カール・ロジャーズについて:「中核三条件」とその限界

カール・ロジャーズは心理療法の発展において、重要な貢献をした人物の一人であることは、疑う余地がないであろう。彼の創始した来談者中心療法は、のちに人間性中心療法としてその分野を確立し、現在もカウンセリングの基本的な態度として広く受け入れられている。

しかしながら、あまりにも基本的なものとされるがあまり、ロジャーズの原典を読むことなく教科書的な知識で素通りされてしまっていることも珍しくない。またロジャーズがその治療において前提とした人間観はかなり特徴的であるにもかかわらず、そのことを鑑みられる機会もそれほど多くないように感じる。

個人的には、ロジャーズのこうした特徴に対して無自覚であることは、カウンセリングの結果傷ついてしまう人たちを作り出すことにつながってしまうのではないかと感じる。とりわけロジャーズの理論が、臨床心理士・公認心理師といった有資格者だけでなく、民間のカウンセラーも含んでインパクトを与えているものであるが故に、である。これは、もしかしたらとりわけトラウマを負った人たちの臨床現場においてより顕著であるかもしれない。

そこで本論では、そうしたロジャーズのアイデアや人間観を振り返り、そこからその特徴と限界について考察することとする。

ロジャーズの人間観と治療論

ロジャーズの生涯

まず、ロジャーズの生涯について簡単に振り返る。

カール・ロジャーズは1902年にシカゴ郊外で保守的なクリスチャンホームに生まれた。高校卒業後、最初はウィスコンシン大学に農学を学ぶために進学している。その後にキリスト教の研究や伝道をライフワークにしようとし、1924年にユニオン神学校に入学。そこで自由主義神学を学んだが、そこで心理学に出会うことになった。そのため1926年秋にコロンビア大学に移り、本格的に心理学を専攻し、心理学者・心理療法家としてのキャリアをスタートしている。

1942年に最初の主著である『カウンセリングと心理療法』を出版。その中で示した 「非指示的療法」の概念は、大きなインパクトを与えることになった。シカゴ大学に移った後、大量の資金を得たロジャーズは大規模なカウンセリングの実証実験を行い、そしてその研究の結果が1954年に『サイコセラピーとパーソナリティの変化』として公刊された。また1957年に最も重要な彼の論文の一つである、それまでの彼の理論をまとめた「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」を発表している。

その後はウィスコンシンでの統合失調症の研究を経て、カルフォルニアでのエンカウンター・グループの実践と研究に没頭することになった。その後は平和や反戦に関するメッセージについての発信も行い、そして1987年に85歳でその生涯を閉じている(佐治・飯長,2011)。

ラディカルに楽観的な人間観

では、ロジャーズが実際にどのようなことを述べ、考え、理論化していったのかを見ていきたい。

ロジャーズの言説を読み取る上で理解する必要があるのが、そのラディカルに楽観的な人間観である。『ロジャーズ選集』の下巻には、編集者によってロジャーズは 「多くの批判者が述べているところよりももっと楽観的な立場」なのであると述べられている(ロジャーズ,2000)。ロジャーズは、いたるところで彼の人間本性の善性への信頼について繰り返し、人間の本質についてこのように述べている。 

人間の基本的な本性は、それが十分に機能している時には、建設的で信頼に足りうるものであって〔……〕私たちが防衛から自分を解放できるなら、広範な環境や社会の要求、さらには自身の欲求に開かれるようになり、あらゆる反応が、肯定的、前進的、建設的であると感じられるようになる。〔……〕人の行動全体が〔……〕自らの全ての経験に対して開かれる方向に動けば、よりバランスがとれて現実的なものとなる。つまりそれは、生存に適していて高度な社会的動物の可能性を高めるような行動なのである。

カール・ロジャーズ『ロジャーズが語る自己実現の道』p177

ロジャーズは、人間本性はそれ自体では善なるものであり、それが破壊的なものとなってしまうとしたら、ただただ破壊的な環境がその本性を歪めてしまう結果として生じたものであると捉える。そのため心理療法の最大の目的は、そうした破壊的な環境を取り除くことになる。そうすれば、クライエントは自らの中に内在する善性を実現する方向へと自発的に進んでいくことになるだろう。これは「非支持性(Non-directivity)」として、全てのロジャーズの理論に含まれている要素であると指摘されている(メリー,2007)。

