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私を編み直す『サウンドスケープ』とは何か④~《音のない世界》をきく

オンガクと美術のあいだ
今回は写真を使ったワークショップ形式で、《サウンドスケープ》の核にある《きく》とは何かを考えてみましょう。ちなみに提唱者であるカナダの作曲家R.M.シェーファーの著書『世界の調律』から彼の思想を探っていくと、最終章に《Silence  邦訳:沈黙》が登場します。世界の音に耳をひらいていくと《音のない世界をきく》にたどり着くのです。これはとても興味深いことです。
 そもそもシェーファーは音のない音楽『4分33秒』や著書『Silence』でも有名なアメリカの現代音楽家ジョン・ケージの影響を受けています。さらに自身もヨガ哲学に造詣が深く、瞑想で得られる《悟り/三昧》に準えたとも言えます。しかし私は、シェーファーの思想の根幹には自身の《目》があったと考えています。《耳》ではなく《目》です。以前も書きましたが、2021年夏に氏が亡くなると《子どもの頃に片方の目を摘出するほどの重い視覚障害があった》にも関わらず《本来は画家志望であったこと》が海外メディアで紹介されました。確かに『世界の調律』にはバウハウスを始めとする美術教育の引用がみられ、《きく》行為を透視図法を例に説明している箇所もあります。シェーファーにとっての《沈黙》とは遠近法の《消失点》と重なるイメージ、その沈黙を《きく力》を《Clairaundience 邦訳:透聴力》という言葉でも現しています。《目/みる》と《耳/きく》の《境界》に《音のない世界》を発見したとも言えるのです。
 サウンドスケープ論を考える上で《知覚》の使い方はもちろん大切ですが、シェーファーが本当に伝えたかったのが全身をひらいて世界を捉え直し、内面から関ろうとする《きく態度》です。シェーファーはそれを《Sonic Universe!邦訳:鳴り響く森羅万象に耳をひらけ!》と力強い言葉で記しました。障害によって夢を断念し美術の世界から音楽へと軸足を移しても、「世界は響き合っている!」と確信できたことは、シェーファー自身にとっても《生きる力》となったことでしょう。

《サウンドスケープをきく》 撮影:ササマユウコ

《目できく、耳でみる》
 それでは実際に《サウンドスケープをきく》知覚の使い方をご紹介しましょう。ここに、私が撮影した1枚の《海》の写真があります。まずは写真に映っている風景の構成要素を《視覚的》な言葉で説明してみましょう。中央で輝く太陽光を追うように、《近く→遠く》へと視点を広げながら移動させていきます。
・足もとの砂浜は写真全体の2/3を占めています→その砂浜の中央少し右に木の枝→そこから10歩程度で波打ち際→そして浅瀬・波の層が続きます→左奥にはサーファーがいます→いちばん奥に水平線→そして空
 きらきらと輝きながら幾重にも重なる波の層、その横のラインの美しさも印象的です。海と空を分ける一本の境界線は《水平線》と呼ばれますが本当は空の一部かもしれない。少しだけ見える空は太陽光がキラキラと輝く海面の様子から《良く晴れている》と想像がつきます。
 写真全体が一連のグラデーションのようにも見えます。地層のような垂直の断面図ではなく広がりや奥行きが感じられるのは、この写真を《海》と認識した脳内が勝手に透視図に変換しているのかもしれません。ちなみに《色》の要素はシンプルで、おおまかに《黒~灰色》《白》《青》の3種に分けられます。手前から濡れた砂の《黒》~灰色、波しぶきや光の《白》、そして海水や空の《青》です。海と空の色は常に響き合っていますから、水色は空色でもあることがわかります。
 さらに解像度をあげていくと、砂浜の砂の粒の質感や点在する白い貝の破片、砂の上の木の枝は大きな魚の骨のようにツンツンとして、印象的な影が生まれています。水際の白い光がつくる柔らかなライン、水面に点在する光の粒、波しぶきの白いかたち、もっともっと目を凝らすと実は右の水平線の上には小さな埃のように一艘の船が浮かんでいることにも気づきます。

