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  • 病み期まとめ

    病み期の記事をまとめました。

最近の記事

希望に満ちた明日をくれ

僕が「教育」されてきたのは世界に従順である生き方であり、世界を変える術など、大人は教えてくれなかった。大人は僕らに、世界のあり方の正しさを教えるだけで、「正しく」生きていれば報われるのだと説いた。 誰かと同じように会社づとめをし、上司に毎日怒られながら、それでもこの会社にしがみつく理由はなんだろうと考えていたことがあった。結局その理由は見つからなかったし、おそらくはそんなものないのだろうと思った。会社員というのは、口では「社会を変える」などと言っていても、所詮はこの世界の「

    • 言葉は薬になるか

      ここ半年ほど、訳あって抗うつ剤をのんでいる。が、先日、病院をキャンセルした都合で1週間ほど薬を飲むことができなかった。そんなこともあり、ネガティブな想像が頭の中をぐるぐるめぐっては、一人で落ち込む日々を過ごしていた。一方で、薬を再開した途端、気持ちが落ち着いて中庸の精神は簡単に戻って来たというのだから世話はない。結局人間というのは物質に支えられ、気分でさえも物質に左右されるのだということを実感した。 そんな中で考えていたことは、言葉というものの効力についてだった。人間があく

      • 雑感

        ・夢を見た。僕は号泣しながらキリンジの「エイリアンズ」を歌っていた。頭からサビまで誤らずに歌えた試しなどないが、夢の中では正しく歌えていたのがおかしかった。目が覚めてまぶたをこすってみたが、涙は出ていなかった。思えば、何年も涙を流していなかった。フロイトいわく、人は夢の中で無意識の欲望を満たすらしい。僕は泣きたかったのかもしれなかった。 ・あたりまえのように、会社にいるときは会社員としての顔をしていること。それは自分に嘘をついていることと同義だ、と思っていたが、たぶんそうで

        • PSYCHO-PASS――AI社会の向かう未来

          アニメ「PSYCHO-PASS」の第一期、第二期を見た。 攻殻機動隊やCyber Pankといった近未来SFアニメを好んで見る僕にとっては、今更も今更の視聴となったわけだが、案の定、僕の好きなジャンルのアニメだった。 PSYCHO-PASSは、今からおよそ100年後における公安局の活躍を描いた物語である。最も特徴的なのは、「シビュラシステム」と呼ばれる社会を統括する巨大なAIが存在していることだ。この巨大なAIが人々の素質、職業、ひいては犯罪を犯す可能性――作中では「犯罪

        希望に満ちた明日をくれ

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        • 病み期まとめ
          13本

        記事

          『パリ・ロンドン放浪記』

          ジョージ・オーウェルをろくに読んだことがない。『1984』はもはや記憶の彼方だし、『動物農場』は読みたいと思い続けながら、中途半端になってしまっている。しかし、なぜか『パリ・ロンドン放浪記』だけはきちんと読んだ。そして、この本は僕のなかでもトップクラスに好きな本でもある。 『パリ・ロンドン放浪記』はオーウェルがパリやロンドンで極貧生活を送っていた時期のルポルタージュである。文筆家として名を成す以前、なけなしの金で生活をしていた時代のオーウェル。『1984』や『動物農場』で描

          『パリ・ロンドン放浪記』

          『どもる体』を読んで

          前の記事で、三島の『金閣寺』を取り上げながら、「話す」ことへのコンプレックスについて書いた。 そこから吃音に興味を持ち、『どもる体』を読んだ。この本を読んで、まわりまわって僕は「体」に関心を向けざるを得なくなった。 そのいきさつについて、以下にまとめてみたい。 これまで僕は、自分が吃音だと自己認識したことはなかった。しかし、この本のなかの名前を借りるなら、僕はおそらく「隠れ吃音」なのだろう。言葉を発するとき、「えいやっ」と壁を乗り越えなければならない負担だったり、言いづら

          『どもる体』を読んで

          なぜ僕は美術館へ行くのか

          今日は美術館へ出向いた。マティス展を鑑賞するためだ。とくべつマティスが好きだというわけではないけれど、マティスが好きな知人に誘われ、マティスの作品がこんなに見られる機会もそうそうないということで、ついて行ったのだ。 僕は、美術館に行くのは好きだが、美術にものすごく詳しいわけではない。絵画を鑑賞しても、「すごい」とか「きれい」とか、ろくな感想は抱かない。その絵が描かれた歴史的背景や、画家の人生には多少興味があり、そうした観点から絵を楽しむことはあるけれど、審美眼にはあまり自信

          なぜ僕は美術館へ行くのか

          「ぼんやりとした不安」

          芥川龍之介は、『或旧友へ送る手記』のなかで、自身の自殺願望について以下のように語っている。 芥川はこの後、自身の望みのとおりに自死を遂げるわけだが、彼の言う「ぼんやりとした不安」には浅薄ながら少しの共感を覚える。彼の「ぼんやりとした不安」がどのようなものだったのか、なにを根本的な原因としていたのかについては、彼自身に尋ねてみなければわからない。しかし、それは誰が頼んだものでもなく私たちの脳内に居座り、私たちから生きる気力を奪うものである、という点には同意してくれるものと思う

