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当時の学校教育を風刺した、ブラック・コメディ『ザ・中学教師』

本作は、1992年に公開され、斎藤博脚本、平山秀幸監督の、公立中学を舞台に生徒と教師の対立を描いた学園ドラマだ。配給は、商業映画とは一線を画し独自の路線を攻めていった、アルゴプロジェクト。監督を務めた、平山秀幸は、この作品が公開された3年後の、95年から『学校の怪談』シリーズを手がけている。前年の94年に公開された、短編作『よい子と遊ぼう』も、中学生を描いた作品だ。いじめや、暴力が蔓延する公立中学を舞台に、生徒と教師の取っ組み合いの喧嘩の様な、凄まじい死闘が繰り広げらるのだが、その描かれ方はとても不気味で、これまで、つくられたきた学園モノのドラマとは似ても似つかない。学校教育を風刺したブラックコメディと言えるだろう。しかし、本作の構成はやや複雑で、これを今の人が観て作品の真の意図が伝わるのかどうかは、かなり怪しい。原作は宝島から出版された別冊宝島、「ザ・中学教師」シリーズとなっている。刊行に携わったのは、「プロ教師の会」という、埼玉の公立中学の教員によりつくられた組織だそうだ。しかし、その「プロ教師の会」の提案する教育方針というものには驚いた。なぜかと言えば、中学教師の本家大元、金八先生の教えとは似ても似つかぬほど違っていたからである。自身のことを「プロの教師」と公言する、中学教員たちの考案する教育方針とは、一体どの様なものなのだろうか。簡単に言ってしまえばこうだ。教師と生徒の立場を「教える側」と「教えられる側」に区別し、生徒の立場を擁護する者には、徹底的に非難を浴びせる。80年代は、「校内暴力」が社会問題となり、メディアを賑わせていた。そして、97年頃から「学級崩壊」という言葉が使われ始める。本作の主人公である、三上周平は、規則に厳格で、規律には人一倍、厳しい。自分が受け持つクラスの生徒の喫煙が発覚すると、「なぜ、タバコを吸ってはいけないか、分かるか?」と生徒に問いかける。その場に立たされた生徒は、「体に悪いから。」と答えると、三上は「違う。」と答え、他の生徒へと問いかける。「法律に違反しているから。」と次の生徒が、答えると、「そうだ。」と返事をする。そして、学校にいる間は、生徒の役を演じろと教え込む。自分は、教師の役を全うし、社会の規範となる人材を育成するべく、生徒を教育するのだと。考えてみれば、規則を遵守し、自分の与えられた「役」を守っている限りにおいては、システムというものは、とても便利なものである。例えば、車の免許を持っていなくても、バス停や駅で立っていれば寸分の狂いもなく、予定通りの時間にやってくる。わざわざ近所の人に頼みに行くこともない。味噌が足りなくなれば、遅くまでやっている、近くのコンビニまで買いに行けばいい。それならば、システムの外へとはみ出た人間はどうなってしまうのか。タバコに手をつけた生徒たちは、クラスの話し合いにより、登校時刻前の7時30から、3日間、廊下の水拭きをやらされることになった。しかし、その後の彼らは更生するどころか、コンビニで万引きし更に罰を与えられる。「日本の法律だと、中学は義務教育だから、停学処分にはならないんだって。」3人の会話の中で語られる、この台詞はとても象徴的で、法の元で解決することの困難を体現している。そのあと、上島昇はシンナーでラリって学校のプールで水死体になり、発見される。結局、上島はシステムの中へと戻ることなく、短い生涯を終えたのである。三上は葬儀に訪れるのだが、そこで発せられた言葉には耳を疑った。「死んだ者を教育することはできない。」いじめや暴力が連鎖する校内で、その原因を追求することなく、歯向かう生徒には罰則で圧力を加え、個々のエゴを捨てさせ、生徒の結束力を強めるよう促す、三上の教育方針により、クラスはめちゃくちゃになって行く。放任主義の長内純子も大差はない。生徒を構う様なふりをしていながら、本当は生徒と関わることを避けているのだ。それが言わずとも生徒たちからは、透けて見えている。この学校の教師たちは、生徒個人とは向き合おうとしない。なぜならば、交換可能な、「生徒」という役割を演じた同等の存在としか見ていないからだ。公立中学を舞台に、学校教育の現状を批判的に描いた本作は、現代の社会の縮図とそっくりだ。学校はその縮図の一つに過ぎないのかもしれない。


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