 この写真を《視覚的》に説明するとこのような感じでしょうか。なかなか難しいものです(苦笑)。以前参加した「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の経験を思い出して、《視覚に障害のある人に説明するように》言葉を選んでみましたが、苦戦しました。さらに言えば、視覚障害のある人には、彼らが普段頼りにしている聴覚的な情報の方がイメージが湧きやすいと思います。
 しかしこうして《視覚的》であることを意識して言葉を選ぶなかで、他の知覚もひらかれていくことを実感します。その《場》に生まれていた空気感、世界の《肌理》の感触も思い出されていくのです。
 もちろんスマホによって四角く切り取られたこの写真は、私がこの場で《知覚》した《世界のすべて》ではありません。何よりもまずここには《音》が記録されていません。潮風の匂いも感触も写っていない。写真の《視覚的》な情報を説明することと、自分が《みた》ことを説明することも微妙に違うと感じます。むしろここでは、実際に《みたこと》を言葉にすることの難しさにあらためて気づくのです。
♪♪♪
 それでは続いてこの写真を《聴覚的》に説明してみましょう。ここには《音》が記録されていないと書きました。ですから皆さんは、音のない写真から《音風景》を想像して私が記述する記憶と照らし合わせてみてください。《視覚に障害のある人はもちろん、音のない世界に生きるろう者や聴覚障害のある人にも説明するように》丁寧に言葉にしてみましょう。ここからこの《写真》は《音の記憶を想起するための装置》へと変化します。
 まず広い砂浜全体が緩急のある波の音に包まれていました。オノマトペにしてみると「ザブーン、サー、ザブーン、サー」という感じでしょうか。寄せては引く《波のリズム》は私たちの《呼吸のリズム》と呼応しています。波の音は《ホワイトノイズ》とも呼ばれますが、これは可視領域の広い範囲をまんべんなく含んだ光の色が《白》であることを例に、《音》に置き換えた言葉です。大雨の音、滝の水が落ちる音、《水》には鳴り響く森羅万象を含むホワイトノイズを生み出す力があります。
 ちなみに、この《場》の《基調音》は何かと問われれば《波の音》と答えます。しかしこの日は「ザブーン、サー」よりも耳の穴を直接ふさぐような大きな音が存在していました。「ゴウゴウ」と顔に吹きつける《風の音》です。この日は風の強い日でした。聴覚は《触覚》とも重なりますので、耳の穴をふさいでいたのは《風の音》そのものではなく、《風そのもの》だったとも言えます。
 思い返せば、頭上で旋回するトンビが時おり「ピヨロロロ」と鳴いていました。砂浜の一部が工事中でブルドーザーやトラックの「ブォロロロ」というエンジン音もきこえていました。水平線を通る貨物船からは1度だけ「ボー」と汽笛の音が響きました。波は絶え間ない深呼吸のように「ザブーン、サー、ザブーン、サー」とゆったり大きなリズムを刻んでいます。しかしそのリズムが《しん》と止まる一瞬があることに気づきました。すると次の瞬間に海面が少しだけ盛り上がって、大きめの波が足もとまで「ザブーン」と勢いよく押し寄せます。足元の砂浜が黒く濡れているのはそのためです。犬を散歩させる親子らしき女性たちが、何かを話しながら私の後ろを通り過ぎていきました。

 いかがでしょうか。同じ写真でも《視覚的》と《聴覚的》に説明するのでは印象が変わりますね?ちなみに「何が」変わるのでしょうか。
 まず、スマホが四角く切り取った世界の構成要素が《光/目》から《音/耳》に代わります。音は絶えず動いていますから、写真の中で止まっていた時間も動き出し、風景そのものがフレームからはみ出していきます。トンビの鳴き声の記憶につられて、右手には富士山がくっきりと見えていたことを思い出しました。左手の江の島海岸は水族館に遠足に来た子どもたちや大学生のグループ、サーファーや地元の人たちで賑わっていたことも思い出しました。いつの間にか写真の中央奥にあった《沈黙=消失点》がきえて、魚眼レンズで撮ったような360度のパノラマの風景になるのです。背後には絶え間なく車が走っていたことも、時おりバイクがけたたましい音を立てて過ぎ去っていくことも思い出しました。静かだった世界が一気に賑やかに鳴り響き始めたのです。
 おそらくシェーファーが《絵画》から《音楽》の世界に移行した際に最初に発見したのが、この《鳴り響く森羅万象》だったと思います。二次元の平面から360度全方位型の世界へ。しかしその響き合う世界を追究した先に、最後にたどり着いたのが再びの《消失点》、つまり《Silence 沈黙/静寂》だったことは大変興味深いです。この過程の中でシェーファーは騒音問題にも熱心に取り組み、この世に《Silence/静寂》を取り戻そうと訴えました。
 ちなみにシェーファーのサウンドスケープ論は《海の声》から始まります。この星の7割は海ですから、波の音は地球全体の《基調音》と言っても間違えではないでしょう。波のリズムは私たちの呼吸、人間の存在と響き合っています。とここまで書いて、《波の音=海の音》だろうか?という新たな《問い》が生まれましたが、これはまた別の機会に考えてみたいと思います。
 話を戻すと、シェーファーはなぜ再び消失点のある《沈黙》の世界へと戻ってきたのか。最後に少し掘り下げて考えてみたいと思います。

