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【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) その1−1

出版情報

  • タイトル:シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))

  • 著者:岡田英弘

  • 出版社 ‏ : ‎ 藤原書店 (2014/5/24)

  • 単行本 ‏ : ‎ 569ページ

シナとは何か

 著者の岡田は圧倒的な漢文、満州語、モンゴル語などの読解力で東洋史家として出発し、モンゴル帝国が世界史を作ったという岡田史観に到達。ある時から中国を『中国』と呼ぶことをやめた。それが本書の題名シナ(チャイナ)とは何かにも表れている。研究を深める中で「中国4000年の歴史」と言う欺瞞に加担する行為であると気づいたためである(詳しくは本書読書感想の予告をご参照ください)。
 そこで、本記事でも、岡田を踏襲して近代中国成立以前の大陸をシナと呼ぶことにする。

 岡田は、シナとは城壁都市の成立、漢字という表音文字によるコミュニケーションの成立、複数の城壁都市を支配する皇帝の存在によって定義され、シナの歴史始皇帝(前221年)による統一から始まるという。そして、「秦の始皇帝の統一がつくり出したシナの本質は、皇帝が所有する城郭都市の商業ネットワークで、それを経営するために、皇帝は多数の官僚を必要とした」p407。出身地が違い異なる言語を話す官僚同士のコミュニケーションは書き言葉であり表意文字である漢字によってなされていた、というわけだ。

 また、岡田によれば「中華民族」という概念が発生したのは、日清戦争で清が日本に敗れてからであって、それまでは現在「漢族」と呼ばれている人々のあいだでさえ、同一民族としての連帯感は存在していなかった。そうした「血」や「言語」のアイデンティティの代わりに存在したのは、漢字という表意文字が通じる範囲であって、それがシナ文明圏であり、そこに参加する人々が漢人であったと述べているp 22。

 岡田はシナ文明発祥の地、古代中原(洛陽盆地)は住みづらい湿地帯で、いわば空白地帯であったとし、そこに四方から夷狄戎蛮いてきじゅうばんが次々に住み着いて古代国家を形成していったと述べている。そして漢人と呼ばれる人々は、先に帝国の商業ネットワークに組み入れられた人々であり、極端な人口減少によって2回ほど民族ごと入れ替わっている、と。

 シナ文明圏を論じる上では、然程さほど左様さように重要な漢字について、東洋・モンゴル・満州の第一人者である岡田の説を本書に沿って見ていこう(私自身はシナ語はまったくできないことをご了承ください)。

 当初の予定では、漢字についてを本記事のみで完結させる予定であったが、長くなったので、本記事を「漢語の起源から科挙まで」とし、以降「漢人の精神世界」と「日本文明圏に入ったシナ」を執筆する予定である。基本的に自分自身の考え方や情報を整理のために書いているので、読みづらい点に関してはご了承ください。あるいはご意見いただければ幸いです。また以降の記事を執筆したことで本稿に手直しが入る可能性があることをご了承ください。
 本記事の先行記事となる【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) 予告編を読んだnoter梶文彦さんが、本書を入り口に中国文化の特異性についての記事(マガジン)を先に書いておられる。実体験に裏打ちされた読みやすい記事なので、よかったらそちらもお読みください。


シナとは偉大なる『書き言葉=漢字』文明圏

 「シナとは偉大なる『書き言葉=漢字』文明圏」と聞けば、「いや何いってるの?当たり前でしょ?」と思うかもしれない。だが、その実態は、日本人がほんのり想像しているものとは、まったく異なっている、としたら?

  1. 漢語は誰にとっても外国語。ついこの間まで漢人同士でも筆談は普通だった。現代の普通語プートンホワも話すのは教師とアナウンサーと外国人だけ。北京語でも漢字に直せない話し言葉がある。

  2. 自国民同士でも、6〜7割話が通じれば上等

  3. 昔は四書五経が漢字の暗号表で、現在は毛沢東選集に取って代わった?いや習近平読本に?

  4. 日本は漢字のおかげで識字率ほぼ100%、では現代中国は?

