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「レイカーズ」の試合で踊るアメリカの老若男女、揺れるLAのステイプルズ・センター

先日、カナダ国籍の講師による「”D&I” (Diversity and Inclusion)」をテーマとした講演を聴く機会があった。

冒頭、「D」と「I」について、だいたい以下のような説明があった。

「D」:ダイバーシティー(Diversity)は「多様性」を意味する。ある集団の中に性別・世代・人種・国籍・障がいの有無など、異なる特徴を持つ人たちが存在する状態。

「I」:インクルージョン(Inclusion)は「包含」を意味する。異なる人材が互いに認め合い、尊重し合うことにより、個々が活躍できる場を整備したり、集団をスムーズに運営している状態。

講師が仰るには、欧米諸国ではかなり前から多様性、またはD&Iといった考え方が自然と根付いていたとのことである。

講師の祖国であるカナダは、20~30年前までは国民の約3割が海外生まれであったため、多文化の共存を尊重しなければ、国家の存続自体がままならないという事情もあったらしい。

また22の公用語(!)を持つインドなども引き合いに出されていた。

それらの国と比較し、日本は以前まで、いわゆる「均一性」が強みとされた時代があったりして、D&Iの考え方については、先進諸国に遅れを取っているということであった。

グローバル化を続ける世界において、人々がD&Iのような考え方を「意識」し始め、組織やコミュニティーにおいて「意識的な」仕組みづくりに邁進するというのは、実に自然な流れであり、歓迎すべきことであるとは思う。

そして、いつの日か、そういった考え方が「人はご飯を食べなくては死んでしまう」ぐらいに当たり前になって、誰もそんなこと「意識」すらしなくなったとき、D&Iというメッセージ自体が目的を遂げており、誰が言わずとも、そんな考えが既に「理想的なかたちで自然に社会に浸透している」ような状態になるのかな??などと思ったりもしている
(完全にそのような社会を実現することが可能であるとして)。

そして、カナダ人講師の言う「日本がD&Iの考え方について、先進諸国に遅れを取っている」かどうか、自分なりにも考えてみた。

「国籍」や「人種」に対するD&I的な考え方が、社会に浸透していると感じた出来事

私は以前、比較的長期にわたり、香港で暮らしていたことがある。

あの国も、長らく英国の統治下にあったため、多文化を受け入れざるを得なかったという歴史的運命の名残を受け、今も「英語」が公用語の1つとなっている。
(※ ご存知かもしれないが、香港の主権は1997年に英国から中国に返還され、香港は「1国2制度」のもと中国の特別行政区となっている。従って、、香港を「国」ではなく「地域」と呼ぶべきなのかもしれないが、ここでは敢えて「国」と書いている)。

また世界中の企業から投資を誘致し、移民を受け入れ、国際都市の地位を築いたという歴史的背景もある。

そんなこんなで、少なくとも日常生活において、マジョリティーである「香港人」社会の片隅でひっそりと「借り暮らし」するような場面は、、、多くはないと感じる(それなりにはあるが)。

街の至るところで標識ないし表記は英文・中文併記となっているし、言語面においては英語だけでも十分にビジネスも生活も送ることができると感じている(下町に行くと、「広東語」もしくは少なくとも「普通語(標準中国語)」)を話せないと、なかなかストレスが溜まるかもしれないが)。

公平に言って、少なくとも「オレ様たちの母国語である広東語を覚えやがれ。いやなら有り金置いて、とっとと立ち去れい!」というほどに「外国籍の人間」に対して、排他的な文化の国ではないと感じるところである。

そして、自分の祖国である日本は、果たして、そのような「外国籍」や「異なる人種」の人たちに対し、現時点において、同程度の「寛容性」や「非排他性」みたいなものを持ち合わせているのだろうか? と何だか考えてしまうのである。


もちろん香港に差別が無かったと言いたいわけではないし、仮に自分の国籍が日本でなかったとして、全く同じ印象を持つに至ったかどうかは分からない。

1つの国から「差別」を完全に無くすことは、世界から「犯罪」や「貧困」を無くしたりするのと同様に、とてつもなく難しい問題だと思っている。

ただ「植民地化の歴史という傷跡」や「独自の資源を持たない香港が発展を遂げるための打算」みたいなものがあったにせよ、社会が「国籍」や「人種」といった「多様性」と「それを受け入れること」みたいな考えは、既に人々が強く「意識」することもなく、ある程度「自然なかたちで社会に浸透している」状態だったと感じた。

そして、そのような社会は(こと「国籍」「人種」などに限って言えばであるが)D&Iのような考え方についても、ある程度、先進的なのかと感じるところである。

(因みに、上に書いたことは、私が香港に住んでいた頃のことである。私が去った直後あたりから、香港が急速に赤く染まり出したというような報道を連日目にするようになり、現時点で、どのような環境にあるかは、友人らを通じてしか知ることはできない)

「障がい」に対するD&I的な考え方が、社会に浸透していると感じた出来事

場所は移り、結構前になるが、アメリカのLA(ロサンゼルス)の法律事務所で、客員弁護士(Visiting Attorney at Law)という肩書きで、数ヶ月間、研修させていただいたことがある。

そのとき、先方事務所のクライアントを通じ、NBAの「ロサンゼルス・レイカーズ vs 、、、何とか(?)」のバスケットボールのタダ券が何枚か事務所に送られてきた。
(恐縮ながら、球技に疎く、対戦相手のチームを覚えていない。ユタ・ジャズ(?)あたりだったと思うが、違うかもしれない)。

外国から突如やって来て事務所に借り暮らし状態の私であったが、それこそ「多様性」を尊重いただき、メンター役の先生が私にも2枚タダ券をくれた(イエイ!自由の国!)

