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ファミレス店員の憂鬱

年明けを数時間後に控えたファミリーレストランでは、いつもと変わらず数人の孤独な客が席を占有している。夜間の店内は、都会に居場所を失った客たちが適当なつまみと安い酒を注文するばかりである。それでも大晦日の店内がいつもよりいささか忙しく感じられたのは、年末だからという安直な理由で店長が営業時間を短縮したからだ。現在、時計は十時を、閉店の二時間前を指している。キッチンの店員が、さっさと帰って年越しそばにありつきたいという面持ちをこちらに投げかける。僕も同じ気持ちですよ、と思いながら、僕はキッチンから料理を受け取りいつものようにテーブルへと運んでいる。

バイトを終えた後は、友人とわいわいと過ごす予定だった。が、まだまだ下っ端の僕は大晦日のシフトを断ることができなかった。仕方なく、友人には遅れて参加することを伝え、と同時に、余計な仕事が増えるから間違っても冷やかしには来るなとも伝え、いそいそと2019年最後のアルバイトに出勤したのだった。

友人は冷やかしに来なかったが、代わりに冷やかしにやってきたのは神様だった。「神様のいたずら」は、こちらが予期していないときに起こるから「いたずら」なのだ。さっさと帰宅させろとすごんでいる一介の大学生に、少しちょっかいをかけてやろうとでも思ったのだろうか。ともかく、「いたずら」としか言いようのない些細な事件は起こったのである。

仕事も中盤に差し掛かりもうじき締めの作業に入ろうかという段になって、とある二人組が来店した。片方はずんぐりとしていて眼鏡をかけていた。もう片方は細身で猫背気味であり、顔が二十度ほど下向きになっているせいで、常時にらんでいるように見える。太めの方が細い方の世話役とでもいった調子で、店に入ると前者は後者を引き連れたまま4人がけのテーブル席に陣取った。そして、年越しの浮かれた雰囲気を顔ににじませながら、フライドポテトとピザ、ドリンクバーを注文した。この年配で少しやつれた服装をしたふたり組は、どうやら両者とも耳に障害を抱えているそうであった。というのも、事実、注文をする際にコミュニケーションがうまくとれず、耳を悪くしている旨を伝えられたのである。僕は多少面食らったところもあり、コミュニケーションに少々手間取りながら注文を受け取ったことを覚えている。

時は進み、閉店も間際となる。僕は年越し前の帰宅を目掛け、いつもの2倍速で締め作業を行っていた。このまますぐ帰るぞと意気込むと、そこに例のふたり組が会計をしにレジの前までやって来た。ずんぐりした方がお金を払うことになっているようだった。彼はSuicaを取り出して、僕もそれに応じ、と同時に彼が耳を悪くしているのを思い出し、カードをタッチするところを指差した。そして、事件はここで起こった。

シャリーン、と音が鳴る、はずだった。音は鳴らなかった。眼鏡の彼はぎょっとした顔をした(細身の彼は出来事に無関心のようで、宙を眺めていたが)。僕は狼狽しながらもレジの画面を即座に見ると、原因は単純で、残高不足であった。しかも、残高不足といってもせいぜい100円弱くらいの、極めて小さなものであった。

社会生活においては、支払うべき金を支払わない行為は犯罪行為となる。当然である。とはいえ、Suicaの残高不足であれば、通常は残りを現金で払ってもらえればなんてことはない。が、ここでの事態はそう簡単には片付かなかった。何かがおかしいと気づくと、眼鏡の彼は相方になにやら話しかけた。しかし、どうやら相方が期待にそぐわない対応だったようである。しかも彼はなんだか青ざめた表情になっており、さながらブルーハワイのかき氷シロップのようであった。と、冗談を言ってみたが、心持ちは冗談でない。こちらとしては、さっさと店を閉めて南国のような浮かれ気分を存分に味わいたいのだから、こんなところで手間取っているわけにはいかないのだ。さっさと払ってほしいなぁと思いながら、仕方なく、僕はなにがあったのかと聞いてみるのであった。

聞いてはみたが、意思疎通の困難から話はなかなか進展しない。ああだこうだとやっているうちに時間だけを浪費し、結局筆談で聞くと、どうやら彼は現金を持っていないようだった(初めから筆談で聞けばよかったのに、というのは今だから言えることである)。要するに、このままでは飲食代を払えないのだ。かといって、家はかなり遠いらしく、帰宅して戻ってくるほどの余裕はないようである。なるほど、こちらが帰れないのも冗談でないが、目の前に危うく無銭飲食をしかけている輩がいるなら、そっちのほうが冗談ではない。しかし、十分な金を持ち合わせていない彼らが悪いとはいえ、年末の浮かれた席の帰りに犯罪者となるのは、しかも100円程度の微細な金額でそうなるのは、さすがに不憫であるとも感じられた。

ああだこうだとやっているうちに、仕事を二倍速で終わらせてさっさと帰るというプランはすでに頓挫しかけていた。もちろん、ここで店員が客の飲食代を払うなど、言語道断である。本来であれば家で呑気にテレビでも見ているであろう店長を呼び出し、なんらかの手続きをすべきなのだ。だが、僕は若干投げやりになっていた。人生にはルールを破るべき瞬間があるのだと自分に言い聞かせ、ちょっと待っていてくれ、と彼らに伝えた。そして、誰にも見つからないように自らの財布を持ってき、あろうことかレジに100円を投入したのだった。

僕は口に人差し指を当て、「内緒ですよ」というメッセージを送る。と、彼らは何度も頭を下げ、言葉にならない言葉で「ありがとう」と言い、店を出て行った。事件は、どうにか解決した。早く帰りたいという邪な理由ではあったが、結果として彼等に親切をはたらくことになってしまった。しかし、悪い気はしなかった。気にしていたことといえば、このことが店長にバレて叱られないかどうかということのみだった。僕はほっとしたような、それでいて少し罪悪感を抱えているような、妙な気持ちのまま、そこからの作業を猛スピードで終わらせた。そして、帰りにカップ麺の蕎麦を買い、友人たちの集う家へと足を向けるのだった。

これが、2019年の末に僕に起こった出来事の顛末である。はからずも年の末も末に人に親切をはたらいてしまった、というしょうもない話である。それでも僕にとって大切な思い出のひとつであるのは、彼らと交わした小さな秘密の約束のせいだろう。店長にそれから何も言われなかったことを鑑みるに、彼らはどうやら約束を守ったようだ。

なぜこれが強く自分の胸に残っているのか、正直なところ見当はつかない。社会規範を破った罪悪感からか、あるいは、あのとき抱いた親切心を今でも誇りに思っているからか。理由など今さらどうでもいいのかもしれない。いずれにせよ、この罪状はもう時効なのだ。時効だから、ここに書いている。

まあ、あのとき僕にいたずらを仕掛けた神様には、少々物足りないエンターテインメントだったかもしれないけれど。

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