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屋台はほぼ匂いだし

 小説というものは自分とはかけ離れたものと思っていた。たとえばそれは歪んだ並行世界のようなもので、決して交わらない。ふわふわと浮かんだり鋭く横切ったりするものであって、息を吸うとふくまれている冬の匂いのようなものでは決してない。そう思っていた。

 それがさっき揺らいだ。いつものように帰り道のルーティンとして駅前の本屋に寄り、(最近リフォームしたばかりで薄暗くなってしまった)肉を剥いだり溶かしたり脱いだりするような描写を流し見しているうちになんだか遠かったはずの小説が日記ほどぐんと近づいてきた。

 小説の中を歩んでいるはずはないが、小説のまっこと外にいたらば小説を感じ取れないことがそんな当たり前のことがふわんと大きく傾ぐ。
日常の延長線上に非日常があるから小説で、わたしの日常も誰かの非日常足りえるみたいなことなのだろうか。そんなつまらない話のつもりはないのだけれど。

 立ち読みの姿勢はいつも情けない。わたしの眼前に広がる本の背広がぐんと迫ってパッと散る。そのなかをなるべく俯瞰的な気持ちでなぞっていく。本屋は何度来ても約束の整列のようにやさしい。
 ちかく、バスの来る時間になってわたしは何も買わずに店を出る。ロータリーの近くのパン屋ではイチオシとされるカレーパンの幟が立っている。それが冷たい雨に揺れている。その暗い白色を目の端にとらえながらわたしの足は進む。進むべき道と、進むべき時間は決まってなかったり決まっていたりする。書きたいことのまだ数秒も書き切っていないのにいつか書かなくなることを考えていたら足をぐねりかけた。ぐねるという表現と動作がかなりマッチしていておもしろい。

 雨の匂いのしない雨のなかで、わたしの心臓がぬめりを帯びる。薄い明日が漂い始めた街の、そのひとつぶのバスのなかで、わたしが命していたりする。

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