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「就活はなぜ辛いのか」を真剣に考える

就職活動なるものを、初めて経験した。大学時代の友人が口をそろえて「就活はクソ」、「あんなものないほうがいい」と言っていたので、正直なことを言えばやりたくはなかったのだが、現代社会で「はたらく」という活動を行うためには乗り越えなければならない障壁であることは確かである。そんなこんなで、仕方なく、しかしやるからにはちゃんとやろうという気持ちで足を突っ込み始めたのは、昨年の秋ごろだった。

就職活動は精神的につらいものだというのは、多くの人が持つに違いない感覚である。実際、僕の友人も口を揃えて同じことを述べていたが、僕としては若干なめていた部分があった、というか、それなりに挫折をしてきた自負があったので、就活で「お祈りメール」をもらうことについてはさほどショックを受けないだろうと高をくくっていた。だが、やはり、それなりに準備をして取り組んだのに落とされるのはそれなりにショックだった(何度もやるうちに慣れたが)。とにかく、試験であれなんであれ、「落ちる」というのは悲しいものだ。しかも、企業連中は優しい顔で、優しい口調で接してくれるものだから、さらに残酷である。落とすならはっきりとした態度でやってほしいと思わなくもないが、「うちにお前はいらぬ」と伝えるのは会社にとっても面倒事なのかもしれない。

ともあれ、友人たちがあんなに就職活動を毛嫌いする理由をなんとなくは理解したわけだが、もう少しちゃんと言語化してみようと思ったのが、今回の記事だ。ここでは、「就職活動はなぜ辛いのか」という問題について、「面接」をキーワードに据え、考えてみる。先回りして僕の考えを書いておくと、就職活動が辛いのは、それが人々の心を2つの方向ーーとりあえず、外面と内面とだけ言っておこうーーに切り裂いてゆくためだ。

就職活動とは、資本主義という経済システムのなかで生きるための通過儀礼である。というと小難しい話のようだが、要するにビジネスマンとして働くためになぜか必要とされるイベントである。そして、就活といえばとにもかくにも面接が必須である。学生は面接で、あれやこれやとエピソードをでっちあげ、ときには経験していないようなことまで言い、やっとこさ内定を得るというのが通例ではないだろうか。もし、面接で1mmもウソの混じっていない言葉で乗り越えた人がいるなら、それは生まれきっての聖人か、学生時代にとんでもない業績を上げた人くらいにしか当てはまらないだろう。もちろんこれは僕の感想なので、「みんな正直に面接をしてるはずだ」「そんなのはお前くらいだ」と言われてしまえばそれまでだが、少なくとも僕の周囲の人間で、完全な正直人として就活を終えた人はいない。僕としても、ベースの経験はホントであっても、細部をウソでごまかしたりとか、その程度のことはしている。そうでないと整合性がとれないし、だいいち、どんなに強烈なものでも、過去の出来事を完璧に明瞭なかたちで覚えているわけがない。よって、記憶から消去されている部分は必然的にウソとして語ることになってしまう。

だから、完全なウソを語るわけではないにせよ、部分的にウソを混ぜ込んだエピソードを語るというのが面接のセオリーである。無論、この程度の事象は日常生活でも間々ある。旅行での出来事を少しばかり盛って話すとか、徹夜明けで迎えたテストの直前に「全然勉強してないわ~」なんて言ってみたりとか、そういう経験は誰しも一回くらいはあるのではなかろうか。だが、面接で厄介なのは、ウソを混ぜ込んだ話を何度も繰り返さなければならないという点だ。面接で話すようなエピソードはそれほど数多くあるわけでもないので、何度も同じ話を繰り返すことになる。

これらを踏まえ、本題に入ろう。

ここでウソをまじえたエピソードを話しているのは、こう言ってよければ「外的」な自己、要するに外面(そとづら)としての自分、よそ行きの自分である。言い換えれば、面接で必要とされるのは、外面としての自分を上手に演出できる能力である。とはいえ、外面の自分も一応は自分である。だから、ウソをつくということは心のなかで思っていることと発言の間に整合性がとれないといういうこと、つまりは「外的」な自己と「内的」な自己のあいだにズレが生じることを意味する。ちなみに、このような内的自己と外的自己のズレが大きくなり、徹底的に切り離されるまでに至ると、それは精神病という形態をとる。これは心理学者の岸田秀が『ものぐさ精神分析』で述べていることである。

企業は「ありのままで面接にお越しください」と言うが、実際上、面接で「ありのまま」の姿をさらけ出すことは不可能だし、そんなことは面接官だって望んでいないだろう。ところで、仮に、内的な自己を「ありのままの自分」と呼んでよいのであれば、内的な自己がそのままの姿で発露した形態が、あるべき外的な自己の様態であることになる。しかし面接という場では、むしろ内的な自己をひた隠しにし、外的には企業の理念に迎合する存在として自己表出することが求められる。ここで生じる2つの自己の間のズレが、ウソの反復によって大きくなり、結果として、外的自己と内的自己は分裂してゆく。この分裂傾向こそ、就職活動の辛さにおいて根本をなすものではないか、というのが僕の考えだ。

この傾向は「自己分析」という営みにも見られる。自己分析とは、自分がどう考えているか、あるいは他者からどう見られているかを分析する行為である。言い換えれば、ここでは自己について限りなく客観的に考察することが求められる。主観的な自分を内的自己、客観的に分析対象となる自分を外的自己だとするなら、ここでの分裂は明白だろう。外的な自分を自分自身から切り離し(客体化し)、内的自己によって分析するのが、自己分析なのだ。

このように、外的自己と内的自己を徹底的に切り離せることが、就活生に求められる能力なのだ。そして、これらはとても精神的負担の大きい活動だ。内的自己の自然な発露を阻害され、自分を客体化した上で(客体化するとは、自分を「モノ」として見ることでもある…)、内的自己とはズレた存在として外的自己を構築しなければならないのだから。そして、先に述べたように、こうした自己分裂的な活動が行き着くのは、精神的な病である。言い換えれば、就職活動が辛いのは、それによって精神の分裂を否が応でも強制されるからなのだ(ドゥルーズとガタリが資本主義の根本に分裂症〔統合失調症〕的特質を見出したことが思い出される…)。

以上が、僕の考える、就職活動が辛い理由である。もう少し話を広げておくと、心の分裂傾向はコンビニ店員にすら見いだせる。僕も接客業を経験したから少しはわかるが、外面的には笑顔で接客していても、内面では「めんどくさいな」と思っていることが多くある。こんなふうにして、外的自己と内的自己を切り離すことが、いわば日常となっているのが現代なのだろう。

と、ここまで書いてはみたが、来年から僕がひとりのビジネスマンとなることに変わりはない。資本主義の域内で生きている以上、金を稼がなければいけないというのも事実なのだから…。



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