上に書いたとおり、今や対戦相手チームの名前すら憶えていない私であるが、生意気にも「本場のNBA!」などとワクワクしながら当日を待ったのである。

現在、映画館で公開中のバスケ漫画『スラムダンク』の映画版、『THE FIRST SLAM DUNK』をこよなく愛するような熱烈なバスケファンには、私のような「にわか」がはしゃいでいたようなことを書くと、少し申し訳ないような気持ちにもなる。

ただ、この試合観戦が、私がバスケを少しでも愛するきっかけとなったことも確かであるため、どうか私を「憎めない、ややバスケ好き男」ということで仲間扱いしていただければ幸いである。

試合当日、私は愛すべき中国人ソウルメイトの「モンキーマジック」さんと一緒に、会場となるLAダウンタウンにある「ステイプルズ・センター」
(今は「クリプト・ドットコム・アリーナ」(?)とかに名前が変わったようにも聞いている)に着いた。

会場はほぼ満員で、試合前にもかかわらず、大盛り上がりである。
ほどなくして、メンター役の先生夫妻も到着され、一緒に白熱しながら試合を楽しんだ。

これも事前に知らなかったことであるが、その日は「コービー・ブライアント」というスター選手の引退試合だったか、引退間近の試合だったかであり、そのことによっても会場はひときわ盛り上がっていた(何とも歴史的な試合に、何とも緊張感のない男が立ち会ってしまったものである!)。

そんなこともあり、打楽器によるレイカーズ応援のリズムと、それに合わせた熱狂的なレイカーズファン(とコービーファン)による「コービー、やめないで!コービー!」というコールが相まって、会場は終始「有り余るほどの熱気」と「去り行く英雄を見送る一種のやる瀬無さ」みたいなムードで覆い尽くされていた。

周りのムードに呑まれやすく、お調子者な一面もある私は、初対面のコービーさんの雄姿を見ながら、生粋のファン一同に交じって一緒に「コービー!あぁ~、コ~ビ~!おぉ~、コ~ビ~!キャー素敵~」などとちゃっかり歓声をあげていた。

選手も私もすっかり大汗をかいたところで、前半戦が終了した。

さて、アメリカのスポーツ観戦において、「前半戦」と「後半戦」の間のブレイクやその他のタイムアウト中に、会場のカメラがランダムに客席の観客にスポットを当て、それら観客の姿を会場の巨大スクリーンに映し出すということが、一種の「遊び」として行われたりする。

ただ姿を映し出すだけではなく、たとえばカップル客ばかりを狙って順番に映し出し、「はい、スクリーンに映ったカップルは、みんなの前でキスをしてください」などという「お題」が与えられたりもする(ちなみに、これは「キスカム(kiss cam)」などと呼ばれたりもする)

そうして、スクリーンに映し出された観客のリアクションを、その他の観客が楽しんだりするわけである。

実はこの「遊び心」については、「プライバシーの侵害だ!」とか「一緒にいるところを他の人に見られたくない場合だってある!」などと賛否両論あるらしい。

さて、遊び心の是非はいったん横に置き、レイカーズの試合においても、休憩時間となり、スクリーンに「お題」が写された。

「さあ、観客の皆さん。あなたご自慢のダンスを披露してください!」

「ダンスカム (dance cam)」というやつである。
仮に自分の姿が会場の巨大スクリーンに映し出された場合、その観客はダンスを披露しなければならないのである(別に「しない」という選択肢もあるわけだが)。

ダダダ、ダンス?

こんなのカメラがもし、もし自分のところにまわってきて、自分の姿が巨大スクリーンに映し出された場合、「踊ったら躍ったで、生き恥を晒すし~、もし踊んなかったら、世界で一番おもんないやつ、みたいなレッテル貼られるのでは~」とか、「その瞬間の判断次第で生死が決まる、正にイカゲームですやん」、、、などとアメリカ人は考えるのか、どうなのか。。。

(因みに、コービーコールのお陰でテンションが上がりまくっていた「にわかすっかりコービーファン」の私は、来るかも分からないカメラに備えて、実は踊る気満々であった!)

さて、観客席の反応やいかに、、、。

カメラも男性、女性、若者、子供、中年、老人と異なる性別や年齢層を満遍なく映し出すのだが、やはりイメージどおり(?)のアメリカ人、老いも若きも男も女も実に躍る!踊りまくるのである!