  5. 現代中国語の7割は日本語由来?(だって中華人民共和国の中の人民共和国も日本語由来(欧米語の翻訳語))

  6. 現代中国は日本文明圏に入った

  7. 書き言葉による意思疎通しかできないと、情感が発達しない

 岡田は広範な知識を用いながら、少しずつ、理解が進むように章や項目を重ね、進めていく。

 本記事では、2200年前に秦の始皇帝が漢字について決めたことが以降のシナの文明の方向性を決定づけたこと、それがどのようなものだったのか、漢語の起源から科挙までを本書に沿って見ていく。

漢字とは何か

改めてシナとは何か

 では改めて、岡田のシナの定義と漢字の役割を見てみよう。


 シナとは城壁都市漢字という表音文字、複数の城壁都市を支配する皇帝の存在によって定義される。シナの歴史始皇帝(前221年)による統一から始まるシナの本質は、皇帝が所有する城郭都市の商業ネットワークである。この商業ネットワーク=帝国を経営するために、皇帝は多数の官僚を必要とした。出身地が違い異なる言語を話す官僚同士のコミュニケーションは書き言葉であり表意文字である漢字によってなされた。


 秦の始皇帝によってシナの歴史が始まるという。そしてこの時にシナにおける「漢字」も、その性質が決まったのだ。では、始皇帝はどのように漢字の使い方を決めたのか?

ヨーロッパのような集合体:シナ、中国

 秦の始皇帝より以前の漢字は、どのようなものだったのか。

 漢語とふつう呼ばれているものは、じつは多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽いかぶさっているにすぎない

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))  p49

 これは現代の中国語でもまったく事情は変わっていないようだ。

 中国の…方言については、大きく次の7つのグループに分けられます。
  北方方言、呉方言、しょう方言、かん方言、客家はっか方言、えつ方言、びん方言
…方言間では、語彙や文法の面に加えて、とりわけ音声の面での差異が甚だしく、コミュニケーションに障害が生じてしまうため、民族や方言の壁を超えて、1つの国の中で互いに通じる共通の言語が必要になります。

NHK出版 これならわかる 中国語文法: 入門から上級まで p12

 下図は秦帝国と現代中国方言地図を比較したものである。秦帝国の頃は入っていなかった地域は、以降の時代で覇権をとった人々が住んでいた場所であるか、秦以降に勃興した帝国の拡大にともなって組み入れられた場所である。

秦帝国と現代中国方言の地図の比較
秦 wiki Original uploader was Kallgan at zh.wikipedia CC 表示-継承 3.0
YING中国語スクール・会話教室  中国の七大方言より

 中国通のnoterさんの中には、中国は実はヨーロッパのような集合体」で中国という国の中にさらに「色々な「国」があり、その国毎に「言語」が存在するということだ。日本で言えば江戸時代の「藩」を思い出して頂けると理解しやすいかと」Kenny@上海(片山健一)さん)と表現している人もいる(太字は本記事報告者による)。

 「漢語…は、じつは多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽いかぶさっている」、そしてその漢語は、基本的には書き言葉、なのだ。そして語彙が共通のテキスト(その時代によって違うが長らく四書五経であった)から来ているため、一見すると同じ言語の方言であるかのように見えるが、そもそもが系統が違う言語が寄せ集まっているにすぎないのだ。

漢語の起源

 岡田によると、漢字の原型らしきものは、長江流域に住んでいた夏人が河川をさかのぼって華北にもたらしたという。史書に記されたシナ最古の王朝だ(前2070年-前1600年ごろ。夏人の言語はタイ系であったであろうと岡田は推測しているp49-p50。南の方から船で長江から黄河デルタつまり空白の中原にやってきて洛陽盆地に都を築いた。その頃の黄河デルタは基本的には住みづらい空白地帯であり、さまざまな民族がやってきては交易などをし、都を開き、商業ネットワークを築いていった。夏人の操る「漢字」は多言語多民族が入り乱れる洛陽盆地で「文字専用」の人工的な言語雅言がげんを作り出したp447-p448。
 では「雅言」はどんな言葉だったのだろうか?

