていく。
顔も見えない誰かが下卑た笑みを浮かべてハコに迫ってくる映像が浮かぶ。
ハコの顔が恐怖に引き攣る。
「いや……だ」
ハコは、怯え、後ずさる。
「いやだ……パパ……」
ハコは、怯え助けをこの場にいないカギに助けを求める。
映像の姿が色濃浮かび、迫り来る男達に重なる。
「パパ……」
ハコの目から涙が溢れる。
男達の手がハコに触れる。
「カギ……」
刹那。
苦鳴が夕暮れの空に響き渡る。
男が顔面を押さえて蹲る。
押さえた手から血がポタポタと落ちる。
周りの人間達は何が起きたか分からず呆然とする。
「粋じゃねえなあ」
怯え、涙するハコの頭に固い手が置かれる。
「こんな小さい子に大人が寄ってたかって襲うたあどういう了見だ?」
ハコは、涙に濡れた目で声の主を見る。
白髪の混じった短く刈り込まれた髪、たくさんの傷跡のある皺の多い顔、紺色の着物を着た小柄で痩せぎすの身体、そして銀縁の眼鏡……。
「ギン……おじちゃん?」
ハコは、呆然と呟く。
ギンは、眼鏡の奥を細めて笑う。
「おうっ久しぶりだなハコ坊主」
ギンは、優しくハコの頭を撫でる。
「怖かったろう?もう大丈夫だからな」
ギンは、にっこりと微笑む。
「ちょっと下がってろ……よ!」
言葉を出すと同時にギンの手から何かが投げられる。
「ぎゃっ」
カンナを抑えていた女性から悲鳴が上がり、押さえつけていた手が緩まる。
カンナは、その隙を付いて逃げ出し、ハコの元に走ってくる。
二人は互いの身体を抱きしめ、緊張が解けて泣き出す。
ギンは、そんな二人の様子を小さく笑みを浮かべて見つめ、そして被害者団体の人間達を睨みつける。
「悪鬼の銀道……」
ゆかりを羽交い締めした大柄な中年がぼそりっと呟く。
その言葉にギンの目が細まる。
「その名で呼ぶってことは警察関係者か……」
ギンは、小さくため息を吐く。
「市民を守らなきゃいけない警察が婦女子に暴行とは地に堕ちだもんだ」
ギンは、軽蔑するように大柄な中年を睨む。
大柄の中年は、奥歯を噛み締め音を鳴らす。
「極悪人に何が分かる!」
大柄の中年が叫ぶと同時に数人の男女がギンに襲いかかる。
しかし、その誰の手もギンに触れることはなかった。
ギンに迫った瞬間、一人は顔面が潰れて血を前歯と一緒に血を吐き出し、一人は腹を押さえて蹲り、一人は気が付いたら地面に叩きつけられた。
武道の経験のある大柄な中年にすら見えない、まるで魔法のような武技にハコとカンナは目を丸くする。
「お前らこそ……その娘の何が分かる」
ギンの目が冷徹に大柄の中年達を見据える。
「親友を助けたいのに何も出来ない、助かってからも常に苦悩し、親友の為に動き続けたその娘の気持ちの何が分かる?」
ギンは、一歩ずつ大柄の男の中年たちに近寄る。
大柄の中年以外の人間達は小さく悲鳴を上げる。
「そして一人の人間を一途に想い、救おうと足掻き、救ってからももがき苦しむ倅の気持ちが分かるっていうのか?」
ギンの脳裏に十年以上前の情景が浮かぶ。
「俺を組に入れて下さい!」
若かりしギンの前で頭を地面に叩きつけて土下座し、懇願する十五歳のカギ。
ギンの元にくるまでに組員共に散々痛めつけられ、満身創痍だと言うのに目の力は衰えていない。むしろ獣のようにギラつき、ギンを見据える。
「事情は分かった」
煙草の煙を吐きながらギンは、土下座するカギを見据える。
「しかし、そういうのは警察を頼れ。司法や行政に訴えろ。俺らみたいなもんじゃ何にも出来やしねえぞ」
ギンは、組員に傷の手当てをして帰すように伝えるがカギは引き下がらない。
「警察じゃダメだ。行政なんて何もしない……そんなんじゃハコは救えない。俺が……俺が……ハコを救う……」
「……お前一人で何が出来る?」
ギンは、憐れむようにカギを見る。
夢見る少年の夢をどうにか醒めさせようとする。
しかし、ギンは間違っていた。
カギは……夢の中にもいなければ眠ってもいなかった。
「今の俺には無理に決まっている」
カギは、燃えたぎる鋭い目をギンに向ける。
百戦錬磨のギンですら背筋の震える目を。
「だから力を付ける。あんたの元で働いて、修行して、ハコを救い出す!」
ガキの世迷言……。
そう切り捨てるのは簡単だった。
しかし、ギンはカギの入門を許可し、親子の契りを交わした。そして自分がこの道で学んだ喧嘩の極意をカギに身を持って叩き込んだ。
カギは、頭が良く、筋もよくてギンが教えることを全て飲み込んでいった。
いつしかギンもカギを認め、もっと年がいったら若頭くらには据えようと考えていた。
しかし、そんなギンでも思いもよらなかった。
カギが破門を申し出てカーマ教に単身で乗り込み、想い人を救出するなんて……。
そして救出した後も苦しみ続けるだなんて……。
「てめえら如きに息子の願いは潰させねえぞ」
ギンの目が、表情が怒りに歪む。
その顔はまさに悪鬼と呼ぶに相応しく、ゆかりは「ひっ」と悲鳴を上げ、被害者団体の人間達は声を荒げて逃げ出す。
唯一人、大柄の中年だけがその場に残った。
大柄の中年は、ゆかりを地面に投げ捨てると柔道の構えを取る。
有段者らしい隙のない構え。
しかし、ギンは、何も構えず、正中の姿勢のまま立つ。
夕暮れの空が夜に侵食され、闇が包んでいく。
風が小さく鳴り響く。
大柄の中年は、堪えきれずギンに襲いかかると大きな手でギンの襟首を掴み、そのまま背負い投げをしようとする。
しかし、男の三分の一くらいの体重しかないはずのギンの身体は一ミリも動かなかった。
ギンの口元に小さな笑みが浮かぶ。
「いてえぞ」
刹那。
男の巨体が宙を舞い、アスファルトに背中から叩きつけられた。
ギンが大柄の中年の身体の下に入り込み、背負い投げを返しただけなのだが、ハコ達には男の身体が勝手に宙に浮き上がったようにしか見えなかった。
大柄の男は、地面に叩きつけられた衝撃でそのまま気を失う。
ギンは、小さく息を吐き、身体を起こすとハコに向かってにっと微笑む。
ハコとカンナも顔が大きく輝く。
「ギンおじちゃんすごおーい!」
「魔法だ魔法だぁ!」
ハコとカンナはギンに大歓声を送る。
ギンは、小さく肩を竦め、地面に伏せるゆかり近寄り、手を伸ばす。
「よく頑張ったな」
ギンは、ゆかりに優しい笑みを浮かべる。
ゆかりは、呆然とギンを見る。
「あんたは,立派な母親で……ハコ坊主の親友だ」
その瞬間、ゆかりは大声で泣いた。
遠くからパトカーのサイレンの音が鳴り響いた。
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