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#41【劇評・絶賛】「野崎村」お光ふたたび

もうずっとこの話ですね。
猿若祭終わるまではしかたないですね。
桜の時期ずっと桜が気になってしまうようなものです。「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」との兼好先生の至言がございますが、やっぱり桜が咲いていれば、やれ咲いたの、やれ散ったのと気になるもの。今日千穐楽ですから、在京の中村屋ファンとしてはやはり観ておかないと。
目撃せよ。
歌舞伎ご興味ない方、すみません。


おみっちゃんにまた会ってきた

鶴松さんのお光に沼りまして、初めて「幕見席」というお席でふたたび観てきました。というか、たった今千穐楽も観てきたから、都合みたび観たことになります。同じ演目を三回も観るのは、昨年の『天使にラブソングを』と『ウィキッド』と……けっこうやらかしてんな。残高死んでるの当然だよ。
夜の部も観る予定なので、その間に歌舞伎座近くのカフェで更新しようという魂胆です。このためにでっかいPC家から持ってきました。がんばれわたし。それにしてもノートではあるものの明らかに持ち歩くサイズではない。今このカフェにいる人のどのデバイスより大きい。

幕見席どんなかな

幕見席の1列目の見え方はこんな感じです。

4階幕見席1列目7番席。前の席の方が大きいと、もう少し視界が遮られます。

花道はほぼ見えませんが舞台はほとんど見えます。屋根でお光の出のお顔が見えなかったのが残念でしたけど、それくらいでした。
これで1,200円、1時間15分だけど映画より安い、お得すぎ!なお、料金は演目によって前後します。高くても2,000円しないくらいです。
幕見席には外国のお客様が多く、窓口のスタッフさんはみなさん英語を話されていて感動でした。すごい……。
また、美しいお着物で盛装なさった方もたくさんいらっしゃって……観ているだけでも気持ちが華やぎます。盛装って場への敬意ですよね。
イシス編集学校ではファッションも情報編集のひとつと教えられますが、まさに観客含めた総員の情報編集によってこの歌舞伎座という場、歌舞伎見物という体験が形作られているのだなあと思います。
ファッションと言えば、ネットで読んだのですが、歌舞伎役者の女形は、化粧の途中で先輩の楽屋に呼ばれたとき、少し紅をさしてから出向くのが心得なんですって。なんという雅な心遣い。ソースはこちら、かぶき猫さんのブログでした

二回目・三回目はどうだったか?

「野崎村」は1時間15分なんですけど二回目はあっという間でした!
観劇二回目・イヤホンガイドも二回目となると、より深くお光の人物像が見えてきます。16、7歳、働き者で孝行娘で気立てもよくて村一番の器量よし。ねえちょっとこんないい女子が婚約者で何が不足なの久松よ!
うーん、これはほとぼりが冷めてから還俗して村のいいとこに嫁入りして幸せになるんだなお光は。そうだろう、そうにちがいない、そうわたしが決めた。

三回目は、より解像度が高まりました。前回どこを見逃したかとか、インタビューで語られていたけど気づかなかった演技をリストアップしておいて、そこを見ました。特にオペラグラスは視界が狭いので、久松の着物の柄を集中的に見ていて気が付いたらお光が捌けていた、みたいな失敗もあったので。

そして、何回見ても、泣いてしまうラストシーン。洟をすする音が場内のあちこちから聞こえてきます。後ろの席のお姉さんも泣いてました。号泣。

継承されていく芸

この間、鶴松さんのインタビュー記事たくさん読んだので、記事で語られていた場面やしぐさについて、鶴松さんを通して勘三郎さんや七之助さんのお光が見えるようでした。大店のお嬢様お染の登場に腰抜かしてクルクル回る場面、これだけかわいく演じている鶴松が絶賛する勘三郎さんのお光は、さぞ愛らしかったろう、とか。
今回、鶴松さんにお光を、と推したのは七之助さんだったそうです。さらに久松での出演を買って出てくれたとか。

口では「朝(一番最初の上演演目)早いなあ」とか冗談を言いながら、本当に丁寧に教えてくれています」

CREAインタビュー「中村鶴松が"恐れていた役"に挑戦」から引用

なんか萌えるツンデレエピソードです。七之助さん、カッコイイ……!
それにしても今回、『クレア』『バイラ』などの中堅女性向け総合情報誌でのインタビューがたくさん出ているのも、鶴松さんへの注目の高さがうかがえます。現代の市井の女性の共感性を高めるのは、鶴松さんの真面目さひたむきさや、一般家庭から入ったというバックグラウンドが一役買うとは私の体感とも合致します。情報誌のさすがの嗅覚です。

