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恋愛は無駄?

この前、友人と飲みに行って、「セフレはいろいろと楽だ」という話をされた。なるほどねぇと相槌を打ちながら半分は流し聞いていたのだったが、要は「恋愛」するよりはカジュアルな関係のほうが快楽の追求には面倒ごとがないということらしい。僕はセフレなるものがいた試しがないので、なかなか理解が難しいところもあったが、「恋愛」が面倒だというのはよく理解できた。というのは、連絡がどうのとかデートがどうのとか、そういう面倒なことを全部端折って、結局のところは性交ができればいい、という気持ちを抱いたことがないわけでもないからである。

先程、面倒なこと、と述べたが、一般的に恋愛と呼ばれる個人の付き合いは、たしかにいろいろと厄介なことが多い。特に超がつくほどのインドア派である僕にとっては、そうである。一般的には、デートと称して定期的に会わねばならず、ラインや電話を欠かさずせねばならず、他の人との予定を多少減らしても当該の人との予定を優先しなければならなかったりする。個人差はあれ、だいたい「付き合う」となった場合こういったことを全部考慮しなければならないわけで、そうなってくると「恋愛は無駄だ」という反恋愛主義者の気持ちもわからなくはない。僕も「恋愛なんて面倒だし無駄じゃん。なんで付き合ってるの?」と言われたことがあるが、そう聞かれても当時はわからなかったし、今もわからない。寂しさとか感情の揺らぎ以外で「恋人がほしい」と自信を持って言える理由はあるのだろうかと考えるけども、そんな理由はたぶんない。

それに、「恋愛市場」なんて言葉が囁かれる昨今、恋愛は人としての優劣を否が応でも可視化するものとなっていてストレスだ。顔のパーツ、性格等々、あらゆるものがカテゴリー化され、ポイントをつけられる。誰が取り決めたわけでもなく、社会がそういうふうに回っている。「イケメン」はちやほやされ、「不細工」は虐げられる。みながみな、他人の顔を品定めしている。こんな社会で、「恋愛」なるものはが大きな精神的負担とならないわけがない。誰と付き合っているか、その人はいかなる価値を持つのか(顔、性格、財産…)、他人の恋人と比べてどうか?そんなことをいちいち気にするくらいなら、人を好きにならないほうがマシだと考えるのも頷ける。

恋愛のかたちも今ではさまざまだし、それが性的関係に結びつく必要は決してない。むしろ、それは多様であり、そうあるべきだ。しかし「恋愛市場」で売られている「恋愛」はパッケージ化され、そこにはあたかも正解があるかのようだ。まあ、こんなのは特にモテてきたわけでもない根暗人間の僻みかもしれないが。ともかく、僕は自らの性を考えてみても、どうしてもいわゆる「恋愛市場」にはノリ切れない部分がある。そこから自分にとって「愛すること」とはなんだろうと考えるようになっている。むろん、そんなものに答えなどあるはずがないのだが、自分にとって恋愛とは、愛とは、恋とは…と考えることは無駄ではない、と思う。

話が逸れたが、ここまで言っておきながら、僕自身は恋愛否定派ではない。数少ない恋愛経験(それもおおかた敗北しているのだが)ではあれ、恋愛というのはほぼ間違いなく、僕を人間的に変化させてきたものである。そして、その変化が僕は好きなので、恋愛という行為そのものを否定する気にはなれないのだ。誰かと「付き合う」というのは血の繋がらない他者と密接な関係になることであって、そういう機会は人生において他にはない。他者(それも、秘められた部分にまで…)に触れること、それが許されていること、その喜びあるいは悲しみ…それらの経験は、まあありきたりな話だが、やはり人間的に自分を変えてくれたと思う。

これは、面倒くさいことを面白がってしまう性分のせいなのか。はたまた、生来的に恋愛気質なのか(たぶんそうではないが)。なぜ恋人がほしいのかという問いには、答えるのが難しい。が、人と深く繋がることによって得られるものは、きっとたくさんある。そして、そういう「深く繋がる」経験が、少なくとも現時点での僕の恋愛なるものの定義だろう、と思っている。


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