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言葉


人は、言葉を発する前に、すでにエネルギーで会話をしています。なんかいい感じ、なんかやな感じ、そんな漂う雰囲気を感じ取る行為というのが、それにあたるのではないかと思います。

殆どの人が、無意識にやっていて、自覚が薄いことだと思うのですが、無意識にやれちゃうほど、ごくごくあたりまえの能力なのだと思います。

なので、対面した相手についてのバクっと大まかな輪郭は、言葉を交わさなくても、意外とわかってしまっていることは多いのではないかと思います。

たとえば、一緒に暮らしていれば、相手の体調や機嫌はすぐに感じられるし、徹底的にポーカーフェイスでもしていない限り、表情から全身から漏れ出すエネルギーがすべてを物語ってくれています。

そんな感じで、日頃から十分相手の状況は感じ取れるんだから、言葉選びを間違えなければ、すれ違いなんて起こらないはずなのに、それでも実際は、噛み合わず、すれ違ってしまうことは多いです。

また、メールや電話の場合でも、同じことが言えます。

顔が見えない分、そばにいる時より感じる力を使って想像力を働かせているから、顔が見えないことは、意外とマイナス要素にはならないけれど、そばにいる気軽さがない分、言葉遊び的なふざけたじゃれあいややりとりは減る気がします。もちろん相手にもよると思いますが。

先日も、友人とメールで話をしていて、些細なすれ違いがありました。

お互いに貴重な時間を割き、わざわざメール機能を使って、会話を楽しむためにやりとりをしているはずなのに、お互いの唯一の共通の話題と言ってもいいポイントをスルーされて、モヤッとしてしまったのです。

ま、いっか、とわたし自身もそのことをスルーすることはできたかもしれません。相手にだって、体調など、さまざまな理由はあると思います。

ですが、これを今スルーしたら、今後も自分の世界にそういう現象が起こることをOKしたことになる。親しい間柄だからこそ、また同じことでモヤッとする、そんなエネルギー交流はしたくはないと思ったから、結構なエネルギーを使って、違和感や疑問を投げかけ、しつこく食い下がりました。

そのあと、がんばった甲斐もあり、よりよいコミュニケーションの時間にしていくお互いの意図が明確になったので、一時的に気まずさがあっても、食い下がって良かったなと思っています。

今からここに書くのは、その一連の流れの中で気付いたこと。

やはり、人は会話などしなくても、無意識にちゃんと相手の思いや状況を感じてわかっているのです。それを仮にテレパシーとします。

無意識下では、テレパシーがしっかり送受信されていると感じているからこそ、言葉が噛み合わないときに、かなりの違和感を感じてしまうのです。

おそらく、人はテレパシー能力が失われているのではなく、そこに甘えている上に無意識下に埋もれさせているだけなのかもしれません。要は使いこなせていないのです。

親しくなればなるほど、言葉での受け答えは当たり前のように省かれていきます。

省けるものは省いても全然いいと思います。なんなら、たとえ伝わっていなくたって、お互いに気にならないのならモーマンタイ。

ただ、わたしは、言葉は遊ぶためにあると思っています。

本当に伝えたいことは、言葉には出来ない、言葉では伝わらないからです。

だからこそ、会話を楽しむということに、意識的でいなければ、おそらくすれ違いはなくならない。

すれ違いすら遊びのひとつだと思えるなら、それでいいけれど、限られた機会、出来れば面倒な干渉や不満要素は減らして、心地よく実のある時間に変えれた方が、わたし的にはそっちの方がうれしいです。

集中して会話を楽しめないなら、黙って穏やかに静かにしている方が、(無意識下で)よほどスムーズな交流になるし、たとえばその関係性が恋愛的なものなら、極端な話、SEXだけしている方がいいのではないかという気さえします。

性行為は人間以外だってするし、テレパシーはこの世界に飛びうあたりまえの現象である一方で、言葉を使った会話をするのは、人間ならでは。


noteが、書くことが、こんなにも人を魅了してやまないのは、それほどまでに、言葉の存在が、自己表現するために、なくてはならないものになっているからではないのでしょうか?

話はそれますが、わたしは、小学生から大学に入るまで、頻繁にいろんな友人と交換日記をしていました。たくさんの手紙も書きました。その内容の殆どが、どれも恋愛に関するものでした。それは、長年感情を言葉にし続けてきたということを意味します。

そして、アルバイトでは居酒屋の接客業、仕事ではトータル14年ほど、アパレルの接客販売をしてきました。

言葉を使って使って使って、使いまくって、生きてきました。

言葉の持つパワーが、どれほど人の心を動かすかもある程度までは知っているつもりです。

だからこそ、言葉にしないことの尊さにも、最近ようやく気付けたばかりです。

わたしはこれまで、さまざまな感情を言葉に乗せてきましたが、最近は、言葉によって感情が引き出されていると感じることも多いです。

それは、その言葉が生まれてから今までの過去を遡り、その言葉がどういう場面で使われてきたのか、感じる瞬間でもあります。

あまりに偏った意味合いに嵌め込まれて、その意味するものに苦しめられてしまっている人は多い印象です。

そんな時、わたしは言葉の概念を出来るだけフラットに戻し、自分で書き換え、好みのエネルギーを乗せるようにしています。

そうすることで、受け取る言葉からの影響を変えられるし、ようやく自分の意図したものを創造出来た気がして、安堵できるからです。

それは結局、すべては自分の内側に基づいて捉えていただけでしかなかったことを、教えてくれました。


振り回されずに、使いこなす。それが言葉で遊ぶということなんじゃないかと思っています。

散々使いまくり、振り回されてきたからこそ、やっとそんな風に思えるようになりました。

そう長くはない人生、言葉の使い方、遊び方を、日々自分仕様にしていくことで、望みの世界は広がる。

わたしはバカ正直なので、思ってもいないことは言葉には出来ません。

だけど、遊び(もしくは仕事)だと思うと、選択の幅が広がり、ワクワクしてくるのです。

何を言おうかなって、ユーモアが溢れてくるのです。

会話の楽しさは、そこにあるのではないかと思うのです。

大切な人、大好きな人とは、できるだけ楽しく遊びたいですよね。

言葉の意味と自分を同化し過ぎず、例えば楽器と同じように、音遊びとして楽しむ。

それができた時、言葉はただ、素直な音(エネルギー)を乗せるための、単なる記号だということに気付けるのかもしれません。


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言葉は借り物であって、あなた自身ではないのです。

不快だと思う言葉を排除しようとすることは、そこに、見たくない、感じたくないものがあるからなのかもしれませんが、それは同時に素晴らしい可能性をも排除しているかもしれません。

全部が同じ土俵上にある、単なる記号(言葉)として見つめられとき、外側に振り回されないしなやかさや創造力(発想の転換)に触れられるのではないか、わたしはそんな風に感じています。

この世に絶対的なマイナス要素などないことが腑に落ちれば、人々を不安がらせるような混沌に映る世界の様子こそ、ただただ自分のいのちの可能性から目を逸らしているだけだということに、気付かされるかもしれません。


言葉とは、言葉を扱うとは、生命力を信じ、可能性を信じ、自分自身を創造、開拓することを手助けしてくれるものである、というのが、今のわたしの感じているところです。



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