「雅言」は、性・数・格も時称もないピジン(pidgin)風の言語の様相を呈するが、これは夏人の言語をベースにして、多くの言語、てきじゅうのアルタイ系チベット・ビルマ系言語が影響して成立した古代都市の共通言語、マーケット・ランゲージ(market language)の特徴を残したものと考えられる。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)). p448

 つまり、秦の始皇帝より前に、性・数・格も時称もないピジン風のマーケットランゲージがあったのだ、と。それは、その当時は紙はなかったかもしれないが、竹や木片などに、木炭や、もしかしたら墨などで書かれたものだったかもしれない。何をいくつ、いつまでに、いくらの値段で、誰を通して、などを書きつけ、交易を助けたのだろう。
 それぞれの民族、部族の人々は、自分たちの話し言葉で漢字を読み、自分たちの日常生活の何かと結びつけていたのだろう。もしかしたら、現在の日本語のように一つの漢字に複数の読みをあてていた人々もいたかもしれない

始皇帝が漢字の運命を決めた:概要

 秦の始皇帝は、漢字の性格を変え、漢字文化の運命を決定した。新しい統一を維持するには、共通のコミュニケーションの手段が必要である。その目的で漢字の字体と使用法の統一が実施された。始皇帝は紀元前219年、山東省…に行幸して、ここに石碑を立てて自分の事業を記録したが、その銘文の一節に「書の文字を同じくす」と言っている。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)). p403

さらに、

この文字の統一のために、公定の手引書が作られた。…これらの書物は、みな四字を一句とする韻文で書かれた教科書で、これを暗誦することによって、各字の読み方を覚えるようになっていた。…秦の始皇帝が公認した漢字は、全部で3300字だったことがわかる。言い換えれば、この3300字以外の感じは、正規の文字ではないとして、公的なコミュニケーションから排除されたのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)). p403-p404


始皇帝が漢字の運命を決めた:詳細

 漢字の起源の項目で述べた由来の漢字や雅言。その後、中原に現れた王朝、の人々も親しんでいった。すみは殷の時にできたものらしいので、この頃には墨での書き付けも行っていたことだろう。
 秦は夏などよりずっと広大だ。面でとっているのではなくて、都市同士を結ぶネットワークでの支配ではあるが。そういう多地域、多民族を束ねるために始皇帝はずいぶんと思い切った決断をした。

  • 漢字の使用を、一字一音、一音節に限定した

のである。これを実現したのが、先に述べた公定の手引書である。これを暗誦することによって、それまでいろいろな書き方があった自体が統一され、各字の読み方が統一されたばかりでなく、字数も3300に制限されたp405-p406。それまでは、地域によって、話し言葉はかなり違っていた。現在だって広東語と北京語はかなり異なる、と言われている。まして地方にいけば、現在でさえ隣村ではもう、言葉が通じない、というp422。
 以来2200年以上、漢字の使用は一字一音、一音節が守られている。現代の中国語に至っても

 漢字の読み音が一字一音、一音節に限られた結果、読み音は意味のある言葉ではなくなって、その字の名前…になった。言い換えれば、読み音は、漢字の意味ではなくてそれを聴いて記憶から漢字の形を呼び出すための手がかり…になった。ここで文字と言葉の決定的な乖離が起こったわけである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p406

 漢字の読みが一字一音、一音節に限られ、話し言葉との乖離が起きた古代シナ語。なぜ、そんなことをしたのか、というと…。

文字を操る技術者集団=儒家じゅか

 始皇帝が秦という帝国を成立させる以前は500年にも及ぶ戦乱期=春秋戦国時代だった。みな平和な世の中を求めながら、ちょっとしたことで争いが起きてしまう時代。夏人のもたらした漢字は、簡単な商業的なやり取りに使用するだけではなく、古の教えを伝える経典や外交文書にまで使われるようになっていった。だが、当時漢字は読み方や用法がまちまちだったであろうことは容易に想像できる(何しろヨーロッパのように国同士の集合体なのだ)(岡田によれば、それぞれ民族も言語も違うのだという)。さらに漢字には放っておくとどんどん数が増えていく、という性質がある(容易に新しい漢字を作りやすい)。表意文字で一字での「意味」は同じだったとしても、組み合わせ次第で、どうとでも意味がとれる文章が作れてしまう。それが外交文書に使われ、意味が取り違えられれば国同士一発触発などということになりかねないp454。
 そこで目をつけられたのが、儒家である。