建設的なパーソナリティ変化と一致の概念

この内在する善性の実現というものが、ロジャーズがセラピーにおいて目指すものである。これを指して、ロジャーズは「建設的なパーソナリティ変化」と述べる。具体的には『表面的なレベルでも、もっとも深いレベルにおいても、個人のパーソナリティ構造が、統合性がより大きくなり、内面の葛藤が少なくなり、効果的な生き方に用いられるエネルギーが大きくなったと臨床家たちが一致して認めるような方向に変化すること』と『行動における変化が、一般的に未成熟とみなされる行動から、成熟したとみなされる行動へと変化すること』という定義を与えている(ロジャーズ,2001)。

このような変化に対して、ロジャーズはよく「一致」という表現を用いる。この表現は、ロジャーズにおける病因論と関係する。ロジャーズを始めとする古典的人間性心理学においては、さまざまな精神疾患の原因を「経験と自己認識の間のズレ」として捉える(田中,2010)。人間性中心療法のパーソナリティ理論は、自己を「主体としての自己、もしくは客体としての自己へと徐々に組み込んでいく経験と知覚の調和的なまとまり」と考える(メリー,2007)。自己は発達するにつれて、経験や知覚に何らかの価値付けをしながら組み込み、自己イメージを形成していく。

だがしかし、全ての経験がこのように自己に組み込んでいける訳ではない。時に、そうした自己イメージとは異なる経験に人間は晒される。その時、人間はその経験を歪めたり、その経験自体を否定することで対処しようとしてしまう。このように経験を否定したり歪めたりして、自己構造にその経験を正しく組み込まずにいる人のことを、ロジャーズらは心理的に不適応な人と呼ぶのである(メリー,2007)。

まとめるなら、経験と自己イメージの不一致によって生じた問題に対して、それらが一致することに向かうことが、解決につながる建設的なパーソナリティ変化であるとロジャーズは捉えるのである。

不一致と生きづらさ

この不一致の状態というものに対して、ロジャーズが述べる具体的な様態が、不 安である。この不一致と不安の関係について、ロジャーズはこう述べている。 

その人が、自分のなかにあるこうした不一致をうすうすと知覚するときには、ある緊張の状態が起こるが、それは不安として知られているものである。その不一致は、明白に知覚される必要はない。潜在知覚されるだけで十分である──すなわち、その脅威の中身がまったくわからない場合は、自己にとって脅威になるものだとわかればよいのである。こうした不安はセラピーのなかでしばしばみられるのであるが、それはその人が、自分の自己概念とはっきり矛盾するような経験のある要素についての気づきに接近しているときなのである。

カール・ロジャーズ『ロジャーズ選集(上)』p269-270

ロジャーズは不安を、自己イメージと経験の間のずれを知覚することによって生じるものとしている。これはいわゆるDSMで不安障害とされるような種類のものというよりも、実存的不安(ティリッヒ,1995)と呼ばれるような種類のものと近いであろう。

現代風にいうならば、これは「生きづらさ」と近いかもしれない。ロジャーズはそうした漠然と知覚される生きづらさに対して、(おそらく現在流行するHSPよりは妥当な説明を持って)それはその人が不一致の状態にあるからであると考え、その人が一致の方向へと進むのであればそれは解消していくとするのである。こうした不一致から一致の変化がクライアントに生じるということが、ロジャーズがセラピーにおいて目指すべきとした「建設的なパーソナリティの変化」であると言える。

ロジャーズの中核三条件

「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」

では、この「建設的なパーソナリティの変化」はどのような条件において生じるのか。そのことを述べたのが、ロジャーズの代表的な論文として知られる「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」である。とりわけここで述べられた、いわゆる「中核三条件」については現在も広く知られており、ロジャーズの残した最も重要な遺産と言っても過言ではないだろう。