          「ぼんやりとした不安」

          ビジネスという名の戦場に立って

          東西線の大手町駅を降りると、ネイビーだのグレーだのの制服を着た連中が出口に向かって行進を続けている。スーツは自らの能力を誇示する戦闘服であり、人々は固い皮でできた靴を履いて、せわしなく平坦なコンクリートの上を歩いてゆく。その手元に、金という名の銃弾を忍ばせて…。 ビジネスの世界は戦場だ、などと考えているのは、入社3週間目にして重い風邪をこじらせたせいかもしれない。週末の二日間の休暇で、僕は病気を治さねばならなかった。僕に選択の自由はなかった。当然といえば当然だ。月曜日から会

          ビジネスという名の戦場に立って

          コンプレックスと『金閣寺』

          僕には、言葉を発する前に「あ、」とワンテンポ置くクセがある。「あ、」と言うのは一瞬だが、その一瞬の間に、相手の言葉を咀嚼し、言葉を探し出し、ようやくそれで、それ相応の返答ができる。この「あ、」はいまや、僕にとってなくてはならない一瞬、言語活動の必須要件となってしまった感がある。が、他方でこのクセは僕にとって長いあいだコンプレックスでもあった。「あ、」と間を置く人間はコミュニケーション障害と揶揄され、馬鹿にされたりいじられたりするのが定石だからだ。このことから、僕は言葉を発する

          コンプレックスと『金閣寺』

          ファミレス店員の憂鬱

          年明けを数時間後に控えたファミリーレストランでは、いつもと変わらず数人の孤独な客が席を占有している。夜間の店内は、都会に居場所を失った客たちが適当なつまみと安い酒を注文するばかりである。それでも大晦日の店内がいつもよりいささか忙しく感じられたのは、年末だからという安直な理由で店長が営業時間を短縮したからだ。現在、時計は十時を、閉店の二時間前を指している。キッチンの店員が、さっさと帰って年越しそばにありつきたいという面持ちをこちらに投げかける。僕も同じ気持ちですよ、と思いながら

          ファミレス店員の憂鬱

          恋愛は無駄?

          この前、友人と飲みに行って、「セフレはいろいろと楽だ」という話をされた。なるほどねぇと相槌を打ちながら半分は流し聞いていたのだったが、要は「恋愛」するよりはカジュアルな関係のほうが快楽の追求には面倒ごとがないということらしい。僕はセフレなるものがいた試しがないので、なかなか理解が難しいところもあったが、「恋愛」が面倒だというのはよく理解できた。というのは、連絡がどうのとかデートがどうのとか、そういう面倒なことを全部端折って、結局のところは性交ができればいい、という気持ちを抱い

          恋愛は無駄?

          「就活はなぜ辛いのか」を真剣に考える

          就職活動なるものを、初めて経験した。大学時代の友人が口をそろえて「就活はクソ」、「あんなものないほうがいい」と言っていたので、正直なことを言えばやりたくはなかったのだが、現代社会で「はたらく」という活動を行うためには乗り越えなければならない障壁であることは確かである。そんなこんなで、仕方なく、しかしやるからにはちゃんとやろうという気持ちで足を突っ込み始めたのは、昨年の秋ごろだった。 就職活動は精神的につらいものだというのは、多くの人が持つに違いない感覚である。実際、僕の友人

          「就活はなぜ辛いのか」を真剣に考える

          「生きてくれ」と言う権利は誰にあるか?

          1年か2年ほど前だろうか。芸能人が相次いで自殺してしまう、なんとも奇妙な期間があったことを、覚えておられるだろうか?その時、Twitterでは「頼むから生きてくれ」「生きていればいいことがある」といった言葉が溢れかえっていた。そのとき、僕としては、死にかけている人に向かって「生きてくれ」と伝えることに変な引っ掛かりを感じていて、しかし、じゃあ自分が死にかけている友人にかける言葉といえばやはり「生きてくれ」しか思いつかないわけで…と、ぐるぐるとどっちつかずなことを考えていた。そ

          「生きてくれ」と言う権利は誰にあるか?

          春と僕とビートルズ

          二月は所用で北海道へ行っていて、月のほとんどを北国で過ごしていた。本当は、1~2週間程度の滞在で済むはずだったのだが、大雪で帰宅困難になり、代えの航空券もとれず、5日ほど滞在を延長するハメになった。予期せぬ長期滞在となってしまったが、まあなんとか、月が替わる前には南下できた。極寒の地から春らしい陽気のもとへ移動したせいか、寒暖差で風邪っぽい症状が出て、よもや流行中の感染症ではないかと恐ろしくなった。が、ふたを開けてみれば、花粉の飛散が原因だった。花粉症の人は、体調の悪化で春の

          春と僕とビートルズ

          言い訳グセ

          なにかやりたいことがあっても、始める前から言い訳している。お得意の前置きは、「できるかはわからないけれど~」だ。どんなことにも、まずこの言葉をつけてから話す。自分から率先してやること(例えば、自分からなんらかのプロジェクトを計画するとか)には、とりわけこの言葉を使ってしまう。 なぜなのか。自分から言っているはずなのに、言い訳するならやらなければいいのに、なぜなのか。できるはずがないと囁く自分がいるのだ。やりたい自分とできるはずがないと考えている自分。その二人が脳内で囁きあっ

          言い訳グセ