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感情を定位する

こんにちは。

いや~メルマガが出せない!
実はメルマガの配信機会をもうちょっと増やそうと思ってます。あんまりネットサーフィンしないという年齢層の方がいて、その方たちはすごく丁寧なお返事をいただけるので嬉しいんです。

ただ、いま使ってる海外製のサーバーから自動配信してるので、英語からいきなりプログラムにいくのがちょっとめんどい。

「あれ、これ何だっけ」ってなったりする…。

「まぐまぐ」のスタンドも申し込んでいるんですけど、こちらから出そうかな。テキストベタ打ちだから楽そう。

ただいずれにしてもいまの読者さんを新しいスタンドに誘導する必要があって、そっちをちょっと頑張ろうかな。書いたあと、本文のほうも「続けて書きたかったり」するから、なかなか書いてはいるんだけど「メルマガ」がおろそかになる。

良いアイデアないかな――。

最近の動向

フィジカル

今日は「結構治療が進んでいるよ」という話です。最初、体の状態(肩こりとか体重とか)をよくすることに結構努力してて、最近はストレッチポールなんかも買っててこりほぐしは相変わらずしてるんですけど、ちょっと頑張りすぎて耳鳴りがしたり、自律神経も梅雨になったりしてやや下降気味…。

先月は特に「体調」というよりまたメンタルががくんと落ちて、意欲がなくなってしまいました。

今の先生は「どうやったら良くなるか」というのを知ってるみたいな感じで、「次はこうなりそうだよ・心配だよ」というのをしっかり意識付けしてくれます。

「なんでこんなに好調なのに意欲が急に落ちたりするのか」

ということをあれこれ考えていったら、先生が面白いことを言ってたので興味を持ちました。

自分の核を持つ

「西巻さん、他人っていうのはね、移ろいやすいものなんで、そればっかり頼ってるのはダメなんですよ」

おっ。

「じぶんのなかでしっかりした核みたいなのを持ってないと、人に流されすぎたり、お金にとらわれたりして、自分の核を見失ってしまうんです」

えええっ。確かに。

「西巻さんの課題はそこですね」

具体的な課題はどんなことなんだろう、というのがわからないと禅問答のような話なんですが、実際に訪問にきてくれる人たちとカウンセリングまがいのことをやったり、お悩み相談したり、とにかく最低週3でうちにきてくれるので、先生はなんて言ってるんだろう、ということを理解するように努力してました。

すると、ある日、ある感情に気づきます。

「嫌われたくない」

実は最近わたくし、自分の感情のなかで「喜怒哀楽」のうち、怒の部分がすっぽり欠落していることがわかりました。人を楽しませたり、哀しいと思ったり、あーリラックス―みたいな感情は知っているのですが、「怒」という感情があんまりない。

自分のこころを深堀りしていくと、実は「人に嫌われたくない・一人になりたくない」というおもいが強いことがわかりました。だからなんか「優しくしよう」としたり、大変な状況のひとに手を伸ばしたり、人がなんか言ってきてもルーズだったりするんですよ。「え、それ怒んないの?」と言われて、怒らないんだなあ、これが…。

「いいこと」なのかと思っていましたが、「いいこと」だけじゃない側面もあります。

「仲間意識を出されると安心する」

そうなの。別にその人が好きとか嫌いとかどうでも良くて、仲間だよと言われると安心してほいほいお人好しになっちゃう。ちゃんとその人が自分の仲間にふさわしいかどうか、しっかり見極めなきゃいけないですね。

「怒りの感情に気づかない」

怒らないんじゃなくて、怒れないんですよ。
ふつうの人と同じように、怒りの感情はあるんです。でもそれを出すのは
関係を壊す行為、いけないことだと思っていて、怒りを呑み込んだり、怒りの原因に気づかないふりをしている。

これは別に怒りに限った話じゃなくて、「なんで嬉しいんだろ」「なんでこんなにかなしいんだろ」みたいなのを冷静に見つめることが大事らしいです。で、私は怒りを感じるより、頼まれたら「嫌だけどやんなきゃなー」と思っていて、その感情を呑み込んでその時は作業をしたりするんですけど、だんだんあとから苦痛になってきて、最後パニック発作が起きたり、ふらついて倒れたり。

ほんと、自分自身が、体を壊すまで気づかなかったり我慢したりしてるじゃないですか。

怒りを我慢するのはよくないんです!!