この1957年に発表された論文の中で、ロジャーズは自身を始めとした大量の臨床データの中から、成功したセラピーにおいて生じた諸条件を「明確に定義づけられ測定できるような用語」による記述を目指した。よく誤解される点であるが、ロジャーズは科学的な実証性に大きなこだわりをもっており、それを目指すものとしてこの論文が書かれたということは注意する必要があるだろう。

この論文の中でロジャーズが主張するのは、成功するセラピーには以下の六つの条件が存在しているということである(ロジャーズ,2001)。

  1. 二人の人が心理的な接触を持っていること。 

  2. 第1の人(クライエントと呼ぶことにする)は、不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安の状態にあること。 

  3. 第2の人(セラピストと呼ぶことにする)は、その関係のなかで一致しており、統合していること。 

  4. セラピストは、クライエントに対して無条件の肯定的配慮を経験していること。 

  5. セラピストは、クライエントの内的照合枠を共感的に理解しており、この経験をクライエントに伝えようと努力していること。 

  6. セラピストの共感的理解と無条件の肯定的配慮が、最低限クライエントに伝わっていること。

ロジャーズは、この六つの条件が「一定の期間継続するならば」十分であると述べる。逆に言えば、これ以外の条件は必要ないのである。ここに、この条件のラディカルさが存在している。つまり、この六つの条件が満たされてさえいれば、どのようなクライエントに対しても、どのようなセラピーにおいても、どのような人間関係においても、専門的な知識を有してなくても、正確な診断がなされなくても、建設的なパーソナリティの変化は起こるということである。

またロジャーズは、これらの条件は「仮説/結果」という現象を扱っているのであり、どのような心理が働いているかを知るようなものではないと述べている。つまり、そこでいかなる心理メカニズムが動いていようといまいと、それが精神分析だろうと、学習理論だろうと、魔法であろうと関係なく、パーソナリティの変化は生じるとロジャーズはいうのである。これもこの論文のラディカルな主張であると言える。

さて、ここに挙げた六つの条件のうち、3・4・5の条件が「中核条件」として広く知られている(メリー,2007)。これがいわゆる「受容・共感・自己一致」と言われるものであり、カウンセリング各種の教科書・テキストで書かれているものになっている。それぞれについて、以下で少し詳しく見ていくこととしたい。

自己一致

まずは、「セラピストが関係の中で一致している」ということである。これは一般的に「自己一致」と言われるものである。セラピストは一致していること、つまり自分自身が体験することとその自己像が一致していなくてはならないということである。

少し考えてみれば、セラピーの中でこの自己一致の状態を形成し維持することがいかに困難であるか、ということに気づくことができるだろう。クライアントは他者である。そうなるとセラピーとは、セラピストにとって「他者の体験を聞かされる」という体験であるといえる。言うならば常に自己にとっての異物が投げ込まれている状態なのであり、むしろ不一致がデフォルトとなってしまうだろう。

そのためセラピーという空間で自己一致の状態を形成し維持するためには、残りの中核条件、つまり無条件の肯定的配慮と共感的理解というものが必須であると考えることができるだろう。

もう一つのポイントは、ロジャーズ自身が述べるように、ここでは『サイコセラピーにとって理想的だとみなされないようなかたちででも自己自身である』ことが求められているということである(ロジャーズ,2001)。つまり、クライエントに対して否定的な感情を抱くことを否定していないのである。否定的感情を抱いたとしたら、それが生じた時にそのままとしてその否定的感情を受け取るということが自己一致の態度である。

それはそのまま相手に対して 「私はあなたに否定的な感情を抱きます」というようなことを伝えることを意味していない。が、同時にその可能性をもロジャーズは否定しない。ここで求められているのは、自分自身への正直さなのである。

受容(無条件の肯定的配慮)

続いて「セラピストがクライエントに対して無条件の肯定的配慮を経験している」ということである。これは一般的に受容と呼ばれるものである。この受容の概念も度々誤解されるものであるので、実際にロジャーズの記述をもとに検討してみよう。

