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『パリ・ロンドン放浪記』

ジョージ・オーウェルをろくに読んだことがない。『1984』はもはや記憶の彼方だし、『動物農場』は読みたいと思い続けながら、中途半端になってしまっている。しかし、なぜか『パリ・ロンドン放浪記』だけはきちんと読んだ。そして、この本は僕のなかでもトップクラスに好きな本でもある。

『パリ・ロンドン放浪記』はオーウェルがパリやロンドンで極貧生活を送っていた時期のルポルタージュである。文筆家として名を成す以前、なけなしの金で生活をしていた時代のオーウェル。『1984』や『動物農場』で描かれるダークな社会の展望は、彼のこの経験にもとづくと考えても不思議ではない。

オーウェルはそもそも、貧乏な家の出自ではない。訳者解説にも記されているとおり、オーウェルの都市での生活は元々、貧乏生活の「体験」の側面が強かった。しかし、彼の貧困生活は、家との縁が切られ、自身の筆で身を立てる決意をしたときから「人生」の一部となった。だからなのだろうか。『放浪記』でのオーウェルでの視点は、驚くほどニュートラルである。シニカルでありながらも平明な文体で、ありのままの人々の生活を描いている。

そのような離れ業ができたのは、むろんオーウェルの文才のおかげではあるが、それ以上に、貧者の生活に飛び込むだけの勇気、そして、それを「当事者」として描くことに対する決意のためであると僕は思う。当時の都会の寂れた生活が読者の眼の前にありありと映し出されるためには、本当の意味で「当事者」になる必要があった。彼自身がそう考えていたかはわからないが、少なくとも、自ら極貧生活に身をやつし、末端の労働者として生活を続けるには相当の覚悟がいる。労働に人生を奪われ、かろうじての楽しみは酒とタバコしかないような生活。10年後の未来よりも明日の夕食を心配するような生活。そこに広がっているのはひとつのディストピアであり、この状況は現代でも大きくは変わっていないだろう。

街中の至るところにカメラが設置され、誰もがスマートフォンで互いを撮影しあい、時には告発すらしあう現代の状況を、オーウェルは予想しただろうか。情報化社会の到来は監視社会の到来でもあり、街中の「眼」だけにとどまらず、私たちの持つデバイスからも日々私たちの情報は監視され、盗まれ、企業の利益の源泉となっている。

監視は労働と地続きで、企業は「効率的な」労働のために人々を監視し、怠慢があれば即座に罰することができる。労働者の精神は擦り切れていくが、賃金は上がらず、人々は安い酒とドーパミンの沼に溺れるばかりだ。

ビッグブラザーしかり、パリやロンドンの困窮した生活しかり、オーウェルの描くディストピア的な世界は本当に到来したのか。それとも、到来しなかったのか。いや、そのどちらでもない可能性もある。つまり、こういうことだ。現代は実のところ、オーウェルの想像した未来よりも、もっと悪い時代となってしまったのではないか、と。


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