儒家は…『詩経』『春秋』『易経』といった古典を神聖視し、その読み方を厳密に定めていた。だから、どの出身地の人間であろうと、儒家同士では手紙のやりとりも非常にスムーズにいった。
 その儒家集団の特性を利用したのが、戦国時代の諸国であった。つまり、儒家が書いた文章をやりとりすれば、外交文書の行き違いが起きない。そこで、諸国は競って儒家を雇い入れたのである。だから、戦国時代において儒家は、倫理道徳を説く人材というより、むしろ文書作成の技術者だと認識されていたのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p455

ええ〜。そうなのか。教えがすばらしいから、みなが競って雇ったのだとばかり思っていた。教えに従って国の運営をして少しでも国を繁栄させ、争いにも勝とうとしていたのかと。

 そのことは、儒家が対立関係にある国に派遣されていたこと一つを見ても明らかである。また、孔子自身を含め、儒家に一国の宰相になった人がいないという事実は、彼らがあくまでも文書作りのエキスパートと見られていたことと、おおいに関係がある。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p455

なるほど。秦の始皇帝は、多民族、多言語国家である巨大な帝国を運営するためには、書き言葉の統一を図る必要があった(話し言葉の統一は最初はなから諦めざるを得なかっただろう)。

 秦の始皇帝が文字の統一と固定化を考えた原点には、おそらくこの儒教集団の活躍があったに違いない。儒家が行っているように、文字の書き方、読み方を統一すれば、言語の壁は無視できると始皇帝は考えたのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p455

 書き言葉の統一というアイディアの元には儒家の活躍があったのだろうと、岡田は推測している。

漢字における古典の意義

 岡田は漢字について、次のように述べる。

漢字には名詞の数や格、動詞の態や時称を言い分ける方法がない。いや、それどころか、品詞の区別がもともとない。漢字で綴った漢文を外国語に訳すと、同じ漢字を名詞にも、動詞にも、形容詞にも訳せる。品詞の区別がないとすると、文章のなかに、最初に主語の名詞が来て、次に動詞が来て、動詞のあとに目的語の形容詞や名詞がくるといったような、一定の語順というものがないことになる。つまり、漢文には文法がない

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p407

この、文法がない、ということが私にはどうにも理解できそうもない。だが、実際に現在形と過去形と未来系の区別がなく、文脈や日付などで判断するしか、ないらしい。ある台湾人女性は日本語を学ぶにあたって「受動態」を理解したり覚えるのに苦労した、と述べていた(YouTube番組)(ちなみにその女性の日本語は完璧と言っていいほどだった。当該番組が探せなかったので別動画だけどすごい日本語力の彼女たち)。

文法がないのにどうやって解読できるのか、というと欧米の言語学者が「漢文は、読む前に全体の意味がわかっていなければ、一つひとつの漢字の意味もわからない」と指摘している。解読の手がかりは、膨大な量の古典の暗誦である。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p407

 漢文には文法がない。そして語の用法を決めるのは、「先人がその語をどのように使ったのか」、つまり古典を参照することになる。
 儒家が参照するのは『詩経』『春秋』『易経』などである(四書五経などとして整えられるのはさらに後のことになる)。秦の始皇帝は、この古典についてさまざまなバージョンが市井に出回っていることを嫌った。

始皇帝の「焚書」の意味

 私たちは歴史で焚書坑儒ふんしょこうじゅひとくくりで教わっている。だが、岡田によるとこれは焚書ふんしょ坑儒こうじゅに分けられるという。
 焚書について岡田は、漢文の表記や表現を公的に統一するための手段であり、公に定めたテキストを基準に漢文を書けという意味だったと述べる。

始皇帝が書物を焼いた目的は、民間において野放図な漢字の使用行われないようにというものだった。ことに漢文作成の基本用例となるべき『詩経』や『書経しょきょう』などの民間版を追放するのが目的で、それに関係のない法律書や農書などは焚書の対象外であった。要するに焚書とは、漢文の表記や表現を公的に統一するための手段であった。つまり、公に定めたテキストを基準に漢文を書けという意味だったのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))  p456