その意味は、受容についてなんの条件もついていないということである。「もしあなたがこれこれでありさえすれば、あなたが好きです」という感じをもっていないということである。〔……〕その人の「よい」、肯定的な、成熟した、信頼できる、社会的な感情の表現に対するのと同じくらいに、クライエントの「悪い」、苦痛にみちた、恐れている、防衛的な、異常な感情の表現を受容するという感じをふくむものである。彼の一致している行動と同じくらいに、彼の一致していない行動を受容することである。〔……〕それはクライエントを自分とは別個のひとりの人間として、自分自身の感情、自分自身の経験をもつことをゆるされている人間として、好きであるということである。〔……〕このことが、パーソナリティ変化が起こるのに必要だと仮定された受容の条件なのである。

カール・ロジャーズ『ロジャーズ選集(上)』p272-273

まずポイントとしては、ロジャーズは決して「受容せよ」とは言っていないということである。あくまでこれは『治療的人格変化を起こすために受容するという治療者のなすべき行為についての規定ではなく、治療的人格変化があるとき、そこに存在している受容という事実の記述』なのである(岡村,1999)。度々カウンセリングマインドとして「受容すること」がテクニックであったり、あるいは理想とされる態度のようなものとして語られることがあるが、ロジャーズ本人はあくまで受容を成功したセラピーにおいて観察可能な事実としてのみ取り上げようとしているのである。

言い換えるのであれば、受容の定義だけ見るのであれば、その方法論やアプローチの仕方はさまざまなものが可能になる。ロジャーズ派の岡村(1999)によれば、単純にサポーティブな態度であるだけではなく、相手に向き合い、その破壊性をしっかりと受け止めることもまた、受容となりうるのであると述べるのである。

しかしこの後の記述をみると、ロジャーズ自身が果たしてそこまでオープンなものとして受容を捉えていたのか、やや疑問に思うことも事実である。ロジャーズは「無条件の積極的関心」の操作的定義ついて、すなわち実際に観察できる現象について、こう述べている。 

(質問紙によって)無条件の肯定的配慮をあらわす項目が、セラピストと観察者によって分類される分量だけ、そこに無条件の肯定的配慮が存在するといえるだろう。こうした項目のなかには、次のような種類の記述が含まれるであろう。──「クライエントがどんなことを言っても嫌な気持ちになりません」「クライエントについても、その話すことについても、是認したり否認したりする気持ちは起こりません。ただ受容するだけです」「私はクライエントに対して温かな気持ちをもっています。その人の可能性についても、 
その人の弱点や問題についても温かい気持ちをもっています」「クライエントの話してくれることについて判断を下そうという気はありません」「私はクライエントのことが好きです」など──。セラピストと観察者の両者が、これらの項目のような特色があるとし、その反対の性質の特賞はないと考えるその程度だけ、第四の条件がみたされているといえよう。

カール・ロジャーズ『ロジャーズ選集(上)』p273

ロジャーズが挙げるような上記のような項目を見る限り、その「受容」というのは随分限定的なものであるようなように思われる。岡村(1999)が述べる「相手に向き合い、その破壊性をしっかりと受け止める」というような受容は、ここから読み取ることは難しい。相手の中に受け容れられないものを認め、それを表明するといったような「受容」は、ロジャーズにとっては条件付きのものとして排除されてしまっているようにも読める。

なぜこうしたことは起こるのか。これはロジャーズの人間観が影響している可能性がある。すでに述べたように、ロジャーズの人間観はラディカルに楽観的である。クライアントにもセラピストにとっても、その本性は善性であり、本来性の次元においては悪が入り込む余地が存在していない。「自らの中にある、悪をやってのける力の対決(ハーマン,1999)」といったような場面は、ロジャーズにおいてはそもそも想定されていないのである。この問題はロジャーズの限界として、後に取り上げることとする。

共感

最後は「内的照合枠を共感的に理解しており、この経験をクライエントに伝えようと努力していること」ということである。これは一般的に「共感」として知られている。

まず指摘しなくてはならないのは、受容と同じくロジャーズは「共感しろ」とは書いていないということである。効果的な治療の中に、共感という現実が測定可能なものとしてあるということである。

