希望のハコ 最愛の娘になった最愛の君へ 第十六話
お手伝いするぅ!と大声で叫ぶハコとカンナをダリア婦人にお願いしてキッチンを離れたカギ、ゆかりは雨宮にされて最初の面接の時に入った応接室のような居間に入った。
「どうぞお座りください……って私の家ではないですが」
そう言って雨宮は苦笑する。
人好きのする柔らかくて気持ちの良い笑みだ。
しかし、その笑みを見てもカギは警戒を解かず、ゆかりは緊張した面持ちで並んで座る。
そんな二人とは対照的に雨宮は楽しそうに部屋の脇に設置されたポットとティーセットを使って手際よく準備をしていく。
深く清涼な香りが部屋の中を漂う。
ここに来た時に飲んだ紅茶の香りだ。
雨宮は、ティーセットを持ってカギたちの方に近寄り、丁寧にカップを二人の前に並べ、紅茶を注いでいく。
清涼な香りが花が開くように広がり、鼻腔を擽る。
「お口にあいますかどうか……」
雨宮は、和やかな笑みを浮かべて二人の向い側に座る。
しかし、カギも……ゆかりも紅茶には手をつけず、向かいに座った雨宮を監視するように見る。
カギとゆかりを居間に誘ったのは雨宮だった。いや、正確にはゆかりは勝手に付いてきただけで彼が誘われたのはカギだけ。
「少しお時間を頂けないでしょうか?」
人好きのする柔らかい笑みで彼はカギに言った。
「お手間は取らせませんので」
雨宮は、じっとカギの鋭い目を見る。
丁寧で静かな言葉とは裏腹にカギに話しを聞いてほしい、承諾してほしいと言う意思が溢れていた。
カギは、承諾した。
別に雨宮に気圧されたからではない。
カギ自身も彼の話しを聞いてみたいと思ったからだ。
「そんなに警戒なさらないでください」
雨宮は、困ったように愛想笑いを浮かべる。
「私は、ただ貴方とお話しをしたかっただけなんです。我らを絶望から救ってくれた英雄、鍵本義一さんと」
英雄……。
カギは、その言葉を唾と一緒に吐き捨てたくなった。
そして思った。
白々しい……と。
「貴方の行動と勇気、そして結果がどれだけ私たちに希望を与え……心を救ったか……」
雨宮は、自分のカップを手に取り、赤茶色の面を見る。
「姉もとても喜んでいると思います」
「お姉さん?」
ゆかりは、首を傾げる。
雨宮は、目をゆかりに向ける。
突き刺さるような冷たく暗い目を。
ゆかりは、声なく悲鳴を上げ、背悶えて身体をぶつける。
カギは、怯えるゆかりを一瞥し、雨宮に目を戻す。
「その姉さんは……」
カギは、疑問として口に出したもののその答えは分かっていた。
「ご明察の通りです」
雨宮もカギが答えが分かっていることを理解し、小さく頷く。
「奴らに拉致されました。ハコさんのように」
雨宮の目に暗い熱が灯る。
「そして……貴方がハコさんを救った後……警察が一斉捜査に乗り出した時、姉は見つかりました。白骨化した遺体として……」
雨宮の言葉にゆかりは小さく悲鳴をあげて口元を押さえる。
カギは、静かに目を閉じる。
「……奴らに拉致された時……姉は十九歳でした。弟の私から見ても綺麗な……魅力的な女性でした」
雨宮のカップを握る手に力が籠る。
「我が家は……代々銀座でケーキ屋を営んでるんです。名物は大きな苺のミルフィーユ……」
その言葉にゆかりは、ここに来た時にダリア婦人がハコとカンナに出してくれたケーキを思い出す。
「お店には小さなカフェコーナーを設けていてケーキだけでなく、コーヒーやオリジナルブレンドの紅茶も提供しているんです」
雨宮のカップを持った手が震える。
「この紅茶がそれです。姉がブレンドしました」