立ち上がって派手にブレイクダンスをするような人はいなかったが(こういう人もたまに交じっていたりするのだが!)、みな何ともうまくその場でリズムに乗って、なかなかにカッコよく体を揺らしたりしている。

、、、そして、いよいよカメラが私のところに!

、、、ということにはならなかったのであるが、カメラが最後にパッと1人の男の子を映した。

その男の子は、小学校低学年ぐらいで、、、「車いす」に乗っていた。

次の瞬間、その男の子は最高の笑顔で車いすを両手で掴み、彼独特のダンスとして、カメラに向かい、音楽に合わせて激しく全身を揺すって見せたのである。

そしたら、満員御礼のステイプルズ・センターの観客が一斉に「ウォ~~~~~~ッ!!!!!!!」とどよめき立ち、その車いすの男の子に対する
1万人以上とも思われる観客の歓声、拍手喝さい、口笛(指笛)などでスタジアム全体が地鳴りのように大きく揺れた。

私も何だか感極まり、1万人以上に紛れ、大きく雄たけび(ゴリラか!)をあげた。

あの場面で、車いすの男の子が咄嗟に極めて幸せそうにダンスを披露したこと、そしてその直後のアメリカ人たちのポジティブなリアクション(盛り上がり)に「サプライズ」のような衝撃を感じ、気持ちは大いに高揚した。

そして、そもそも「カメラが最後に車いすの男の子を巨大スクリーンに映し出すという行為に及んだ」こと自体に、何だか感銘を受けた。

私は自分の祖国である日本もそれなりに愛しており、無意味に批判するような気持ちはないのだが、たとえば日本で、何かのイベントを観に行ったとして、似たような状況になったりするのだろうか?

よく分からないが、もしかしたら、そういうこともあるかもしれない。

ただ私は何となく、今の日本では「そのような流れにはならないんじゃないか?」みたいな気持ちもある。

誤解を恐れずに言うと、現状、日本であの状況になって、カメラが車いすの男の子を映した場合、その場に「えっ!いや、それはちょっと、、、」みたいな何とも言えない空気が流れそうな気もしている。

「日本でも全然アリアリでしょ!何言ってるの?」と何ら違和感を感じない各位は、もしかしたら、私のことを既に差別的な人間と思い始めているかもしれない。

それは私の本意ではないのだが、それはそれで、私自身が、まだ車いすの男の子が持つ「障がいという多様性」を強く「意識」している状態にあるということの裏付けなのかもしれない。

そして、私と同じように「日本では、まだちょっと、そうはなり辛いんじゃなかろうか」と感じる方が居られるとすれば、その方もまた私と同様に「多様性を受け入れること」を少し強く意識している状態なのかもしれないと感じる。

あの「ダンスカム」の場で、間違いなくカメラは「車いすの男の子」と「1万人超と思われる大観衆」のポジティブなリアクションを(何となくでも)想定した上、あの男の子をクロースアップしたのだと思う。

要するに、車いすの男の子は当たり前のように踊るだろうし、大観衆はそれに対し、当たり前のようにエールを送るだろうと。

何だかそれって、すでに「障がい」といった「多様性」と「それを受け入れること」みたいなものを人々が強く「意識」し過ぎることもなく、そういった考えがある程度「自然なかたちで社会に浸透している」状態なんじゃないかと感じるのである。

そして、それは同時に(「障がい」に限ってではあるが)「D&I」というような考え方についても、少し先を行ってると言えるのかも?と思うのである。

冒頭のカナダ人講師が「日本はD&Iの考え方について、先進諸国に遅れを取っている」と言っていた意味を考えるうち、自分が過ごしたことのある「他の先進国」での体験をまざまざと思い出すことになった。

上に述べた私の体験は、多様性を考える上でのごく一部の例に過ぎない。

多様性とひと口に言っても、上に述べた「国籍」「人種」「障がい」等に留まらず、その他の色々な「異なる特徴」というのがあるのだと思う。

探してみれば、もしかしたら日本にだって、多様性について「そこそこ先進的な考え」を持つ分野があるかもしれない。

また上に述べた国でも、すべての多様性がくまなく完全に受け入れられているとは思わないし、そもそも、そんな社会を実現するのって、きっとすごく時間がかかるような気がする。

今は、私自身も多様性を「意識」し、それを受け入れていかなくてはならないのだ、などと「意識的に」考える段階にあるが、いつしかそれが「昼寝をすれば夜中に眠れるわけがない」くらい当たり前のことに思える日が来るのだろうか。。。

結論として、過去の経験を通じて私が得た教訓。

「アメリカにスポーツ観戦に行く場合は、事前に自慢のダンスを完成させておいてくれ!」

解散!

(※ なお文中に登場したコービー・ブライアント氏が、2020年1月にヘリコプター墜落の事故により亡くなったとの報道を目にした。忘れられないひとときを与えてくれたことを同人に深く感謝し、謹んでR.I.Pの言葉を送る)

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