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【劇評・賛】 『哀れなるものたち』(ネタバレあり・後編)

もうすぐ新年度ですね!
くらたは残念ながら引き続き休職ですが、皆様どうぞご無理のなきように!

昨日は失礼しました!
なんだか急に、書くことへのモチベーションが萎えてしまい……。
そこへきて、推しのトヨタ自動車アンテロープスが今日のプレイオフ・クオーターファイナルで敗退してしまい、「なぜ高崎アリーナへ行かなかったか」と己を呪っていたらこんな時間になってしまいました。

でも書いていたら整ってきた。
ふしぎなものですね!

さて、先日に引き続き、『哀れなるものたち』の劇評です。
タイトル画、これを見て先日の絵を描いたのでした。ひどい。テリブル。

第96回アカデミー賞の、主演女優賞(エマ・ストーン)、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞、美術賞受賞!おおおお、すごいいっぱい取ってる……でも超納得。

美術・衣装

美術がとにかく素晴らしかったです。
画面に映る情報量が多く、宇多丸さんの言葉を借りれば、「作り込まれてリッチ」。

エマ・ストーン
「彼女はセクシュアリティに関しても判断力や羞恥心がまったくありません。彼女が自分の目を通して世界をどう受け止めているかがすべてであり、人々が彼女にどう反応するかより、彼女がそれにどう反応するかが重要なのです。社会的に、私たちは周りの人々が自分を好きかどうか考えてしまいますが、彼女はそのことに無関心です。演じていて楽しかったですね。ベラは精神的には幼くても、私がこれまで演じた女性の中で最も進化した人物です。」

公式パンフレット10ページから引用

「彼女が自分の目を通して世界をどう受け止めているかがすべて」であるからこそ美しさも醜さも過剰なファンタジックな世界であるのですね。

また、衣装も素晴らしかったです。
ベラは常に長い髪の毛を下ろし、どんなドレスでも必ず大きなパフスリーブ。ショートパンツの上に長い薄絹の羽織をまとっている姿も素敵でした。
宇多丸さんのラジオで聞いた話ですが、橋から飛び降りて自さつする前のベラのドレスについて、事前の打ち合わせでは背中側を撮るという話はなかったとのこと。撮影の段になって衣装担当の方が「後ろも作り込んでおいてよかったァ」と胸をなでおろしたそうです。

エマ・ストーンすごい

はー、ベラ役の女優さん、『ラ・ラ・ランド』の人なんだあ。休職前まで映画を観る習慣がなかったことや、外国の方の顔の区別が全くつかないので、ぜんぜんわからなかった。外国の方の顔の区別がつかないために、『ボーはおそれている』のとある伏線回収が全く理解できないという残念な結果になりました。「まったく理解できないというのはこういうことか!」と教えてくれた『ボー』についても書きたい……書きたい気持ちはあるのだ。

閑話休題。
とことん「ベラ」という人物が重要なこの映画で、エマ・ストーンは全編にわたって素晴らしかったのですが、とりわけすごいなあと思ったのは「赤ちゃんの脳を移植された大人の女性」を見事に演じきっていたこと。ものがわかっているときとそうでないときが、目だけで伝わってくるのすごい。

また、露骨な性描写など、体当たりの演技も評価されています。物語前半では、大人の身体をもった幼児、というリアリティがありました。彼女が「熱烈ジャンプ」と呼んでいるように、セックスをスポーツやエンターテインメントのようにとらえている様子で、官能性は表現されません。
一方、物語後半では、ベラが相手との関係性の大切さを認識している姿が描かれます。自ら選んで働いたパリの娼館でベラが、行為の前に客と有機的に対話をしようと工夫する場面があります。ライムスター宇多丸さんの奥さんはこのシーンを何度見ても泣いてしまうそうです。ちょっとわかる。

ベラについて

家の中に閉じ込められてぎこちなく歩きまわっていた赤ちゃんの状態から、パトロンのおじさんダンカン(マーク・ラファロ)につれられて外の世界に飛び出します。
経験と自由に飢えていたベラは、性欲の赴くままにセックスをしたり、おいしいからとエッグタルトを吐くまで食べたり、魚の泳ぐ水槽に見とれたり、美しい歌声に心を奪われたかと思うと、路地裏で暴力を見てすぐに真似をして、レストランで泣いている赤ちゃんに「うるさいからパンチしてくる」とこぶしを握って向かって行ったりする。おそろしや。暴力を取り入れる速さとか、おそろしいけどとてもわかりみが深い。彼女自身が危険性をはらみながらも、興味のあるものに自由に飛び込んでいく。

