まや川さんの「カール・ロジャーズについて:『中核三条件』とその限界」からのとりあえずの自由連想

とりあえず、まや川さんの意図をはみ出すかもしれないことを、思い付くまま自由連想的に書いておきます。

私がキリスト教で一番重視したい概念は #passion です。 #受難 あるいは #受苦 と訳せるし #受け身 とも訳せるし、更に日本人だと #情熱 と訳すのがカタカナ英語的に好みなわけですが、これは、デカルトにおいては「#情念」という重要概念になります。

デカルトにおいては、「#情念」とは主体的なものではなく、「向こうからやってくるもの」であり、あくまでも受け身的に体験するものどいうことだったと思います。

そして、最近流行の #compassion セラピーは、キリストの十字架の苦しみを自分の苦しみであるかのように体験する、ということであり、痛みの共有(しかも身体次元での)を重視する、というのが私なりの理解です。

相手に「理解」されるということは、実は本質的に「侵襲」であり、精神的レイプとしての側面を持つと思います。

相手が理解してもらいたい以上のラインに土足で踏み込むべきではないのですね。

相手に「理解」されたと感じた途端に、実は「相手に理解されたい自己」が前面に発動し、その陰に隠されたかたちで「ほんとうに言いたいこと(となるであろう身体的な漠然とした感じ=フェルトセンス)」は「解離」されてしまいます。

こうして、「日本的」ロージェリアンの癒し癒され空間のお花畑が生じますが、実は肝心のことを言えない空間となります。

当然そこから疎外され、はじき出される人たちを生むことになります。

#佐治守男 先生(と #村瀬嘉代子 先生)だけが情け容赦なく本音を言ってくれた。 そういう意味では、「日本教徒ロジャーズ派(#イザヤ・ベンダサン   ふうにいえば)」の空気は私は大嫌いでした。 こいつら人間性人間性といいながら生身の人間じゃねえ。 この「世の中」を生きてはいない・・と。

佐治先生は、私に、グサグサ痛いところをついてくる先生でした。佐治先生(日精研で私の上司だったわけですが)に言われたことで一番感謝しているのは、佐治先生には私個人の具体的状況は全く伝えたことがなかったのに、

「お前バイトしたことないだろ」

と言って下さったことに尽きます。

これが最近の私の「カウンセラーより一般社会人の方が偉い」論の原点です。

ロジャーズは、最終的には自己一致と純粋性(purenessではなくてgenuinnessである点が重要)一本になったというのが私の理解ですが、自己一致とは自分の中に生じてくる漠然とした言葉にならない違和感を認め(ackowledge)、相手に語られなくていいから保持できることがベースラインと思います。

これは、ある意味で、相手の言うことや態度から生じる「傷つき」に耐え忍ぶという側面を持ちますが、これを治療者が自分の中で「自覚的に」holdingできていれば、クライエントさんは、「ほんとうに感じて『いた』こと」を自然と語り始めると思います。

結局、治療者は傷を負ったままの孤独にどこまでも耐え続けるしかなく「わかりあえる喜び」から疎外された人生を送る覚悟が必要だと思います。

で、まあ、その孤独を癒してくれるのは、神様という自分を超えた存在が自分を導いてくれていることを「信じる」しかない。

・・・以上が、私の臨床の「すべて」ですね。

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