さらに、はっきりと、説明する。

始皇帝は度量衡を統一したが、そのときに彼は古くから使われていた民間の升や定規を捨てさせている。古い基準が残っていては混乱の元だからである。焚書の発想はそれと同じで、帝国統制のための純然たる実利・実益面からの行為だったのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))  p456

 後の後漢の時代になって学派を超えた標準テキストとして「石経せっけい」という石碑を首都 洛陽の太学の門外に建てた。そこには『周易しゅうえき』『尚書しょうしょ』『魯詩しょうしょ』『儀礼ぎらい』『春秋』『公羊伝くようでん』『論語』の七経の標準テキストが刻まれたp 458。
 岡田は、「石経」の意義は現代の中国における『毛沢東選集』の意義同じだと看破する。

つまり漢字の用例集であって、これを徹底的に学習し、一字残らず暗唱できるようになって、初めて感じで書かれた文章を読みこなし、また漢字を使って文章を書くことができるようになる。それもこの七経の文体にのっとって書かなければならない。…現代の『毛沢東選集』でもこの機能は同じで、毛沢東の文体をそっくりまね、毛沢東の用語をそのまま使うことによって、やはり『毛沢東選集』を学習している人々とのあいだにコミュニケーションが成立するのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))  p458

岡田は「儒教思想とか毛沢東思想とかの内容よりも、むしろ用語と文体の方が重要なのである。いわば本音よりは建前、といったところである」と続ける。

 次に坑儒について岡田は下記のように述べている。

漢字の統一を図ったことでもわかるように、始皇帝は文書作成者としての儒家の価値を認めていた。儒家を利用することはあっても、殺す必要はない。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))  p456

岡田によれば、坑儒は儒家を相手にしたものではなく、不死の薬を求める皇帝を批判して逃走した書生二人に関する処分であった。結果的には、批判に激怒した始皇帝が数百人を検挙して生き埋めにすることになったのだがp456。
 儒家に対する恨みはないし、思想統制をするつもりもなかった。むしろ儒家を認め高く取り立て評価していた。だが自分の考えに逆らうやつは許さない、と、まあそういう人だった、ということなのだろう。

科挙が始まる:発音の統一の試み

 始皇帝は、文字数や文書を制限することで、帝国の事務処理にたる体制を整えようとした。その後人口が十分の一となり、北方民族がシナの中枢部を形成していた華北の平野部に移住してくる。これがやがて135年に及ぶ「五胡十六国の乱」の原因となり、華北は長く北方系の征服王朝に支配されることになるp459。

 随・唐が興ることでシナ史の第二期が始まる。この時期に重要な二つの事件がある。一つは、漢字の発音の標準を定めようと、601年に陸法言りくほうげんが『切韻せついん』五巻を作ったこと、もう一つは、科挙の制度が始まったことであるp460。

 漢字の読み方を一字一音一音節と定めたはいいが、民族によってはその発音をしない、できない人々もいる。その発音がないということは聞き取りも難しい。これはシナではいつの時代にも問題となった。時代によってたびたび漢音の辞書は改訂されている。現代では発音を漢字で表記することは放棄され、|拼音《ピンイン》と呼ばれるアルファベット表記が行われている。

  『切韻』音は、方言の影響を受けてどんどん劣化する。つまり自分の日常語にない音なりトーンなりは聞き取ることができず、もちろん発音することもできない。こうして、優秀であればあるほど、文字によるコミュニケーションの領域が拡大していく。そして音声による生きたコミュニケーションの能力は低下していく。「これがシナの漢字文化の恐るべき真相なのである」。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p461

 この科挙が随・唐時代から清末まで続けられることになった。必然的に『切韻』音の影響も時代とともにますます強くなり、ついにはシナのあらゆる言語が、本来は同系でないものが多いにも関わらず、同系の方言であるかのごとく見えるに至ったのである。

科挙の過酷さ

 文字を操る技術者集団=テクノクラートは、帝国の商業ネットワークを支える高級官僚となる。人工言語=漢文を操るためには、テキストを丸暗記し、丸暗記したテキストを適切に参照する能力が必要となる。こんなことができる人は人口のほんの一握りだ。そういう人々をピックアップする制度、それが科挙である。その過酷さは世界史などで習ってきた通りである。

