えせ高学歴とガチ高学歴

高学歴には2種類あると思う。

一方は、スペック、知能、能力、学力が高いから必然的に高学歴になったタイプ。
もう一方は、時間のリソースを削り、趣味、人とのつながり、その他諸々人生を豊かにしてくれるものを希薄にし、その対価として学歴の看板を取得したタイプ。

前者を「気づいたら高学歴」、後者を「切り詰め高学歴」と仮称しよう。

まず、大学を思う存分楽しめるのはどちらか?
傾向としては、「気づいたら高学歴」のほうが割合が高くなると思う。
「切り詰め高学歴」も勿論楽しめる。
大学を楽しみ切れなかった人の多くは「切り詰め高学歴」に所属するのではないかとも思う。

大学の大半を占める講義だが、これは、殆どの人が楽しめない。
他方、楽しめる人間は楽しみつくし、GPAが3以上に上り詰める。
楽しめない人間の頭には単調な講義など頭に入ってきすらしない。
(ここで難しいのは、「楽しむ」「努力する」の定義。「気づいたら高学歴」の人も楽をしてるわけじゃないし努力している。むしろ他人より努力していることの方が多い。しかし、なんというか、備わっているアンテナが違うような気がする。もちろん、そのアンテナを備えたのがその人自身でもあるから「ずるい」などという気はさらさらない。)

そして、講義以外を楽しめるかどうかも、大学入学までの数十年での幅広い積み重ねが必要になる。

余暇時間を楽しめる大学生は、それまでの人生で余暇時間を楽しんできた者が有利であり、楽しむことを悪とし切り詰めて切り詰めて努力した人間はそういった時間を捨てたから同じステージに立っていることが多い。

恋愛を楽しめる大学生は、それまでに恋愛や青春を謳歌し、ある程度の基礎基盤を形成した上で、より自由度が高く制約の少ない大学というフィールドでさらに恋愛を楽しむ。他方、そうではないにんげんはいつまで経っても足踏みをしていたり、あきらめや無関心からもはや選択肢の外側に行く。恋愛面で「大学デビュー」ができる人間は、最低限の容姿や性的嗜好、スペックを兼ね備えた上で、ある程度の社会資本を担保した人間に限られてくることだろう。

私はどうだったかと言われると、「切り詰め高学歴」の運が良かったタイプ、かなと思われる。

進学した上智大学の中では落ちこぼれな部類だったが、少なくとも義務教育レベルの中ではまあまあいい成績だったと思う

容姿がメチャクチャ悪かったわけでもないし、腹筋われてたし、海外に友達がいたし、塾のバイトで承認欲求を満たすこともできた

これだけを聞くと、それなりに悪くないんじゃないかと思われるが、一つ、負い目を感じるほどに削ってしまったのが「趣味」である

自分には趣味が何もない

習慣としてSNSやYouTubeや食事や睡眠や射精などが挙げられるかもしれないが、それらは趣味とは呼べない。

何か自分が能動的に夢中になれるものがない
時々、生きていてむなしくなる

そもそも、この記事を書こうと思ったのも、「つくづく自分は人生を楽しむのが下手だな」と最近ひしひしと感じるからだ。

人生には楽しめることがたくさんある。
ゲーム、小説、漫画、スポーツ、セックス、登山、映画、釣り、ギャンブル、海外旅行、YouTube、友達との他愛ない会話など

それらのすべてを楽しんでなおかつ勉強もできるようになった人間と、それらの多くを手放す代わりに勉強ができるようになった人間とでは、大きな差がありすぎる

そういう人間が勉強に時間を割くのが正解なのかよくわからなかった

教師をやっていたときいつもそれを感じていた

この記事が参加している募集

受験体験記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?