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わたしはここにいる


ずっと一人になれる空間が欲しいと思っていたのだけど、それは単なるわがままで、小学生の子どもがいる今、口にするべきではない言葉だと、口から出てしまいそうになる不満を、無意識に否定しつづけて過ごしてきた。

ぼんやりしてやる気が出ない。活力が漲らない。それは、単純に体調のせいだと思っていた。

しかし、新月前あたりに、火山が噴火するように爆発して、言いたいことをぶちまけたら、夫の部屋に娘が移動することになり、あっけないほど簡単に望みが叶ってしまった。

わたしは、自分の望みが、エゴからきているものだと思っていた。だから、母親としての役割みたいなものを放棄するようなその望みは、傲慢で自分勝手で、我慢しなければならない類のものだと信じていた。

しかし、その判断は、魂の訴えとは真逆だったことにようやく気が付いた。自分を後回しにし、また、家族を後回しにする自分を責め、本当に大切なものを履き違え、自らを疲弊させていたのだった。

リビングも寝室も、ひとりで過ごせる時間が圧倒的に増えた今、心身がだんだん落ち着いてきているのを感じている。
長時間誰かと一緒に過ごすことが出来ないこと、自分が思っている以上にひとりの時間が必要なこと、ようやく認めることが出来たようだ。

わたしはずっと娘に悲しい思いをさせてしまうのではないかと、そればかり恐れていた。
だけど、実際に寂しさや悲しみを恐れていたのはわたしのエゴの方で、娘は変わらず、いや、むしろ、今の方が楽しそうに見える。

せめて少しくらいは世間の常識に当てはまるような母親でいなければと、ギリギリまで耐えてきたけれど、ようやく、世間の常識的な形を手放し、自分自身の快適さを最優先させることが出来て気付いたことは、家族として母親として必要とされなくなることの怖さや、何かのせいに出来なくなる不都合に怯えるあまり、敢えてわたしをがんじがらめにしていたということだ。

でも、魂はずっと身軽になりたかった。

目に見える形では、夫であり、娘である、二人の存在がわたしの家族としてそばにいてくれる。

だけど、その形に縛られると、本当に大事なものが見えなくなる。

わたしたちは、互いを縛り付け、世界を狭めるために、共にいるわけではない。

あらゆるしがらみから解き放たれるために、出逢うことを決め、生まれてきたのだ。


自分だけ、贅沢な一人の空間をもらって、家族に酷いことをしているのだろうか、と、一人部屋になった後も戸惑い、不安が込み上げてきた。でも、身体は正直である。自然とエネルギーが漲ってくる感じがして家事も捗りはじめた。娘や夫は以前と特に変わらず、いや、むしろ以前よりにこやかに過ごしてくれるようになった今、全てはわたしの内側が映し出されていることを認めざるを得なかった。

わがままで傲慢な望みを持っているように思えたのも、自分がどう感じるかではなく、勝手な他人目線でそれを判断してしまっていたからで、いちばん大事な自分の声を、事あるごとに抑え込んでいた。過去の職業柄や元々の敏感な性質もあるだろう。自分以外の人にどう思われるかを優先して感じる癖があまりに根深く染み付いていて、疑う余地すら持てなかったのだ。

でも今回は、何度スルーしても次々とめぐってくる新たなチャンスに、チャレンジすることを決めたことから波紋が拡がり、さまざまな気付きへと導かれることになった。

静かに集中できる環境で絵を描きたいのに描けないというジレンマにどうしようもなくなり、自分の感覚をがむしゃらに訴えた結果、心地よく快適に過ごせる環境をあまりにあっさりと与えてもらうことができた。

追い詰められるほどの問題は本当はどこにもなくて、自分の内側で勝手に作り出していただけだったということがよくわかる。

ようやく生きる覚悟が決まった瞬間だった。
自分(の感覚)を信じる覚悟だ。

散々人のせいにしてきた。環境のせいにしてきた。
自分を信じきれない言い訳を、外側のせいにしてきたのだ。

でも、本当は覚悟がないだけだった。
魂の望みなら、必ず叶うものなのだ。

念願の心地よい澄んだ空間で、自分と向き合うことが出来た瞬間、体の奥から、愛してる、と響いてくるエネルギーがあって、内側から抱きしめられた。

魂が、自分を優先してくれてありがとう、と溢れる振動で伝えてくれていた。


ここまで来るのに、何度も何度も罪悪感に引っ張られては抜け出せない日々を送ってきた。

思いやりがない、他人に興味がない、薄情で傲慢、散々心無い言葉を投げつけられた。

でもそれが、自分が自分の本当の声を認めてあげられていないことで、体験させられていた自分の内側の現れだったということは、間違いない。

夫の提案をありがたく受け入れ、静かに快適に過ごさせてもらっている今、誰もわたしのことを責める人はいない。


責めていたのはわたしだけなのだ。

覚悟が決まった後も、本当にそれでいいのね?と
お試しのような現象が現れては揺さぶられた。でも、結局何を選んでも、表面的には、いいこともそうでないこともある。

わたしはわたしのままに生きながら、清濁合わせ呑むことの覚悟を、自分自身に誓った。





人生は浄化の旅である。


思うようにいかないことは、囚われから解放されるためのきっかけである。

魂は何度も何度も、目の前の現象を通して、合図を送ってくれている。


そしてわたしは、あなたが別の姿になっても、あなただと気付くことができる。

目に見えないエネルギーを愛している。


もはや形のないひとつの大きな存在だけが、わたしを愛に立ち返らせてくれる。 



わたしたちは、アイデンティティを脱ぎ捨て、自分が何者でもなかったと気付くたびに、目に映るすべてが愛だったと知ることができるのである。






一人の空間を与えられて、今日で一週間が経った。

わたしの魂には、長い間エゴにエゴ扱いされて、随分と苦しい思いをさせてしまった。

この一週間の戸惑いは、きっとエゴの戸惑いだろう。


一人の時間が増え、家族との間に距離が出来てしまうんじゃないかと一抹の寂しさがあったものの、実際は距離が近付いてしまったような気がしている。


近付いたのは心の距離だ。


以前よりも、家の中に調和のエネルギーが溢れている。



夫と娘よ、

こんなわたしを受け入れてくれて

ありがとう。





ようやく心身が落ち着き、絵を載せることが出来ます。
観ていただけるとうれしいです。


『わたしはここにいる』

A4・紙/アクリル絵の具・ポスターカラー


2022年5月に描いた作品です。
お世話になっている方へ、感謝とお祝いの気持ちを込めて描きました。

この絵の中に流れるピアノ曲も作ったのですが、録音が間に合わなかったので、またの機会に。





いくつかの展覧会に、作品を出展させていただくことが決まりました。


詳細はまた、別の記事でお知らせさせてください。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。





ご覧いただきありがとうございます✨ 読んでくださったあなたに 心地よい風景が広がりますように💚