負の感情はためちゃダメ。それにとらわれるのも良くないけど、「ちょっと嫌だな」とおもったら「その言い方ちょっと気をつけてよ」くらいのことは指摘しておかないとわかんない人にはわかんないから、これは生きるコツだと気がついてきました。

怒りを発露するのって難しいんだけど、基本的に自分のミスでコケた、とかわかりやすいミスり方だと、別に怒りはないじゃないですか。

どうしても人の行動とか、無神経さに「それは違うよ」って思うことのほうが多いです。

「議論」とか「当意即妙の返し」ができるひとは、おそらく自分の「怒り」の感情にとても敏感なんじゃないかな。わたしの場合、なんか嫌な気分だな、と思ったり、やりたくないな、とは思うんだけど、その気分が一体何なのかあんまりみつめたことがないので、自然と呑み込んじゃうんですよね。

「なんでみんな怒れるんだろう」と思っていましたが、ぼくに怒りの感情が
ないわけではなくて、怒りを呑み込んでただけでした。

だから我慢せず、相手に軽くまず行ってみたり、メールだったら「ちょっとなあ」と返したほうがいいですね。実際何人かのひとに試してみたら、(本気で怒ったわけではないけど、怒りそう、という気持ちが嘘だったわけではないですよ)「あ、ちゃんと怒ってくれるんだ」と逆に感謝されたりとか、いいこともありました。

私も何年も貯めてたものが、昨日火山のようにぼわーっと爆発して、どうなるかな、と思ってたら、いま、なんか言ってせいせいした、やめてよかった、みたいな気持ちです。

ほんと、はじめて「せいせいする」ってこういうことなんだ、と思いました。清々しいです。

現在は、自分の感情を自分のあるべき場所に持っていく、正しい位置に置く、という訓練を今やってます。定位する、つまり位置を定めるってことですよね。

結局ひとつのことを延々と探求しているぼくは、もともと友だちは増えにくいし、嫌われないようにしても、不用意な発言をしたりして、嫌われるときは嫌われます。(そういうときはショックで立ち上がれないよ…)

だからもう友人を増やすなんて、ぼくはどうでもいい。

たまにお金を払ってでも、友だちでいてほしい人っているけど、そういう人以外はたとえば同じ属性だから、同じ会社だから、同じ組だから、同じ学校だから、という理由でまったく仲良くする必要がないし、1億人もいれば他のジャンルの人でも誰かいるよ。共通の話題じゃなくても、同じような構造に悩んでいる人がいるしね。

いま、ぼくはほんとうに短歌を愛していて、文章をがががっと書いているし、実は短歌自体もストックがいっぱいあって、30首位あるのかな、「こんなに歌ができるの?」ってくらい、歌が出来ます。(さっきも10首位できたよ)

だから、話し相手は今のところ、メンタルヘルスの専門家でいい。怒りに囚われ過ぎは良くないけど、まったく怒らないのもよくないというバランスを一緒に考えていこうかな、と思ったら、

先生が言っていた「自分の核を持つこと」の意味がわかってきました。

友だち作りは「ほんとうにこの人は自分と価値観を共有できるか」を慎重に見極めないと自分が傷つくので、しばらくお休み。

全部バランスだよ。
喜怒哀楽のバランスをよくするとその中心が核なんじゃないですか。

ではでは、良い一日を。ちょっと今日はかるーい話でした。

(2024-07-12日 21時23分最終稿)

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