くらたが大好きな漫画『よつばと!』でも、初めて宅配ピザを食べたよつばがピザを食べ過ぎて吐くシーンがあります。

『よつばと』11巻第71話から引用

経験と自由に飢えている、というのはとても身に覚えのある状態でした。以前にも引用しましたが、再掲。

ギフテッドの子供が興味のあるものを目の前にした時の例えを角谷教授がしてくれた。
「空腹で倒れそうな時に、目の前にクッキーが現れて、それをむさぼるようなもの」なのだという。私は、それほど強烈な好奇心が生まれたことはなかったが、自分ではコントロールが容易でないほどの感情なんだと想像した。

『ギフテッドの光と影』(阿部朋美・伊藤和行著/朝日新聞出版)

休職前は、仕事だけでへとへとになり、仕事以外の刺激や自由に飢えていた。休職直前や休職後の過活動状態と寝込む状態の行き来はまさにこのベラの、「エッグタルト食べ過ぎて吐く」みたいなことだったように思います。

老いた女性のロールモデル マーサ

船の上でベラが出会う老婦人、マーサ(ハンナ・シグラ)。
「生活の中にセックスはあるのか」というぶしつけなベラの質問にも、「より面白いものを知っているの」と知的に微笑んで答えます。
マーサから本を読む楽しさを学んだベラは、ダンカンには興味を示さなくなります。この際に読んでいた本をダンカンに投げ捨てらてしまうのですが、『美女と野獣』のベルとガストンのシーンでこんなのあったなと思いました。ステレオタイプな滑稽みが笑えるシーンです。

「女性の身体の解放=売春」という単純構図への違和感

寄港したアレクサンドリアでマーサの同伴の黒人青年ハリー(ジェロッド・カーマイケル)に連れられて貧困層の悲惨な窮状を目の当たりにしたベラ。このシーンで口元を血だらけにするベラの姿が映されますが、これはショックのあまりハリーの手を噛んでしまったためにハリーから流れた血。ベラに関わった男性は痛い目を見なければ帰してもらえないのでしょうか。
ダンカンの有り金をすべてその貧困層のために寄付してしまい、船賃が払えなくなってパリで降ろされ、一文無しになります。

ベラは、自らの意思で娼館で働きます。
物語上のこの姿にはとくに違和はありません。
ただ、このエピソードに絡んで語られる「女性が自分の身体の決定権を持つ」こと、「それまで父親のものであり夫のものであった女性の身体を、女性自身に取り戻す」こと、この考え方がフェミニズムの嚆矢となったことはむべなるかなと思いますが、ただちにそれを売春につなげることにくらたは疑問を持ちます。くらたはこの件については内田樹先生の論を支持したい。

身体は「脳の道具」として徹底的に政治的に利用されるべきであるとするのは、私たちの社会に伏流するイデオロギーであり、私はそのイデオロギーが「嫌い」である。
身体には固有の尊厳があると私は考えている。

『街場の成熟論』(内田樹/文藝春秋)247ページから引用

何度も書きますが、この物語上、ベラが娼館で働くことを決定することに違和感はありません。

「社会主義」に回収されていく

パリの娼館での黒人の友人トワネット(スージー・ベンバ)の影響を受け、ベラは社会主義に身を投じていきます。

その姿は好感をもって見ることができますが、この筋からくらたが感じたことは、「結局、ベラにとっては未知のことであっても、一個の人間が経験しうることなどはたいてい人類にとっては既知の事象なのだ」ということ。これは、くらたが「適応障害」の診断を受けて「休職」した一連の出来事や、生きづらさを「WAIS-IV」や「MBTI」で説明されたときの実感に近いものでした。

なぜベラの姿を好感を持って見られるかと言えば、すでに社会にあるオプションを選んで社会にコミットしていくベラの姿から、「社会はコミットする価値がある」と背中を押してもらっているような気がしたから。
元夫・ブレシントンにあんな報復をしてしまうラストには賛否両論ありますが、冒頭で死体をぐちゃぐちゃにしていたベラが、「死ぬのは見たくない」と言うようになった成長をわかりやすく示すシーンだし(そんなのなくても成長はわかるけど)、まあ、その滑稽さも含めて、いいんじゃないかなとくらたは思います。オオカミが死ぬから子どもは安心して絵本を閉じられるのです。ベラも「哀れなるものたち」には違いなかった、ということを象徴的に哀しく滑稽に描いた、見事なラストだったと思います。

以上です!

明日・明後日はまた不定時・短文投稿になると思います!
よろしかったらまた読んでいただけたらうれしいです。

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