久松の台詞と近代武道家の名言の符合

note.を始めてから、ここに書くためにいろんな文章を読む機会が増えました。とくにウチダ先生(内田樹さん)の文章は、書きたいことを探す途中で、めあてのものではない文章でもたくさん読みました。すると、そこで読んだものとよそで見聞きするもののシンクロニシティを体験することが以前より増えました
これもnote.の効用のひとつですね。

物語の終盤、お染とともに大阪に旅立つ久松がお光に別れの言葉をかけます。
「こうなりくだるを さきのよのさだまりごとと あきらめて」
"こうなってしまったことを前世から決まっていたこととあきらめてください"という意味ですね。この後に、両親の面倒をよく見てくれよ、と言いたかったけれど申し訳なさ過ぎてここで言葉が切れる、という演出。
まったく久松お前は勝手な奴だよと言いたくもなりますが、直前に読んだウチダ先生の文章にあった近代武道家の金言と符合していたので、びっくりしました。
ちょっと長いですが引用します。

どんなことをされても、「昔から、そうされることに決まっていた」と考える。与えられた状況については文句を言わない。「そういうもんだよ」と自分に言い聞かせる。

ぼくの合気道の師である多田宏先生の、さらに先生で中村天風という方がいます。天風先生が日露戦争で軍事探偵をしていたときの、こんな逸話を多田先生から伺ったことがあります。

天風先生が列車の下に潜り込んで、車内の密談を聞いていたら突然、列車が動き出してしまった。身動きならず、そのまま何時間も列車の下にしがみついていた。そのとき、天風先生は「俺は生まれてからずっとこのかたちだ」と自分に言い聞かせていたそうです。

病気や災難に襲われたとき、つい「それが起きなかった場合」を想像して、「なぜこんな事態に陥ったのか」と恨んだりします。でも、それで状況が好転する可能性はゼロです。

だったら、「生まれてからずっとこのかたち」だと断定するほうがいい。これ以外の選択肢はないなら、自分から進んで「今、いるべきときに、いるべき場所にいる」と断定した方がいい。そうすれば天風先生がされたように九死に一生を得ることもできる。

内田樹「物事はいいように考える、と努めていく」(ダーナネット 2018/01/12)

なるほど……天風先生のエピソードがなければ、そんなのいいようにやられてしまうではないかと反発したくなりますが、そんな壮絶な九死に一生エピソードを聞かされてしまうと、なるほどそういうものかと思ってしまいますね。
日本に長く伏流している叡智なのかもしれません。

くらた的萌えポイント列挙

まとまりを持って書くべきことは、おおかた書いてしまったので、ここからは、自分の備忘録のために、くらたの萌えポイントを列挙していきます。お時間ある方、ご興味ある方はぜひお付き合いください。

なんにもいうてくださんすな

出家姿があらわになったとき、驚く一堂に向かってお光が「なんにもいうてくださんすな、わしゃとんと思い切った」と言います。「なんにもいうてくださんすな」のような場面って、物語でよく見る場面ながら、胸に迫るものがあります。驚き、嘆き、同情……およそ自分に向けられる反応、感情はすべて予想した上で、自分の感情も溢れているところだから、この上はどうか何も言わないでください、という懇請。感情があふれて、まだまだ思い切れてなどいないのです。泣ける……。

なぜかしら微笑んでいるお光

出家姿で現れた後、お光はその決心について語りますが、その時のお光はなぜかしら微笑んでいます。この笑顔がとても悲しくて美しいと思っていたら、そのことについて語っているインタビューがありました。ほんとに鶴松さんめっちゃたくさんインタビュー受けてる……。

どうしても演じていて泣きそうになってしまうんですよ。でもあえて笑って台詞を言っている方が客席からは悲しく見えると教わり、腑に落ちないまま稽古をしていたら、「悲しいことを言いながら顔はすごく笑っていて、なんかサイコパスみたい、笑い過ぎだよ。そして人の言うこと聞こうとし過ぎだよ、お前は」って冗談半分で勘九郎さんに言われました(笑)。

ぴあニュースから引用

このシーン、仕上がりはとっても悲しくて美しくなっているのに、このインタビューを読んでから三回目を観たので、ふと思い出して「このエピソードのとき鶴松さんどんなふうに笑ってたのかな」と思ったらちょっと笑っちゃいました。いかんいかん。

「目指すは水晶の玉のような勘三郎さんのお光」

バイラのインタビューのタイトルになっていました。「動作ににじみ出る純朴さ、何にも染まっていない水晶の珠のような勘三郎さんのお光」かあ……どんなだったんだろう。
と、思っていたら、出家後のお光の涙を歌った義太夫の歌詞にもありました。
「浮かぶ涙は水晶の玉より清き」
こうした表現のネットワークも、複層的で豊かで素敵ですね。
義太夫の詞をじっくり聞けたのも、二回目・三回目の効用だと思います。

