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「ぼんやりとした不安」

芥川龍之介は、『或旧友へ送る手記』のなかで、自身の自殺願望について以下のように語っている。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。従つて僕は君を咎とがめない。……

芥川はこの後、自身の望みのとおりに自死を遂げるわけだが、彼の言う「ぼんやりとした不安」には浅薄ながら少しの共感を覚える。彼の「ぼんやりとした不安」がどのようなものだったのか、なにを根本的な原因としていたのかについては、彼自身に尋ねてみなければわからない。しかし、それは誰が頼んだものでもなく私たちの脳内に居座り、私たちから生きる気力を奪うものである、という点には同意してくれるものと思う。私もまた、「ぼんやりとした不安」のようなものに襲われることが多々ある。それが芥川の定義するそれと同一のものであるかはわからないけれども。

さて、自殺願望に駆られているにもかかわらず、人間もまた動物であり、そして自分も人間である以上、死ぬ間際になっても生きようとしてしまう、ということを芥川が述べているのは示唆的である。彼が溺死を選ばなかったのは、「水泳の出来る僕には到底目的を達する筈はない」からであった。彼は死にたいと思いながらも、その直前になったら確実に生への執着をはたらかせてしまうと自覚していた。彼は自然を愛し、その美しさに若干憑りつかれてさえいた。しかし、彼は一方で、生活のために生きることをよしとしなかった。つまりは、餌をとり、それを食べ、眠る、といった諸行為が、すべて生に直結してしまうような動物のように生きることを嫌ったのだろう。「『生きる為に生きてゐる』我々人間の哀れさを感じた」と彼が述べるように、彼は他人に強制されてまで、生活するために生きるようなことを望んではいなかったのだろう。人間は文学や音楽、芸術など、必ずしも生に直結しない文化を数々生み出してきたのに、それらを顧みず、ただ「生きるために生きる」というトートロジーに内包されている。その構図は、科学技術が進歩し、政治的・経済的には「豊か」であると喧伝される現代においても同じである。

誰かに「生きていてほしい」と伝えることはあまりにも簡単だ。しかし、一方で、自死を選ぼうとしている人は「生きていてほしい」と言われて生きているのが嫌になったから死ぬのではないか、とも思う。つまりは、他人に「生きろ」と強制されて生きることが嫌になったからこそ自死を選ぶのではないか、と。私もまた、「生きるために生きる」ことに嫌になることにがある。「あなたが死んだら皆が悲しむ」などと言われても、そんな他者の感情のために生きたくはないとも思う。「生きるために生きる」ことを受け入れれば、つまりは、ただ生き延びるために生活するような人生をよしとすれば、このような妙な悩みも持たなくて済むのかもしれない。しかし、このような悩みを一度でも持ってしまった以上、もはやそこから逃れることはできないのだろう。私には芥川のような強い自殺願望はないし、実際にそれを行うような度胸もないが、それでも、「生きるために生き」ている現在の状況から逃れたいと考えることはある。芥川の場合は、それが「自死」という選択だったのだろう。

将来の見えない「ぼんやりとした不安」は、現代においても多くの人が抱えている悩みだと私は勝手に考えている。そして、それらの不安には現在、精神医学やその他の学問によってなんらかの病名をつけられ、それはもはや「ぼんやりとした」ものではない一つの症例として扱われている。もし彼が現代に生きていたら、彼の将来への不安が一つの症例として扱われるような状況を彼は受け入れたのだろうか、と考える。彼はきっと、それもよしとはしなかっただろう。それらの症例は「生きるために生きる」ことが奨励される社会において、「ぼんやりとした不安」を持つ人間に対し、名前を与えることでそのような生き方を強制するような、ある種の権力にすぎない。そう言って糾弾したのだろうと、期待も込めて、私はそう考えている。

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