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【知られざるアーティストの記憶】第92話 流行病の季節

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第13章 弟の死

 第92話 流行病の季節

2022年2月15日、マリは年上の友人キョウコと共にT山に登る約束をしていた。そのことを彼に話すと、彼はまた
「私も行こうかな?」
と言った。それは、14日のランチ会でマホが改めて話してくれた、
「イクミさんはきっと、マリちゃんを通していろんな人と出会って、もう一度人間を信じてみよう、って思えることで傷が癒えていくんと違うかな?」
というアドバイスを彼に伝える前であったので、マリは驚いた。彼の感度の良さなのか、彼とマホは意識の根底で繋がっているのか。

ところが、前日の雨で足元がぬかるんでいるかもしれないからと、キョウコとの登山は延期となった。マリは朝から頭と喉と腰が痛み、葛根湯を服んだが、T山に登りたい気持ちが抑えられなかった。ノブヨから受けた痛みは一晩経つと余計に強さを増し、キッチンに立っていても車を運転していてもマリに涙を流させた。風邪のような体の痛みも、もしかしたら山に登ることでかえって良くなるかもしれない。マリは胸の痛みを捨てるためにひとり、T山に登った。

翌2月16日の朝、マリの体調は平常どおりに戻った。胸の痛みと共に体調の乱れもT山に捨ててきたのだ。そこで予定どおりに、S医院に4度目の受診をする彼を車で送迎した。

その日の夕方、マリは知人のお通夜に参列する予定だった。その人は奥さんと共に、自閉症のマリの次男を可愛がり、面倒を見てくれたおじさんで、年齢は彼と一つしか変わらなかった。ところが、彼とS医院に行って来た午前中は何ともなかったマリの体調は、昼食を食べた後からにわかに怠さを覚え、38度の発熱を伴った。当然、お通夜には行かれなかったばかりか、マリは高熱と割れるような体の痛みに臥せることとなった。


©Yukimi 『未来へのレクイエム』より


「新型コロナウイルス感染症、陽性」。2月17日、自治体から取り寄せた抗原検査キッドはまるで妊娠検査薬のように、そのような判定結果を示した。どんな体勢をとってももて余すほどの頭や腰の痛みに、マリはこの流行病を風邪のようなものだろうと見くびっていた自らの認識を、涙ながらに訂正した。

そして頭をよぎるのは、この風邪を移したかもしれない彼のことであった。白血病闘病中で独り暮らしの彼がもし発症してしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。彼とは毎日会っていたし、気になるのは発症直前に車という密室に往復40分以上も乗り合わせたことだ。おそらく二人ともマスクもしていなかった。白血球が正常ではない彼は、免疫力も高いわけがない。これは移したな、とマリは絶望し、今度ばかりは自分の行動の軽率さを悔いた。どうにか彼だけは発症しないでと、マリは気が気でなかった。

「13日の夜に出掛けたのって、この時期にみんなマスクもしないで会食やお話し会だと言うから、ずいぶん軽率だなとは感じてたよ。俺はとやかく言うつもりはないけど。」

夫は仕事を休んでマリの代わりに子どもたちの面倒を見、マリにも食事を作ってくれたが、寝込んでいるマリに多少の小言を言った。その頃は、同居の家族に発熱者がいるだけで出勤を断られる社会情勢下にあった。
「これじゃ家族に移るのも時間の問題だし、下手したら1ヶ月間収入がなくなるよ。」

≪マリちゃんが熱を出したことなんて、会社に言わなければわからないと思うけど、旦那さんは真面目なんだね。≫
とメイは言う。マリもこの場合の世渡りをどうしたものかと思いを巡らさないわけではなかったが、先のことを考えれば会社に黙っておくという選択は採れなかった。マリたちもまた、いざとなると流行病の管理社会にくみする真面目な夫婦であった。

13日と14日の参加者にはその後、マリが知る範囲でも数名の発熱者があった。検査をして陽性だったという報告は特に届いていない。このことを「メイクラスター」だと小声で自嘲するメイは、勤務先の自然食品店からの要請で市販の検査キッドを買って検査をしたところ、陰性であった。


©Yukimi 『未来へのレクイエム』P・7


マリは家族の目を盗み、寝室から彼の黒電話を呼び出した。毎日必ず顔を出していたマリが突然来なくなれば彼は心配するだろう。マリは流行病を発症してしまったこと、あなたを車でS医院に送った直後に発熱したので、移した可能性が多分にあること、だから、なるべく発症しないように、無理をせず気をつけて過ごしてほしいこと、そして、あなたも社会的には「濃厚接触者」であることなどを伝えた。

思えば、用があればすぐに行かれる距離であったから、マリが彼の黒電話を呼び出す必要に迫られる機会はこれまで訪れなかった。受話器から聞こえる彼の声はなんだか聞き慣れず、遠いのにかえって近くに聞こえるような不思議な距離感を持っていた。電話越しに彼が発した言葉を一つも思い出せないが、彼はやはりいつもの通りに落ち着いて淡々と受け答えをした。とにかくよく休んで、そして何かあればまたいつでも電話をして、とだけ伝えてくれたように思う。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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