ゆかりは、目を大きく広げ、テーブルに置いたカップを見る。
雨宮の目から涙が一筋流れる。
「姉は、両親の経営するお店を継ごうと父と母にケーキ作りを習いながら大学に通って経営を学んでました。とても優秀な姉でした……とても綺麗な姉でした……それなのに……それなのに……あいつらが……」
雨宮は、歯軋りし、カップを握る手が赤く染まり、カップが小さく音を立てる。
「あいつらが……!」
音を立ててカップが割れ、破片と紅茶が飛び散る。
ゆかりは、口元に手を当てて目を震わせ、カギは冷徹に雨宮を見据える。
雨宮は、肩で激しく息をしながら暗い目でカギとゆかりを見据える。
そして小さく息を吐くと最初に会った時と同じ和やかな笑みを浮かべる。
「失礼しました」
雨宮は、頭を丁寧に下げるとポケットからハンカチを取り出して濡れた手を拭き、テーブルを拭き、ハンカチを広げて飛び散った破片を集めていく。
「姉のことを思い出すと……今だにダメなんです……心が騒めいてしまうんです」
雨宮は、綺麗に集めた破片を包んだハンカチを足元に置く。
「奴らさえ……奴らさえいなければ姉は今頃、店を継いで、結婚して、幸せな人生を歩んでいたかもしれないんです……そう思うと……そう思うと……」
雨宮の表情は和やかだ。
しかし、その拳は大きく震えている。
「ハコさんは、運がいい」
雨宮の言葉にゆかりの目が大きく震える。
「どんな形でも命があった。鍵本さん、貴方が助けに来てくれた。奴らの神でない神がハコさんを守ってくれていたとしか思えません。これはまさに救いです」
「ふざけるな!」
ゆかりが大声を荒げる。
目が迸り、興奮し、肩で息する。
「あんたにハコの何がわかんだよ!どこに救いがあるんだよ!」
言葉遣いが廃れていた頃の中学時代に戻る。
「ハコはな……ハコはな……」
ゆかりの目から大粒の涙が溢れる。
「ゆかり……」
カギは、ゆかりの肩に手を置く。
ゆかりは、両手で顔を覆い、声を啜りあげて泣く。
「大変失礼致しました」
雨宮は、ゆかりに向かって頭を下げる。
「何も知らない人間が不躾で無配慮なことを……どうぞお許しください」
雨宮は、深く深く頭を下げる。
しかし、カギは分かっていた。
彼は、心の底から謝ってない。
むしろゆかりに対して怒りを感じていることを。
お前に何がわかる……と。
「顔を上げて下さい」
カギが言うと雨宮は、ゆっくりと顔を上げる。
その表情は和やかなままだった。
仮面みたいだな、とカギは胸中で愚痴る。
「それで……貴方は俺と何を話したいんですか?」
カギは、誤魔化しも探りもなく、ストレートに雨宮に訊く。
雨宮の和やかな目が小さく震える。
ゆかりは、両手を下ろして濡れた目でカギを見る。
「その話しがしたくてここに来たんでしょう?」
カギは、目を細めて雨宮を見据える。
雨宮は、表情を変えないままにふうっと息を吐き、背もたれに身体を沈める。
「ハコさんをお貸し下さい」
カギの身体から怒りと殺意が溢れ出す。
ゆかりは、反射的にカギから離れる。
雨宮の穏やかな表情の上を冷や汗が流れる。
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、てめえ」
カギは、怒りに激る獣のように雨宮を睨みつける。
「ふざけてなどおりませんよ」
雨宮は、努めて平静に話す。
「孔雀会をご存知ですか?」
孔雀会……。
カギの脳裏に三日前にゆかりに案内されて見た雑居ビルが浮かぶ。そしてそこから現れ、住民たちの蔑んだ目に晒されながら掃除をする孔雀の絵プリントしたTシャツを着た弱々しい人間たちの姿が。
