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学生オーケストラという青春【前編:生き方】

学生オーケストラという青春の使い道がある。

それはとんでもなく熱くて、純粋で、ヘビーな青春だ。
現在もなお学生オケでヴィオラパートのトップ(首席奏者)を務めている私が、この団体の中で何を見て、何を感じてきたか、
そしてコロナ禍に見舞われた今、学生オケはどんな状況下に置かれているかを、それぞれ【前編】【後編】に分けて紹介したい。

1. 学生オケとはどんな団体か

学生オケと一口に言っても、団体ごとに資金集めの方法や練習・演奏会への取り組み方が異なっているので、かなりカラーが違うということを申し添えておきたい。
たとえば、比較的裕福な家庭に育った学生が多く、学校側からの資金が潤沢にある私大オケと、毎月の生活費を捻出しつつ音楽を続ける学生の多い国公立大オケでは、当然生み出されるものは違う。あるいは、練習が週に3回ある学生オケもあれば、月に1度参加自由の練習があるだけの学生オケもある。
このように、環境や練習への取り組み方が違えば音楽に対する考え方も違うだろう。その差は団体ごとの「カラー」となって、おそらく音色にも現れているはずだ。

それでも、きっとどんな学生オケにも共通していることがある。
それは、「時間にゆとりのある学生という身分を利用し、自らを犠牲にしても、好きでオーケストラをやっている」ということだ。

重すぎる負担

オーケストラに入って音楽をするということは、相応の犠牲を必要とする。団費や楽器購入、演奏旅行代(海外の場合もある)・合宿代といった諸経費、人によってはレッスンを受けるための「お金」、練習するための「時間」と「労力」。そして休暇中も練習があったり平日の拘束時間が長すぎたりするために、人によっては学業や就職活動の「機会」を失う。さらには、学業やバイトとの両立に苦しんだり、プレッシャーで精神を病んで「メンタル」が不安定になる学生だっている。
団体によっては、このような負担を軽減するために練習参加基準について緩めに設定している場合もある。しかし、ある程度クオリティを確保したいのであれば練習効率を良くする必要があり、基本的に練習には参加するべきというのが正論と言わざるを得ない。

実際、私の所属しているオケでは、このような負担に耐えかねて団を去ったり、学業や就職活動を優先してオケに「乗らない」という選択をする人もいる。それはその人の人生なのだから、去る者を追うことはできない。

それでも、学生オケをやる

けれど、こんなに多くの犠牲を払ってまでやりたいと思ってしまう魅力が学生オケにあるのも事実だ。
一般的にプロのオーケストラは、短期間で曲を仕上げ、たとえば毎月の「定期演奏会」として演奏し、収入を得ている。
学生オケは違う。3ヶ月~6ヶ月かけてひとつの演奏会を作り上げる。収入はない。
これだけ長い時間をかけることができる分、一つ一つの音楽の細部の要素にまでとことんこだわれるのだ。
私の所属する学生オケでは、たとえばこんなことをしている。

「このf(フォルテ)はどんなfにしようか?」
「この和声の色をどうやって見せようか?」
「ブレスの仕方をどう揃えようか?」

パートのトップは、プロの音源を聴きまくって楽譜に記されていることを逐一吟味する。それを実現するための練習方法も考える。そして他のパートのトップと話し合った結果をパートでの練習に持ち帰り、議論する。パートのメンバーはそれに基づいて必死で練習する。
そうして、自分たちで作ったものを、客演の指揮者の先生や各セクション(弦・木管・金打セクション)のトレーナーの先生方へとぶつける。受け入れられる時もあれば、それは違う、と突き返されることもある。また練り直す。ぶつける。
そんな地道な作業を繰り返しているうちに、いつのまにか音楽は熱を帯びている。本当に心震える音楽が、出来上がっているのだ。書き込んだ指示で真っ黒になったパートの譜面は、今でもその瞬間を思い出させてくれる。

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プロオケと学生オケのもうひとつの決定的な違いは、技術力の差である。
こればかりはどうしようもない。頑張って上手な学生を新歓で呼び込むか、努力して上手くなるしかない。
でも、上手くなる努力のその過程こそが面白い。とにかくアドバイスを貪るように求め、研究する。楽器を練習するという営みは、勉強することと本質的に同じだと思う。どこが弾けていないのかを基礎的なレベルで探り、その解決方法を考える。完璧に孤独な作業だ。そうして上手くなることを覚えると、楽器を弾くのが俄然楽しくなってくる。時間を忘れて練習に没頭し、気がつけば深夜なんてこともあった。こんなことができるのも、学生の特権であろう。

様々な制約はありつつも、自分たちの求める理想の音楽を、脇目もふらず、がむしゃらに追い求めることができる。
本当に純粋だからこそ、最高にめんどくさくて、最高に楽しい。

それが学生オケだと、私は思う。


2. お客さんは学生オケに何を求めるのか

単なる演奏のうまさだけを求めているのであれば、プロの演奏会に行けばいい。
それでも、あえて技術的に難のある大学オケの演奏を聞こうとホールへ足を運ぶお客さんは、何を求めているのだろうか。

きっと、人生をがむしゃらに生きる学生の熱量への感動を味わいたいのだろう。
生きるということそのものが放つ輝きを求めているのだろう。

演奏会当日は、奏者はさぞ緊張するだろうと思われるだろうが、私はあまり緊張しない。
むしろ、命を燃やしつくせることを楽しみにしている。
これまで本当にいろんなことを犠牲にして、親には叱られ、教授には愛想をつかされ、学部の友達には心配され、それでも追い求めてきた熱い何かを、やっと誰かに届けることができる。

トップという仕事は大変だ。演奏面でパート員を率いなければならないだけではなく、事務仕事や自分の技術力向上にも努め、後輩の育成も中心となって進めなければならない。こんな深夜に何やってんだろ、と雨の中ひとり泣きながら練習場を後にしたこともあった。でもそんながむしゃらな生き方を後悔したことは一度もない。

本番は、だいたい魔法がかかったみたいに上手くいく。指揮者の先生にも驚かれることが多い。でもきっとそれは、当たり前なのだ。オーケストラの全員が、同じ思いを抱いているのだから。

終演後肩を抱き合って泣いている団員を見ると、私たちはやはりこうして生きるべきなのだなと思う。

学生オケという青春、そして生き方を、私は決して忘れない。

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