もういちど《目できく、耳でみる》。撮影:ササマユウコ

《沈黙=音のない世界》をきく
 あらためて写真に立ち返ってみます。ところで、私はいったい《何を》撮ったのでしょうか?《視覚的》《聴覚的》に説明してみましたが、それはあくまでも写真の《情報》であり、私がこの写真の中で撮りたかったものとは少し違います。
 私がこの時に撮影したかったのが、まさに《静寂》でした。波の音も風の音も、散歩中の会話も聞こえていましたが、写真に収めようと思ったのは目の前に存在した《Silence》だったのです。
 長い海岸線を歩くなかで、この場所で足を止めた理由は何か。それは砂浜に打ち上げられた木の枝を「美しい」と感じたからです。魚の骨のオブジェのような《かたち》も魅力的でしたが、波に乗ってどこからか流れ着き、足跡もない砂の上にぽつんと佇むその《存在》が美しいと思いました。ならばこの枝だけを撮影すればよかったでしょうか。そもそも枝だけが《静寂》なのでしょうか。
 波のリズムに呼吸を合わせていると、この枝がそこに《在ること》で生まれる《環境》、つまり《場の関係性/サウンドスケープ》に静けさが生まれていることに気づきました。波と光の層は絶え間なく動いています。奥に見えるサーファーも水平線上の船も動いていました。世界が絶え間なく動いている中でここだけが《しん》としている。しかし《この瞬間》を撮ったのは、単なる《偶然》だったと思います。枝は次の瞬間に波にのまれてコロコロと転がっていくかもしれない。サーファーがボードの上に乗ったかもしれない、頭上のトンビが写りこんだかもしれない。
 この瞬間は《偶然のオンガク》なのです。ですから写真論で言えば、ブレッソンの《決定的瞬間》とは大きく違います。ピンポイントで被写体を狙ったわけではなく、風景全体をきくように写したのです。その瞬間がたまたまこれだった。私が撮りたかったのは、私、木の枝、砂浜、波、サーファー、水平線、空すべての《関係性》の静けさ、美しさでした。それを《調和》と言い表すことも出来ますが、その場合は岡本太郎が考えた《衝突する調和》の方だと思います。なぜならみんな鳴り響いているからです。《目できく、耳でみる》ように《しん》とした気持ちが生まれたのでした。《静寂》や《沈黙》は自分の内と外、双方に存在するものなのです。

 それは松尾芭蕉が名句《閑さや岩に染み入る蝉の声》で現わした《あの感覚》に近いでしょうか。波の音に呼吸を合わせていると、いつしか自らの内からは《音》が消えていました。木の枝の孤高の佇まい。雲ひとつない空は《空虚》とも言える。自分は目の前の環境をみているのか、きいているのか。既にどちらでも構わない。もしかしたら木の枝に自分を重ね合わせていたのかもしれません。だからこの写真は自分の《内と外がつながった》決定的瞬間だった、とは言ってもよいかもしれません。

 《目できく、耳でみる、全身をひらく》ような世界との関わり方は、人それぞれの知覚の使い方で異なるものです。もしかしたら、この世にはひとつとして《同じ世界》は存在しないのかもしれません。だからこそ自分の内が外の世界と《響き合った》と感じたとき、人は深い孤独から解放されるのかもしれません。《Sonic Universe!》の《!》には、シェーファーが発見した《鳴り響く森羅万象》の喜びや驚きを感じるのでした。

参考文献:
『The Tuning of the World』 R.M.Schafer  ALFRED A.KNOPH,INC 1977
『世界の調律』R.M.シェーファー 翻訳:鳥越けい子他 平凡社1986
『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』R.M.シェーファー、今田匡彦《増補版》 春秋社 2008
『環境が芸術になるとき 肌理の芸術論』高橋憲人 春秋社 2023
『関係性の美学』ニコラ・ブリオー 訳:辻憲行 水声社 2024

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