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『10分』(掌編小説)



 「All or Nothing」なんてことは、人生においてそうそうはない。
 大抵の場合、僕らがしなければならない選択は、「ただ辛いか、辛い上に苦しいか」という2択だ。
 すべてを手に入れられる可能性のある選択は、幸運の女神にでも愛された良い男の目の前にしか現れないのだ。
 つまりはそう、僕の元には現れないということ。多分君の元にも現れないだろうとは思うよ。というか、そうであって欲しいと僕は願っている。

 さて、君はまだ僕のことを知らないだろうから、今の状況を少しばかり説明してみようと思う。
 僕はバイトを終えて、なんとか終電に滑り込んだ。
 彼女には「終電に間に合わないと思う」「だから早くても帰るのは1時間後かな」と伝えていたんだ。
 でも結果的に僕は20分後には家に着いた。
 そうして今、僕は彼女が待っている自分のボロアパートに着いた、というわけ。

 お土産に彼女の好きなお酒を買って、僕には安い発泡酒を。それとおつまみに僕も彼女も大好きなチーズを買っていた。

 僕の住んでいるアパートは、ボロい代わりに1人で暮らすにはだいぶ広いんだ。具体的に言うと1DKってやつ。1の方は8畳あって、DKの方は5畳とちょっとあるらしい。そういう広い部屋だから、まず玄関に入ってから扉を開けないと1の方は見えない。
 それで僕は今日も、特に何を考えるでもなく扉を開けたんだ。

 さてここで話は戻るんだけれど、これを読んでいる君は「All or Nothing」の状況に立ち会ったことがあるだろうか。
 全部終わりっていう選択肢があるだけ優しいことだから、もしそういう選択をせざるを得ないときは、運命ってやつに感謝したほうがいい。僕は今、例えるなら「Nothing or Nothing」って感じだ。
 選択肢になってないなんて言葉は言わないでくれ。どうせ君には関係のない状況なんだ。このくらいは許してみたって君の人生にはなんの損もないさ。

 恐らくだけれど、僕が歩くのがあと少し遅くて、もう10分遅れて帰っただとか、或いはそもそも「いきなり帰って驚かしてやろう」なんて考えずに帰る前に連絡していただとか、そういう些細なことで結果は変わっていたんだと思う。
 人生が恐ろしいのはこういうところだ。たった10分っていう時間でその様相を変えてしまうんだからね。

 さて、その10分を間違えた僕の前には今、見ず知らずの男がいる。
 彼の隣には僕の愛する彼女。僕の手には彼女が愛する缶チューハイ。

 選択の瞬間であることさえ教えてくれないくせい、間違えてしまった10分を、運命の野郎は力の限りの残酷さでもって罰としたらしい。




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