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【知られざるアーティストの記憶】第47話 マルクスの疎外論を語る口で彼は、5歳の男の子のような素直な言葉を発する

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第7章 触れあいへ
 第47話 マルクスの疎外論を語る口で彼は、5歳の男の子のような素直な言葉を発する

あくる日は昼間も会える予定だったので、マリは身体的準備を整えて期待に胸を膨らませていたが、子どもたちの体調のために台無しとなった。いつも愉氣を始める時間に橋の袂まで出て来ていた彼にそれを伝えると、
「早く帰ってあげて。」
と彼は言った。彼も免疫力が落ちているのか、瞼がものもらいになってしまったのだと。触れ合ってしまってからは、会えない日がことさらつらく、マリの頭は彼のことでいっぱいとなった。そして、性欲が強いと言われたことに対する弁明と、別れに対する彼の不安をどうにか取り除きたくて、またペンを執った。

(前略)
この人のことが好きで愛おしいから、触れていたい、抱き締めたい、触れながら会話したり、呼吸していたい。そうしているうちに、体が熱くなってきて、もっと深くつながりたくなる。それが性欲かなと思います。(中略)「好き」から「セックス」までの流れのどこかに「一線」があるとも私は思っていないのです(手をつなぐのも広義のセックス)。だから、あなたに思いを伝えた時点で全ての覚悟をしたつもりです。離婚に至るかもしれないことも含めて。(中略)
セックスは私には必須ではありません。お互いの気持ちが昂じてそこへ至ってもいいし、その手前でたゆたっていてもよいです。(中略)

いつかお別れが来るかもしれないことに対し、あなたを過度に不安にさせてしまったことを申し訳なく思います。確かに私は移り気なところがあるのは事実かもしれません。だけどお互いに、気持ちというのは移りゆく無責任なもので、「好き」という感情に責任は伴わないと私は思います。未来への約束というのは、本来できないものではありませんか?それが、夫婦も含めた男女関係の根本で、軌道を異にする惑星同士のように、お互いに引き合う(必要とする)間は一緒に居るということかと思います。
先がどうなるかは誰にもわからないので、一緒に居られる今に集中していたいと私は思います。それではだめですか?

マリの手紙 2021/10/5 より抜粋

「私はキミのことをちゃんと受け入れているじゃない。初めはキミの恋愛観を受け入れられなかった。だけど受け入れた。キミと一緒に居たいから。」
この手紙への返答だったのかは定かではないが、彼はマリにこのように話した。確かに、彼は自らの懐を完全に明け渡し、マリをその内へすっぽりと迎え入れていた。彼が他人と一切関わらずに生きてきたことを思うと、そのなんとスムーズで無抵抗なことであったかと、感心せずにはいられない。その代わりに、
「私は言葉を遺したくはないんだよ。」
とも言い、マリの手紙に対して一切返事をくれないばかりか、面と向かって
「愛しているよ。」
などと言うこともなかった。いや、聞き違いでなければ1度か2度、
「愛してる。」
というごく小さい声を空間に放ったことがある。それは彼のどことも接していない、宇宙空間に直接放たれたような響きを持つ聲であった。


©Yukimi 彼の若い頃の作品より


「それと、離婚はしてはいけない。そんなことをしたら、私みたいに寂しくなっちゃうから。」
マリが夫と別れることに対しては、彼は一貫して強く反対した。マリもまた、夫と別れて彼と再婚したいなどという願望は夢にも抱かなかった。結婚という枠組みを彼との間に持つことに、何の意味も憧れも感じなかったからである。今の彼との関係、心の繋がりに100%満足していた。夫に隠しているのはフェアじゃないのではないかという罪の意識を石ころのように抱えつつ、いつか隠し切れなくなったときは離婚に至るかもしれないことを覚悟しながらも、マリは今の時間を大切にするよりほかはなかった。二人の理由は食い違っていたが、彼の「離婚してはいけない」という意見に対して、マリは軽く頷いて同意を示した。
「キミが『もうこれ以上は無理です』と言ったら、私はいつでも身を引くから。な?」
それにはマリは頷きたくなくて、苦笑いをして目をそらした。

「私は結婚した当初から、夫が私のことを愛しているとは全く感じられないんです。それは、夫が私の話をちっとも聞いてくれないから。話を聞かないということは、私に興味がない、愛してもいないとしか感じられないのよ。私なら好きな人のことは知りたいと思うから、当然話にも耳を傾けるからね。」
マリは夫との夫婦関係の本質について語った。
「いや、夫は外で働いているだろう?ということは、疎外されているんだよ。私とは違うよ。」
彼はマルクスの疎外論に則り、私とは違う、私と比べてはならないということを強調して夫の肩を持ち、マリの不満に取り合わなかった。


©Yukimi 彼の遺作『未来へのレクイエム』より


二人の触れあいは、特に進展をしなかった。彼はハグをするのが好きで、それ以上を積極的に望む様子もなかった。ハグをしてから別れるとき、彼はたいてい
「ありがとう。」
とお礼を言った。

あるとき、ハグのあとで
「ちんちんが立っちゃった。」
と唐突な申告をしてから、
「そういうこと、言ってもいいんだろう?」
と慌てて確認してきたことがあった。マリは呆気にとられ、思わず笑った。そりゃあ、ハグをするあなたと私の間に起こることだから、言ってくれても全然かまわないのだけれど……。まだ私はあなたのそれを見たことも受け入れたこともないのである。なんて正直でありのままの言葉を発する人なのだろう。まるで何でも母親に報告する5歳の男の子のようだとマリは思った。

「完全に立っちゃった。……でも持続性がない。私はキミのことを満足させられない。」
経験のない彼がそういう不安を抱くことも無理のないことだが、マリの求めていることはそんなところにはないのだから、そんな要らぬ不安など手離してほしかった。きっとなるようになる。時間をかけて彼に安心してもらい、二人の愛を育てていけばよいと、そのときのマリは思っていた。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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