「それがどうした?」
カギは、鋭い目で雨宮を睨みつける。
返答次第ではその喉仏を噛みちぎると言わんばかりに。
雨宮は、和やかな目を震わせてカギを見る。
「奴らを潰すのに協力していただきたい」
カギの目がきつく細まる。
「カチコミでもする気か?」
「する訳ないでしょう」
雨宮は、ふうっと息を吐く。
「何が悲しくてあいつらと同じような非人道行為をしないといけないんですか?それにもしするならハコさんでなく貴方に協力を仰ぎますよ」
そう言って雨宮は、カギの身体をじっと見る。
「私も護身の為にそれなりに武道の心得はありますが貴方には到底敵わないでしょうね。悔しいですが生物としての質が違います」
「そんな下らないことはどうでもいい」
カギは、唇を歪める。
「さっさと話せ」
雨宮は、予備のカップを取り、ティーポットから冷めた紅茶を淹れ、乾いた唇を湿らせる。
「全国に孔雀会のような団体がどのくらいあるかご存知ですか?」
雨宮の質問にカギは、眉を顰め、ゆかりを見る。
ゆかりも首を横に振る。
「三十箇所ですよ。ちなみに関東圏には十箇所です」
雨宮は、カップを膝の上に置く。
「意外と多いでしょう?」
意外と……と言われても比較する対象がないので何とも答えられない。
カギは、無言で雨宮を見据える。
しかし、雨宮はそれを肯定と取ったのか話しを続ける。
「貴方に潰され、あれだけ世論に叩かれ、法の裁きを受けたと言うのに奴らは今だにありもしない神を求め、下らない仲間意識で居場所を求めている。まったく厚顔無恥も甚だしい」
雨宮は、穏やかな表情のまま唇を小さく歪める。
「そして何よりも許せないのはこの国です」
雨宮の言葉にカギは眉を顰める。
「あれだけのことをした奴らを今も自由にのさばらせている。取り締まりもせず、罰も与えずに」
「何も悪さしてないんだろう?」
カギは、顎に皺を寄せる。
「ただ、集まって自分たちを慰め合ってるだけなんだろう?そんなものに警察も行政も動く訳がない」
もし、気に入らないという理由だけで出来てしまったらこの国はただの独裁国家に成り下がってしまう。
「ええっ分かってますよ」
雨宮は、愛でるように紅茶を啜る。
「この国の惰弱ぶりは嫌と言うほどこの身に滲みてます。だからこそハコさんが必要なんですよ」
カギの鋭い目が細まる。
「被害者団体には様々な業界の有力者の方々もいます。その中にはメディア関係者も少なからずいます。彼らにハコさんの現状を取材し、発信してもらうんです」
ゆかりの表情が青ざめる。
「ハコさんは、現状、奴らの最大の被害者であり生き証人です。彼女に対して奴らが行った行為、そして現在の彼女の置かれた状態、立場を世間に知ってもらえば再び世論は動く。今度こそ奴らを再起不能まで叩き潰すことが出来る」
雨宮の表情は、穏やかだ。
しかし、その目の奥の光は狂気じみたものを発している。
「どうか私達と一緒に……」
「ふざけないで!」
ゆかりは、顔を真っ赤にして立ち上がる。
「ハコを何だと思ってるのよ!」
ゆかりの怒りの叫び、しかし、雨宮は表情一つ変えずに見上げる。
「被害者ですよ。私達と同じ」
雨宮は、穏やかな目を冷徹に細める。
「だからこそ彼女も私達と一緒に戦う義務と権利があるんです。だから……」
雨宮の目に怒りが灯り、ゆかりを貫く。
「何も知らない部外者が口を挟むな!」
雨宮の殺意にも似た怒りのこもった目にゆかりは気圧され、崩れるようににソファに腰を落とす。
雨宮は、馬鹿にするようにゆかりを見て紅茶を啜ろうとする。
「部外者はお前だ」
