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「生きてくれ」と言う権利は誰にあるか?

1年か2年ほど前だろうか。芸能人が相次いで自殺してしまう、なんとも奇妙な期間があったことを、覚えておられるだろうか?その時、Twitterでは「頼むから生きてくれ」「生きていればいいことがある」といった言葉が溢れかえっていた。そのとき、僕としては、死にかけている人に向かって「生きてくれ」と伝えることに変な引っ掛かりを感じていて、しかし、じゃあ自分が死にかけている友人にかける言葉といえばやはり「生きてくれ」しか思いつかないわけで…と、ぐるぐるとどっちつかずなことを考えていた。その際に書き記したのものを、なんとなくnoteに上げてみようと思った。それが本記事の内容である。先に断っておくが、これは特定の誰かを糾弾しようとか、いわんや自死を推奨するような目的は一切ない。一人のナイーブな青年の譫言、くらいに思っていただければ幸いである。



死にそうな人に向かって「生きてくれ」と頼むことに一種の残酷さを常々感じていたのだけども、その理由がずっとわからなかった。死を選ぶことを勧めたいとかそういうことは一切ないし、目の前でビルの屋上から飛び降りようとしてる人を見たら、そりゃダッシュして助けに向かうだろう。とはいえ、死にゆく人を目の前にして、その人を生き返らせることのできる言葉が出てくるか?と聞かれれば、僕にもその自信は全くない。

私事なのだが、まあまあ精神的に参ってしまって、死が目前まで来ていたような時期があった。包丁を見て、手首に刃を突き立てようとした。とんでもないことをしていると気づいて、なんか泣いた。そうだ、泣いたことは覚えている。

とはいえ、当時のことはあまり覚えていない。辛かった理由も、死のうと思った理由も、覚えていない。いや、そもそも死ぬ理由なんてなかった。いろいろなことがしんどくて、閉塞してしまって、このまま生きていてもダメなんじゃないかという思いはあった。が、それを反省できるのは今だからこそであって、当時はアタマのなかに真っ黒に霧がかかっていて、思考なんてできたもんじゃなかった。だからまあ、理由なんて探しても本人には案外わからなくて、死にたいというのは突発的な情動に近いのかもしれないと、そう思うようになった。

電車に飛び込む人を責められないのはそのときからで、たぶんそれは、自分も一歩間違えればそうなっていたと強く思うからだろう。一瞬なのだ。ほんの一瞬、突如湧き上がる情動で、すべてが決してしまう。だから、「死ぬな」という言葉を用いるのは案外難しくて、どんなに辛くても意外と人は生きようとするものだと思うのだ。ただし、それはほんの一瞬の、心に到来したなにか、強烈な負の感情とでも言うべきものによって遮られてしまう。

「生きてくれ」と頼むことの理由はいくらでも見つかって、たとえば周りの人たちが悲しむとか、残された借金は誰が返済するんだとか、そういうことはいくらでも言える。だが、正直なことを言えば、本当に生死を分けてしまうようなタイミングで、そういう理由がどこまで有効なのかは疑問が残る。たぶん、SNS上などで見る「生きてくれ」という言葉に、どうも高みの見物の印象を持ってしまうのは、このようなことを考えているからだろう。

結局のところ僕の疑問は、今の社会において、他者に対して「生きろ」と言うこと、さらに言えば、生きることを強制することにどれだけの価値があるのだろうか?ということに尽きる。とりわけ、今は長生きをほとんど強制されるような時代だ。にもかかわらず、救済は否定されてしまった。死後に良い世界が待っていますよ、とか言っている人は嘲弄されるばかりだ。そんななか、生きることにしんどさを抱えている人に、これから数十年、辛抱すればいいことがありますよ、とはなかなか言えない。とはいえ、死ぬことを推奨もできない。死にたかったら死んだらいいと伝えることなど、どう考えても倫理的に誤っている。

この悩みを僕はずっと抱えているし、これからも抱え続けるのかもしれない。そして、それはある意味で、人をほとんど永続的にさえ感じられるほどの時間を生きさせる、現代技術の抱え込む矛盾なのかもしれないとも思う。人は長く生きる。しかし、生きることの正当性は、誰にも与えられていないのだ。誰にも生きる理由を正当化できない。それは結局、自分で見つけるしかないということになってしまう。だから、いわゆる「生きる意味」を見失い、死にかかっている人に対しては、「生きてくれ」という同語反復的な応答しかできない。そのくせ、実際に人が死んだら、その人自身やその家族、隣人までもを寄ってたかって痛めつけたりもする。

こうして死んでいった人を罵倒することにどうにも賛同しかねるのは、自分が幸いにも死の淵から帰って来られたからという理由に尽きる。本当に、そのあたりは運としか言いようのないものがある気がする。たまたま僕には、理解してくれる友人がいて、家族もいて、苦しかったがどうにかなった。それだけなのかもしれない。そうはいっても、運だけで話を落ち着かせるのは忍びない。亡くなった人は単に不幸だっただけだ、などとは言えるはずもない。こうして、話はまた先程のところに逆戻りする。僕はこの周縁を、ずっとぐるぐると彷徨い続けている。

結論は、まだ出ない。僕は、人を生かす言葉を知らない。そもそも、言葉にそんな力があるのかというのも、わからない。しかし、死を前にした人を前にしても、人間には言葉しか残されていないのだろうということは、なんとなくわかる。言葉は無力なのだろうか。言葉を発するという能力をすべて用いて、結果として捻出できる対応策は結局、「生きてくれ」と伝え続けること、それしかないのか。「本当にそれだけか?」と悩み続けること、僕にできるのは、それくらいしかないのだろう。

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