儒教の経典を、物心つくかつかぬかの幼児の時代から、厳しい恐ろしい父親や家庭教師に鞭で打たれながら、文字どおり叩き込まれて暗唱させられ、毎日毎晩、作文や作詩に若い生命をすり減らし、県学の入学試験、省城での郷試、首都での会試、宮中での殿試という、重なる難関を一つひとつ突破しなけれならないその心理的重圧に耐えて、首尾よく階段を登りつめるのは並大抵の負担ではないが、それでも成功して役人になる少数の恵まれた者以外は、途中で挫折して家庭教師や役人の私設秘書に雇われたり、あるいは試験々々に明け暮れて、学生のまま老い朽ちたり、空費した青春を悔いながら一生を終えるものが大多数であった。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p466

 こういう報われるんだか報われないのだかわからない文字を操る人々、あるいは文字を操ることで出世しようとする人々を「読書人」と言った。

彼らがなにごとかを文字によって表現しようとすれば、儒教の経典や古人の詩文の文体に沿った表現しかできないわけである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p466


まとめ

 以上のように秦の始皇帝が漢字について一字一音一音節と限定したことから始まって、科挙まで漢字にまつわる一連の歴史を見てきた。
 漢字一字につき一音一音節と限定したことで、漢字は、日本語のような例えば動詞の「活用」はできなくなった。漢字の音は意味ではなく「その漢字の名前」程度の意義しかもたない。
 漢文には時制もなく、品詞もなく、つまり文法がない。このことは、あらかじめ何が書かれているかの理解なくして、新しい文章を作れないし、他の人の作った文章を理解することもできない、ことを意味している。そこで、用語と文体の模範を古典に求めた模範としてのテキストを固定するために、始皇帝は焚書をし、前漢の武帝は四書五経を定め後漢の時代には石経を刻み、その系譜は、現代の毛沢東選集につながるという。
 巨大な帝国は文字を読み書きできる官僚を必要とした。官僚採用試験は隋の文帝から始まった、みなのよく知る科挙である。文字を自在に読み書きするためには、標準テキストを丸暗記する必要があり、そういう人々は散々な苦労をして、読み書きを習得する。こういう文字を操ることで出世しようとする人々を「読書人」と呼んだ。
 読書人は帝国の人口の数%だろう。これは現在中国共産党員の人口比が10%程度であることと呼応するのではないだろうか?現代中国人は日本の田舎の人々がみな豊かに暮らしていることに驚くという。多分中国の田舎はもっと貧しい、ということなのだろう。彼此ひしの差はなんだろう?

 岡田は「書き言葉は人々の考え方に影響を与える」という。

 「用語と文体」。固定のテキストを「一字残らず暗唱する」まで読み込むことこそ「考え方をも固定化する」につながらないだろうか?そもそもそのようにテキストを固定し「考え方を固定化する」ような暗唱を徹底させなければ国が一つにまとまらず、国の中のコミュニケーションがままならない…こういったことを内包している…というのは踏み込みすぎ、考えすぎだろうか?秦の始皇帝が2200年前に漢字の読みを一字一音一音節に統一した時から、ある種の全体主義が運命づけられてしまったのでは…と結論づけたくなってしまうのは、私の経験がいろいろと浅いからなのだろうか?
(こんなふうにいうのは私自身だいぶ悲しい。今後考えが深まれば書き換える可能性が高いです)(一方で率直な自分の意見であることも本当だ)(ま、そういう途中経過、ということです)。



引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。

おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。

本書『シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))』

『皇帝たちの中国 始皇帝から習近平まで』
お手頃価格で、お手頃サイズだが、私はあまり面白いと思わなかった。あまりにダイジェストすぎる。本書ですら、読んでみればダイジェストのように感じてしまう。どれだけ深いんだ、岡田史観…。

本書と重なっているところもあるが、弟子であり妻の宮脇淳子らが加筆しているようだ。


弟子で妻の宮脇淳子氏はモンゴル研究の専門家。結構YouTube番組に出演している。検索すれば、他にもたくさんある。面白く視聴できるものばかりである。オススメします。

中国で小学生が読めるようになる漢字の数

https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/51-4_02-02.pdf

引用させていただいたnoterさんたちの記事


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