カギが雨宮に鋭い目を向ける。
刃のような怒りを持った目を。
「ゆかりがどれだけの想いを持ってハコと接してたかもしれない癖に囀るんじゃねえ……孔雀の羽をむしる前に二度と晴れ間を見えなくしてやるぞ……」
カギの身から放たれる千切れるような圧に雨宮は無意識に身体と心を震わせた。
しかし、それは一瞬のこと。
雨宮は、穏やかな目を冷徹に細め、カギを見返す。
「私は姉の……被害者たちの無念の思いを背負っております。奴らの行為はそんな被害者たちの無念に唾を吐きかける行為……決して許すことは出来ません。潰すことすら生優しいと思ってます」
「思うのは勝手だ」
カギの目の怒りが膨れる。
「それにハコを巻き込むんじゃねえ」
カギの燃えたぎる目を雨宮の冷徹な目が受け止める。
そして小さく笑みを浮かべる。
「それは……ハコさんの意思ですか?」
「あっ?」
「子どものハコさんではなく、本当のハコさんはどう思ってるんですか?」
カギの目の怒りが一瞬小さくなる。
雨宮は、それに気づく。
「ハコさんも私の姉同様に壮絶筆がたい目にあわされたと聞き及びます。奴らへの恨みは私たちの比ではないはずです」
雨宮は、前のめりになってカギに訴える。
カギの目が大きく震える。
三日前の怯えるハコの姿と、奴らの本拠地で再会したハコの姿が頭を過ぎる。
「ハコさんもきっと私たちと思いは一緒のはずです。どうか彼女の無念を、思いを無視しないで下さい!」
ハコの無念……思い……。
ハコの姿が頭に浮かぶ。
パパと無邪気に笑うハコ。
苦しみ、絶望に震えるハコ。
(ハコ……お前は……)
「さあ、カギさん」
雨宮が手を差し伸べる。
「貴方も私たちと一緒に……」
その時だ。
「いい加減にしなさい。雨宮さん」
穏やかで強い声が部屋の中に響く、
三人の目が声の方を向く。
大きなお盆を持ったダリア婦人がそこにいた。
「今日は貴方がどうしても鍵本さんにお礼を言いたいと言うからお招きしたのよ」
凛とした姿勢で、三人を……雨宮を睨む。
「そんな話しをさせる為ではないわ」
ダリア婦人の刺すような目に雨宮は怯む。
「パパァ」
「ママァ」
ダリア婦人の後ろからハコとカンナが現れ、小走りで駆け寄り、カギとゆかりに抱きつく。
「カステラ美味しく焼けたよ!」
ハコは、目を輝かせてカギに言う。
「甘くてフワフワだよ」
カンナも嬉しそうにゆかりに報告する。
「パパも一緒に食べよう」
嬉しそうに無邪気に笑うハコ。
その笑顔を見て……カギの怒りと戸惑いの火が細まる。
カギは、ハコの頭にそっと手を置く。
カギは、優しく優しくハコの頭を撫でて小さく微笑む。
「そうか……それは良かったな」
カギが言うとハコは目を輝かせ、ぎゅっとカギを抱きしめた。
そんな二人の姿を雨宮は、ぎっと目を細めて睨む。
「雨宮さん」
ダリア婦人は、きつく言う。
「分かってますよ」
雨宮は、音も立てずにゆっくりと立ち上がる。
「カップを一つ割ってしまいました。後で弁償致します」
「別にいいわ。それより……」
「失礼します」
雨宮は、ダリア婦人に頭を下げ、その横を通り過ぎる。
「貴方も……同じでしょう?」
雨宮の小さな声がダリア婦人の耳を打つ。
ダリア婦人の穏やかな目が一瞬震えます。
「鍵本さん、ハコちゃん」
扉の手前で雨宮は、振り返る。
カギは、きつく、ハコはきょとんっとした目で雨宮を見る。
「また、お会いしましょう」
そう言って雨宮は、部屋を出て行った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?