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なぜ僕は美術館へ行くのか

今日は美術館へ出向いた。マティス展を鑑賞するためだ。とくべつマティスが好きだというわけではないけれど、マティスが好きな知人に誘われ、マティスの作品がこんなに見られる機会もそうそうないということで、ついて行ったのだ。

僕は、美術館に行くのは好きだが、美術にものすごく詳しいわけではない。絵画を鑑賞しても、「すごい」とか「きれい」とか、ろくな感想は抱かない。その絵が描かれた歴史的背景や、画家の人生には多少興味があり、そうした観点から絵を楽しむことはあるけれど、審美眼にはあまり自信がない。だから、美術館に行っても中途半端にしか楽しめていないような気持ちになることが多く、美術館に行くための強い理由は、これまでなかった。

さて、今回、マティス展に行ったが、僕はあまりマティスの絵に惹かれなかった。なかにはいくつかお気に入りになりそうな絵もあったが、なぜそこまで評価されているのか、よくわからないという感想を抱いた。もちろん、マティスが評価されているのにはなんらかの理由があるはずだし、多くの人が好きだと言っているのだから、やはり僕に審美眼がないだけなのかもしれない。でも、僕としては、マティスの絵に「惹かれない」と感じたこと、そうした感情を抱いたこと自体が新鮮だった。というのも、僕はこれまで、人がいいと言っている絵、すごいとされている絵を、無批判に「いい絵」として扱ってきたからだ。そして、そのことに今回気づいたのだ。

思えば、人がよいとしているもの、人気のものを無批判に受け入れてしまうのは、絵に限った話ではない。映画やアニメを見るときもそうだし、小説から衣服、食べ物についてもそういう傾向がある。また、その逆も然りで、ある料理について、それをすごくおいしいと感じていても、隣に座っている人が「おいしくない」と言えば、自分の味覚を疑ってしまう。ある映画をすごく気に入っていても、ネガティブなレヴューを見れば、「自分の見る目がないのかな」と考えてしまう。

これはつまり、他人の評価軸を自分の評価軸よりも優先しているということだ。ネットにさまざまな意見が陳列されている現代では特に、他人の評価軸が明確に見えてしまうから、そちらが正しくて自分が誤っているのではないかと疑ってしまう機会も増えるように思う。いや、他の人はどうだか知らないが、少なくとも自分はそうだ。権威ある人が「よい」と言っているものは「よい」し、そうでないものは「つまらない」。そのように他人の評価軸をインストールするだけで、自分の眼を信頼して作品を見るということがほとんどなかった。

僕が美術館に行く理由は、だから、自分の評価軸を取り戻すことにある。「この作品は好きで、これは嫌い」だと自分の眼で判断すること、そのトレーニングみたいなものが、美術鑑賞を通してできるのではないかと思うのだ。また、自分がある作品が好きで、ある作品が好きでない理由を考えるのも、きっと楽しいだろう。

なにかを「好き」とか「嫌い」と表明するのはとても大変なことだ。とりわけ、他人の評価をいくらでも見ることができる現代ではそうだと思う。しかし、僕としては、他の人がどう言おうとも「これが好きだ!」と主張できるものが一つでも多くあったほうが楽しいのではないかと考えている。それを見つけるために、僕は美術館に行く。

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