見出し画像

『未遂』(掌編小説)


「欲しいものが何でも手に入るとしたら何が欲しい?」

 アルバイトをしている居酒屋の、カウンターでの出来事だった。
 俺はそこに座る50歳手前ほどだろうと思われる男性のために、焼酎の水割りを作っていた。

「んー、卒論の資料で値の張るものがあるんですけど、それですかね。買ってくれるんですか?」

「この前もさ」

 男性は煙草に火を点けながら俺を見ていた。煙草を吸える店が少なくなってきたとボヤいていた、1週間前の男性の姿を思い出す。彼はほとんど、この店に煙草を吸いに来ているようなものだった。

「キャバクラに行ったら君と同じで大学生の子がいたんだよね。その子は行政書士になるための参考書だって」

「苦学生ってやつなんでしょうね。いい話じゃないですか」

 白煙が俺の顔にかかった。
 煙草を吸わない俺は噎せそうになったのを堪えて、焼酎を出す。次の注文はレモンサワーだ。会社帰りであろうスーツ姿の男性客のために俺は少し濃いめのレモンサワーを作る。あのお客さんは疲れている日には濃いお酒を好むのだ。
 最近になってようやく分かったことだ。

「俺は車が欲しかった。それに家も」

 話についていけず、俺が黙っていると男性は深く煙草を吸った。
 別の店員に、作り終えたレモンサワーを託す。次はハイボールとビール。若いカップルの注文だ。ビールの泡がお客さんのところに運ばれる前に消えてしまわないよう、先にハイボールから作り始める。

「俺たちの頃とは欲しいものが変わっちまったんだよ。欲しいって思えるもんがさ。
 君は車とか家が欲しいと思ったことはないだろ? 買えると思ってもいないはずだ」

「ないですね」

「そこなんだ。そういうのは全部、俺たちの世代のせいなんだ」

 まさかお客さんのせいだとは言えない俺は、ただ無言を貫く。
 男性は煙草を持った左手の肘をカウンターに乗せ、煙草を高く掲げながらうな垂れた。煙草の火が墓標のようにただそこにある。

「飲みすぎたな」

 暫くして焼酎を飲み終えたその男性は、一言そう言うと店を後にした。

 件のキャバ嬢に参考書を買ってあげたのか。
 それだけは確認しておくべきだったと考えるがもう遅い。

 ただ、注文をして飲まずに帰った、今まさに俺が作っていたこの焼酎の水割りは、俺へのプレゼントだと考えることにしようと思う。



ここから先は

436字

¥ 200

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?