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愛はイビツでも愛


人と話すことが得意ではなかった私は、作文しか褒められなかった。


先生が、あのねノートを毎日の宿題にした。「先生あのね、」から書き出すそのノートの中で、私は書きたいことすべてを書くことを許されていた。
母は、心配性な私に、なんでもあのねノートに書けばいいと言った。


「先生あのね、今日、教室にあったセロハンテープに、『図工室』と書かれていました。これは、図工室のものですよね?戻さないのですか?」
まさに話せば5秒で済むようなことを、私はメモ帳に書き留めて家に持ち帰ってはあのねノートに書くという奇妙な子だった。


しかし作文も徐々に比喩を用いるようになった。

「今日は、プールでとても寒かった。みんなが、亀みたいに、丸まって毛布にくるまっていた」
「校長先生の髪の毛がスパゲティーみたいにもじゃもじゃだった」

先生はそれを気に入った。


先生が、初めて、段落について教えてくれた授業を、今も覚えている。段落とは、なんて便利なものだろう。
段落さえあれば、とりとめのないだらだらとした内容をまとめて、うまくごまかすことができる。段落とは魔法だ。

私は、文章を書くのがなおさらたのしく、人とのコミュニケーションをおろそかにし、通知表には「内向的」という文字が並んだ。


小学校も高学年になると、ついに人と話すことの楽しさを覚えた。
だんだんと、プライドのようなものが、芽生え、またそれを捨てて人とお喋りすることが大切なことだと理解し始めた。


そんな時に作文が市のコンクールで発表されることになった。学校で1人か2人くらいしか選ばれない名誉なことだった。タイトルは、「自分ひとりなら」というものだった。


自分ひとりならいいだろう、とルールを逸脱する者について、それはよくない、と小学生ならではの正義感たっぷりの文章が、
そういういい子ぶった言葉たちがが、社会から受け入れられた。


あのねノートにこさえてきたユーモアたっぷりの文章が表彰されることはないのに、こういう生意気な文章が選ばれることに皮肉を覚えたが、
模範的生徒でありながらほとんど賞をもらわなかった学校生活の中で、そのささやかな評価にルンルンとし、いざ市民会館で作文を読み上げる日を待ちわびることとなった。


先生は、この作文に、もし付け足すことや、直すところがあったら、いついつまでに持ってきてといって、作文を返却し、私は持ち帰って、
小説家さながらに推敲しようと思っていた。




その作業にとりかかろうとしたある日、家に帰ってみると、机に置いておいた作文が、ほぼすべて書き換わっていた。


作文は、元の文章よりも、ずっと素晴らしいものになっていた。
私は青ざめたか、白くなったのか、そのどっちもだっただろうか、
ひどく落胆し、しかし何が起こったのかすぐに感づいた。



すぐそばで母は、私のためにすべての文章を整え終わって満足そうな顔をしていた。


コピーはなかった。


数日後、口の中がカラカラになるほど緊張しながら、
私はその作文を、大勢のお客さんのいるホールで読み上げた。
これは私の文章ではありませんという真実を腹の中に抱えて。




私の母は、昔から優しくて、おもしろい。
しかし過保護でお節介だ。
私は書き換わった作文を前に、泣いてしまった。
その整った作文のあまりの出来栄えに、湧くべき怒りが湧いてこなかった。
母が私のために一生懸命考えてくれた作文を、
私は早起きして作ってくれたお弁当のごとく受け取ることしかできなかった。



その後、そんな幼少期をすごした私が迎える闇や反抗期というのはなかなか味のあるものに仕上がった。


母は今も、私を愛している。しかし人の愛は、どの場合においても、
まるっと綺麗なモノではない。



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