もう一つありがちな誤解としては、共感を単に相手の感情への同調として捉えられることにある。その際にとりうる方法の一つが、相手と似た過去の自分の状況や感情を参照するというものである。この方法だとかつての自分の体験が賦活させるため、いわゆる「共感疲れ」を生むことにつながってしまう。またその共感という体験の主体が、自分なのか相手なのか、わからなくなってしまう。ともすると、そうした自分の過去を利用した共感は、相手の主体性を侵害してしまうことすらある。

しかしロジャーズが述べる共感とは、あくまで相手の内的照合枠を共感的に理解することであり、そうした種類の感情の同調とは大きく異なる。ロジャーズ(2001)は『クライエントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じとり、しかも「あたかも、のごとく」という性質をけっして失わない──これは共感なのであって、これこそセラピーの本質的なものであると思われる』と述べている。

この「クライエントの私的世界」というのが「内的照合枠」なのである。つまり相手の体験を、相手の立場に寄って、しかしあくまで他者として追体験しようという試みにおいてなされるものなのである。それは相手の感情へ同調するだけではなく、相手の認知的側面への理解と不可分に結びついたものである。

しかし同時に、それはあくまで「あたかも、のごとく」という性質を持つものなのである。つまりそこで共感される体験の主体はあくまで相手であり、自分ではないのである。だからこそ、こうした種類の共感において、セラピストは「クライエントがほとんど気づいていない自分の経験の意味を言葉にして述べる」ことができるのである(ロジャーズ,1999)。そうでなくては、それはクライアントの経験ではなく、セラピスト側の経験でしかないものとなってしまうかもしれないのである。

以上、ロジャーズの人間観と治療論を振り返り、そしてその最も重要な遺産として考えられる中核三条件について取り上げた。すでに述べたように、ロジャーズはこの中核三条はいついかなる時でも成立するようなものとして記述している。しかし、果たして実際はどうなのだろうか。ほとんどの臨床家は、ロジャーズの重要性と有用性を認識しつつも、それだけを目指す臨床は行っていないのではないだろうか。そのことについて、以下で取り上げる。

ロジャーズの限界

(ゆるふわ)ロジャーズ派とトラウマ臨床

ロジャーズの中核三条件は、大きなインパクトを与えることになった。その影響は直接的な後継にあたる人間性心理学のみならず、心理療法一般の原則となり、さらには臨床心理学を超えたジャンルにも広まっている。いわゆる一般的なカウンセリングというものの理論的にも技法的にも基礎として位置づけられているといえるだろう。いい加減な言葉を使うことを許していただければ「ゆるふわロジャーズ派」というものが跋扈しているのが、カウンセリング業界なのであるといえる。

とりわけ、筆者が主に臨床の対象としているトラウマを背景とする人たちから、こうした「ゆるふわロジャーズ派」のカウンセリングを受けた結果、意味のない時間を使ってしまったと感じたり、さらには被害を受けたとの訴えを聞くことは珍しくない。そうした被害について、インターネットに書き込むアカウントも存在している。

なぜこうしたことが起こるのか。一つは、ロジャーズの理論、そして人間性心理学が誤解されているということがある。いわゆる「傾聴型カウンセリング」は、確かにロジャーズの中核三条件を前提としているが、すでに見てきたように多分にロジャーズへの誤解を含んでいる可能性がある。現代的にアップデートされたロジャーズ派や人間性心理学においては、十分にトラウマ・ケアに活かせるものとなっている。

しかしもう一つの理由が、すでに指摘したようなロジャーズの人間観がそこには関わっているのではないか、ということである。つまりそのラディカルに楽観的な人間観を採用してしまうのであれば、トラウマを持った人の臨床が困難になってしまうのでは、という疑いである。

トラウマ臨床を行うに際して、ハーマン(1999)は『人間本性の中にある、悪をやってのける力の対決』が必要だと述べている。しかしロジャーズの人間観においては、人間本性は善であって、悪をやってのける力など存在していないのである。だからこそ、そこへの対決は不可能なものとなってしまうのである。

ロジャーズが悪の問題についてどう扱うかということについては、度々批判されてきた。その中で最も重要なものは、人間性心理学の中心人物の一人であるロロ・メイからなされたものである。まずは、メイのロジャーズへの批判の内容からそれを見ていきたい。

人間本性は善か悪か?