彌十郎さんの久作、代弁者義太夫

久松とお光の父・久作(坂東彌十郎さん)の演技も素晴らしかったです。
緊張感の高い場面でも笑いを作って観客を和ませてくれたり、ラストシーンがあれだけ泣けるのも彌十郎さんの久作があってこそ。
しかし、お芝居の中では、隣の間にお光の母親が寝ているという設定なので、久作が大声を上げて泣くわけにはいかない場面があります。そこですばらしい代弁をするのが義太夫。声を殺して耐える久作に対して、義太夫が悲痛な声をあげてその心情を歌います。ここの演出、本当に素晴らしかった。こんなにも義太夫に心を動かされたことは、恥ずかしながらこれまでありませんでした。

緊張感が高いシーンでも笑いで和ませる

お光の出家後、お染が「こうなったのもすべて私のせい」と剃刀を首にあてようとするシーンがあります。次に久松がいやいや自分のせいだと自分も死のうとする。この期に及んでいちゃいちゃといやな奴らだぜ……と思う間もなく久作が、「おれからさきへ」と剃刀を奪おうとする、この一声で場がふっと和み、お芝居の緊迫感は続くのに、観客は笑ってしまいます。
また、大阪へ籠に乗って帰っていく久松を見送るシーン。駕籠担ぎの二人による、棒と足拍子の面白みのある踊りがあります。このシーンもふっと笑ってしまう。
緊張感が高いシーンが続くので、こうした息抜きはとてもありがたく、歌舞伎らしい演出です。

やっぱり珠玉のラストシーン

初回も二回目も感動したけど、やっぱり今日も素晴らしかったです!
男子三日会わざれば刮目して見よ。

見えなくなるまで久松を見送り、やがて完全に見えなくなる。

お光の気丈な口元の微笑みもいつしか消えて、

数珠をしっかり持っていた両手の力が抜けて数珠は左手にダランとなり、

鐘の音。
のどかなうぐいすの谷渡りがケキョケキョと続いて……

数珠を落とす音は今日は全くしなかった。
ほんとうにぽそっと落ちました。

それに気づいた久作、数珠を拾ってやり、ホコリを丁寧に払います。
あい、とお光に差し出しますが微動だにしないお光。

あれ、と顔を見上げる久作。
お光の表情を観て、久作はうつむいて涙をこらえるしかめつら。
もう一度お光に向き直り、数珠を握らせて、また口をへの字にこらえて、両手でぎゅっ!!
そのとき、久作に引っ張られてお光の左手がぐっと下がり身体が揺れます。
そこで初めてわれに返るお光。
ただ、まだ茫然としたまま、ゆっくりととさんに顔を向けて、眉を八の字に悲しい笑みを浮かべ、こらえて、こらえきれず……
(ここの表情、一瞬だったけど珠玉だった!素晴らしかった!水晶の玉のようなお光だった!!!)

くずおれて「ととさん…!」

きょうの「ととさん…」は三回の中で一番か細く、か弱く、小さかったです。それだけに万感の思いが凝縮されているように感じました。

それを受けた久作の「……もっともじゃ……!」も小さな声で、ようやっと絞り出したような、かみしめるような、言い回し。

いやー、やじゅパパもほんとにすごい。すごいわー……。

また、こうして書いてきて、玉三郎さんがおっしゃったという、「お芝居はぜんぶ逆算」という意味がよくわかります。鐘の音、うぐいす、数珠、ぜんぶが心を打ってくるように作られている。

三回目だというのに、涙があふれて止まりませんでした。
これはいい演目……またほかの方がやるのもぜひ見てみたいです。

散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ

多くの観客を泣かせたこのラストシーンですが、くらたの隣の席の外国のお客様はさすがに泣いていらっしゃいませんでした。言葉の問題はもちろんあると思います。イヤホンガイド英語版あるみたいだったけど、どのくらい翻訳してくれるのでしょうか。

今日の記事の冒頭で引用した『徒然草』「花は盛りに」は、このように続きます。

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。

兼好法師『徒然草』「花は盛りに」

桜が散りしおれた庭も見どころいっぱいだよとおっしゃっておられる。
この「野崎村」のラストシーンが胸を打つのも、こうした日本の美的感覚からくる部分もあるのかもしれません。

書きたいこと書ききれました!はーすっきり!
読んでくださった方、いつもながらありがとうございます!
ではでは、夜の部行ってきまーす!!

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