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『どもる体』を読んで

前の記事で、三島の『金閣寺』を取り上げながら、「話す」ことへのコンプレックスについて書いた。

そこから吃音に興味を持ち、『どもる体』を読んだ。この本を読んで、まわりまわって僕は「体」に関心を向けざるを得なくなった。
そのいきさつについて、以下にまとめてみたい。


これまで僕は、自分が吃音だと自己認識したことはなかった。しかし、この本のなかの名前を借りるなら、僕はおそらく「隠れ吃音」なのだろう。言葉を発するとき、「えいやっ」と壁を乗り越えなければならない負担だったり、言いづらい言葉を「言い換え」なければならない気持ち悪さだったり(あるいはその開放感だったり)、この本で語られている吃音体験の多くに僕は共感することができた。特に「わかる!」と床をたたいたのは第三章の「難発」に関する章で、会話上のエラーが怖くて体がフリーズしてしまう現象に僕自身が悩まされていたから、同じような経験をされている方が多くいることに安心感を覚えたりもした。


ところで、僕が「話す」ことに対して抱いているこの恐怖には、話すことの「取返しのつかなさ」が基底にあると、久しく考えていた。
誰しも、「あんなことを言わなければよかった」と後悔する経験を一度や二度はするものだろう。それについてうじうじ悩んでしまい、眠れなくなってしまう人もいるはずだ。なぜこのように悩むのかといえば、一度発してしまった言葉、それも、声帯を通って出された言葉は、二度と戻ってくることはないからだ。特に都合の悪いひとことだったら、私たちにできるのはせいぜい「冗談ですよ」なんて言ってお茶を濁すことくらいだ。とはいえ、現実では過去に戻ることも、編集でその言葉をカットすることもできないから、僕がひとたび口にした言葉は、そしてそれによって変化を被った外界は、決してもとに戻らない。


よって、次のように考えることになる。そのとき発された言葉は、僕の体を離れ、僕の予想だにしない(破滅的な!)影響を及ぼしてしまうかもしれない、と。僕は言いたいことを言おうとするとき、どうにも回りくどい言い方をしてしまうクセがあるが、それもこの恐怖から逃れるためなのかもしれない。つまり、本当の「言いたいこと」が伝わったとき、自分と相手の関係だったり、その場の空気がまったく変わってしまうことが怖いのだろう。


だが、これはおそらく、僕が、自分の言葉の持つ外界への影響力を見誤っていることに起因する。要するに、たったひとことで世界が終わるわけはない(誰かを多少傷つけることはあるにせよ)し、自分が言ったことなんて、誰も明日には覚えていないことがほとんどであるにもかかわらず、なにか自分の言葉が強烈な影響を他人に及ぼしてしまうのではないかと、不安になってしまうのである。


僕はおそらく、頭のなかで言葉をこねくりまわしているだけなのだ。それで、自閉的に言葉を使って満足しているだけだ。自意識過剰だと言われればその通りだ。つまり、相手やその場の空気をきちんと考慮できないから、外界への影響を見誤ってしまうのだ。


頭で言葉をこねくりまわしているということは、それだけ言葉が身体化されていないということだ。言葉は必ずしも思考より後にくるわけではない。会話するとき、言葉をいちいち考えていたらリズムがくるってしまうだろう。言葉は往々にして反射的に発されるものであり、身体化されているとは意識されるよりも先に言葉が発される状態のことだ。ときに言葉は思考に先立たれるべき(もしくは切り離されるべき)だが、こと日常生活においては、言葉は身体とセットであるほうが何かと都合がよい。要は、パッと言葉を発せるほうが楽なのだ。


だから結局のところ、僕にとっての問題は「思考」と「身体」が切り離されていること、あるいは「アタマ」と「カラダ」の距離が遠いことにあるのではないか。それが言葉の「取返しのつかなさ」に対する恐怖を引き起こしているのかもしれない。

そういうわけで、今は「言葉」と「身体」と「精神(思考)」の三つ巴の関係が、僕にとってどのように存在しているのかを少し考えている。まとまってきたら、またここで記すつもりである。


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