1981年に「ロロ・メイへの覚え書き」という短文をロジャーズが発表すると、それに対してメイは翌年「悪の問題:カール・ロジャースへの公開質問状」を公開することになる(May, 1986)。

まず問題となったのは、人間本性についてのロジャーズの捉え方である。ロジャーズは、自身が人間本性を完全に善なるものとして疑うことはないと述べた上で、メイが人間本性の中に破壊的なデモーニック(demonic)なものを含んでいると批判する。『もしわれわれが成長を促進する環境を提供できるなら、そうした選択は、完全に自由で自発的に、社会的に建設的な方向に進むことがわかるでしょう。人間本性が内在的に悪の要素を含んでいることが正しくあるようにはとても思うことができないのです』とロジャーズは述べ、この点についてメイと自分とは明確に異なっていると語るのである。

そうしたロジャーズに対し、メイは人間本性が善と悪の両義的なものであることを強調する。一方でロジャーズを含めた人間性心理学はそうした人間の悪の側面、破壊的な傾向に向き合っていないと批判し、「ヒューマニスティック・ムーブメントの最も重大な失敗であった」と述べるのである。

メイは、ミルグラム実験、スタンフォード監獄実験、そしてソンミ村の虐殺事件など、当時のアメリカを揺り動かした人間の残忍性を示す実験や事件を引き合いにだし、それらを全て環境によって引き起こされたものとすることは不可能であると述べる。こうした人間の悪を示すような出来事に対して、ロジャーズのような人間本性を完全なる善とするような理論では、現実的なアプローチをとることは出来ない。むしろヒトラーのような「高潔であるが現実離れした理想」を掲げた背後の悪に気づかず、その共犯者として絡め取られてしまうのである。

ここからメイは人間性心理学を「われわれの文化のナルシシズム」であると指摘する。メイの述べるナルシシズムとは、外的志向ではなく内的志向であり、他者を含んだ外の世界のリアリティをみることが出来ない状態を指す。ロジャーズと人間性心理学は人間本性を完全な善なるものとすることで、悪の行為を自身の外へと追い出してしまい、現実的な悪に対して対処不可能な「無実であるが無害」な人びとを作り出してしまったというのである。メイはこうした悪の問題については、人間が「悪の諸要素にも関わらず善をなすことができる」という力によって立ち向かう必要かあると述べる。人間は、悪を正面から見据えることによって、その戦いにはじめて勝利できるというのである。

素晴らし過ぎ、 他者と同一化し過ぎる

またこうした人間本性の見方は、社会的問題のみならず、セラピーにも影響を与えるものとなる。メイによれば、ロジャーズのセラピーが生じさせるパーソナリティの変容にはある限界があるという(May, 1986)。それは、ロジャーズの人間観の元では、セラピストがクライエントとそしてセラピスト自身の内部にある「怒り、敵意、破壊性」といった悪の要素に目を向けることが出来ないというのである。

人間性中心療法のセラピストは時に「素晴らし過ぎ、 他者と同一化し過ぎる(too nice, too much identifying with the other person)」ために、クライエントの「自律性」を奪ってしまう、とメイは指摘する。ここにはロジャーズの一致という概念の問題が含まれている。すなわち、もしセラピストが人間本性を完全なる善性と信じているのであれば、一致を目指すセラピストとクライアントの作業において、悪は常にその本性から遠ざけられてしまうことになる。ここでクライアントが経験するものは全くの善である。それは素晴らしいものであり、そしてそれは一致したセラピストによって同一化されるものとなる。しかしそれは、クライアントとセラピストが一致を目指すという名の下に、共謀して自身の中にある悪の問題から目を背けた結果なのではないかとメイは指摘するのである。

