【知られざるアーティストの記憶】第42話 愉氣の模索と、触れあいへの模索
Illustration by 宮﨑英麻
第7章 触れあいへ
第42話 愉氣の模索と、触れあいへの模索
そんなわけで、検査の翌日である2021年9月17日の朝から、マリが気功後に彼に「愉氣」をする日々が始まった。
「愉氣」とは、マリが長男を妊娠中に出会った「野口整体」におけるお手当てのことである。その術は、シンプルだけに奥が深い。マリが習ったのは、突発的な怪我や発熱など、子育ての日常で使える母親の術として、その「基礎の基礎」部分のみであった。それは、探求心とセンスがあればどこまででも鍛錬が可能な技術でもあった。
マリは野口整体の理論やものの見方に、これまでに出会った代替療法のうちで最も深く魅了されながらも、その技術的な鍛錬からはとっくに遠のいていた。それは例えば子どもが転んで頭を打ったときに咄嗟に「愉氣」をする「クセ」として残るばかりで、その技術については気休めとさほど変わらないものかもしれなかった。しかし、マリが彼に対してするのであれば、何かが起こるかもしれないと、試してみることにしたのだった。
まず、頭の中を空っぽにする。そして、相手の体の「なんとなく気になる」ところ二箇所に左右の手を軽く置く。相手の呼吸を感じる。自分の呼吸を相手の呼吸に合わせる。吸ってるな、吐いてるな、を感じることを通して、相手の体の感じを味わう。手の触れている場所に、呼吸によって空気が入り、空気が出るのを感じる。その場所は、空気が入りやすいのか入りづらいのか、他よりも温かいのか冷たいのか、固いのか柔らかいのか、ゴリゴリしている、カサカサしている、ピリピリと感じるなど、とにかくただそのままに味わう。ジャッジはしない。そして、その場所から自然と手が離れたら、次に気になる場所に手を移動させる。
マリは、遠い記憶の感覚を思い出しながら、彼の体に触れた。彼を部屋の真ん中に立たせて、マリは背後に立ち、頸椎と仙骨、肩甲骨、腰骨、出っ張った膝、くるぶし、筋肉質の腕、両目、額と後頭部、鼻、たまに前面に回って鎖骨など、恐る恐る愉氣をした。特に彼の頭部には、しつこく愉氣をしたような気がする。
ふと出来心に従って、マリが彼を背中から抱きしめると、
「なあに!」
と彼からお咎めを食らった。
マリの技術にはやはりムラがあったようで、愉氣が最も深く入ったのは開始から二日目の9月18日のようであった。この日、愉氣のあとに彼は一言も口を利かなかった。マリが何を話しかけてもただにっこりして頷いたりするばかりで、そのくせ玄関にマリを見送るときには、まるで生まれたての雛鳥のような熱烈な視線をマリに投げ続けた。
翌日、彼はマリに
「ちょっと感じていることがあるんだけど、今はまだ言わない。もう少し様子を見る。」
と言った。
「ねえ、前からずっと、向かって右側の首の付け根辺りが気になっているの。いいから黙って、こうさせて。一度だけ。」
まだ三日目にして、マリは愉氣の終わりに大胆にもそう提案すると、彼を向かい合わせに抱きしめて、向かって右側の首の付け根に唇を押し当てた。
彼は逃げも拒みもしなかったが、彼の両手はマリを抱きしめなかった。その代わりに体の横でぐっと拳を握りしめ、体全体を強張らせていたので、マリは何一つ感じることができなかった。
「キミを抱けないよ。」
マリが離れると、彼はそう言った。
そして、帰り際にさりげなく言った
「愛してくれてありがとう。」
という言葉には、深く心が込められているように感じられた。マリはその目を見つめ返してこくんと頷いた。
「セックスしたいわけじゃないだろう?私もしたいわけじゃない。」
彼のストレートな言葉に、マリは言葉を失った。彼に触れることで彼を癒したい気持ちと、マリ自身が彼に触れたい気持ちは、混ざり合ってその境目を失い、元々は別物だったのか、初めから一つのものだったのかすらよく解らなかった。
「それにしても、なんで私のここが悪いってわかったの?私は父と母の介護をしてからずっと、左腕がしびれ切っているんだよ。」
マリの「なんとなく気になる」感覚が当たっていたことは、マリ自身には「まぐれ」のように感じられ、特に自信を上げはしなかったが、彼に対してはマリの愉氣の株を上げたようであった。
検査の翌日から、彼は玄関扉のリフォームに黙々と取り掛かった。
「こういうことには慣れているんだよ。」
と、近所のホームセンターから自転車で持ち帰った乳白色のアクリル板をあっという間に部屋の中でカットし、扉の枠にそれを嵌め込んだ。下3分の2にも劣化した板を取り外してアクリル板を嵌め、明り取りにした。マリの見ていない隙に扉がすっかり生まれ変わり、玄関に戻されると、翌日から彼はそれにペンキを塗り始めた。元々はペンキの塗られていなかった扉に彼が塗ったのは、クリーム色のペンキだった。
その夏、マリは次男と三男を、彼の家の隣の大きな橋の下を流れる浅い川で頻繁に遊ばせた。午前も午後も玄関でペンキを塗り続ける彼の横を、浮き輪を抱えたマリたちが何度も通り抜けた。大工仕事をするときの彼は、作業にあまりにも集中していて、マリが傍に寄っても気がつかないほどであった。話しかけては申し訳ないような雰囲気を漂わせる彼の様子を、マリはそっと見つめたり、たまに話しかけては油を売ったりした。
水着を着て本気で遊ぶ息子たちを、いざというときは助けることができるように、普段は履かない短パン姿であった自分を、マリはまるで小学生の男の子みたいだと感じてちょっぴり恥じた。ガキみたいで色気の欠片もないと思ったその脚を見て彼は、
「なんて格好しているんだよ。」
と驚いたように言った。
彼は自分の子ども時代にさんざんこの川で魚を獲った思い出を楽しそうに語った。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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