この問題について、メイの師であり友人でもあった神学者のパウル・ティリッヒは、ロジャーズとの対話の中で「他者に対して自由な状況を創り出してあげられるほどに自由な人とは誰でしょうか」という疑問を投げかけている(ティリッヒ・ロジャーズ,2009)。クライアントを善とすることは、セラピストの自分を善としたい心性の表れではないのか。メイとティリッヒは、共に人間存在の有限性と悪の要素を強調し、それを引き受けることの必要性を論じた人物であり(若山,2014)、そうした立場からロジャーズの過度に楽観的な人間観に対して疑問を投げかけているのである。

悲劇の意味

また、メイはロジャーズはある種の人間経験を捉えることができない、と指摘している(May,1986)。それは、メイが伝えるロジャーズの悲劇に対する態度の中に現われている。かつてロジャーズはメイに向って、「ロミオとジュリエットがもしもほんの少しでもカウンセリングを受けていたら、うまくやっていたかもしれない」と言ったという(ロジャーズ,2000)。それに対して、メイは「それは全然シェイクスピアの意図したものではない!」と返答したという(メイ,1972)。

ロジャーズの人間観では、悲劇を記述することが出来ないし、悲劇に描かれるような生を肯定出来ないし、それを受容することが出来ない。メイのいうように、ロジャーズは悲劇に書かれるような人間経験を消し去ってしまっている。実際にロジャーズは悲劇は否定的な状態であり、もはや必要なものではなく、少なくともできるだけ早い時期に取り除いてしまうべきものであると述べたという。

これに対して、メイは単に否定的な立場で悲劇を見ることは大きな誤解であり、悲劇は生命や愛を否定するどころか、人間経験を気高くし、深めてゆく面をもつものであると主張する。たしかに、悲劇は結果だけ見れば破局でしかない。ロミオとジュリエットは共に自殺し、オイディプスは失明して荒野に投げ出され、ビリー・バットは処刑された。 

しかし悲劇が真に描き出すものとは、人間の生にあるそれを超えた意味と価値の可能性である。ロジャーズのセラピーは、なるほど彼らをその結末から救うものかもしれない。しかしそれは、そうした最も深遠な人間経験と多様な生を消し去ってしまう。そこでは、人間の生はただ凡庸なものとなってしまうしかない。悲劇の中で語られる生の偉大さは、ロジャーズが目を背けたような、人間本性の中にある悪をやってのける力に抵抗するものとなるかもしれないのに。

ロジャーズの限界を超えて

以上、ロロ・メイのロジャーズの批判を手がかりに、その限界について考察した。しっかりとトラウマ臨床を経験した臨床家にとっては、メイの批判は妥当に思えるのではないか。ロジャーズは「人間本性が内在的に悪の要素を含んでいることが正しくあるようにはとても思うことができない」と述べるが、これが綺麗事にしか思えないような悲劇的次元は、確かに存在しているのである。ロジャーズを手放しで賛同することは、ハーマン(1999)が述べるように、「悪事に口をつぐんでいたいという万人に持つ欲望」に屈し、見せかけの中立性を維持することによって結局は加害者側に与することになってしまう懸念が拭えない。

この問題について、臨床家は真摯に考える必要があると思う。先に揶揄するように言及したが、「ゆるふわロジャーズ派」では人間本性の中にある悪をやってのける力に向き合うことができない。中途半端な態度で傾聴を続けていてもトラウマは改善しないし、ともすれば悪化させることにつながりかねない。きちんと人間存在と自分の限界に向き合う作業は、トラウマ臨床を行う上では避けては通れないだろう。

最後に、こうした点を踏まえてロジャーズの中核三条件について、どのように考えることができるのか。いくつかのアイデアを思いつくままに書いていきたい。

まず、ロジャーズの人間観は彼の述べた中核条件と関係なく、独立した価値があるというアイデアである。これはロジャーズの狙いが自然科学的なものであったことを踏まえるのであれば、一定の妥当性を持つものであろう。しかしすでに指摘したように、自己一致や受容といった概念は多分にセラピストの人間観が影響するようなものであると思われる。ロジャーズと異なる人間観を持つセラピストにおいてそれが成立し得るかどうかは、検討の余地は大いにあるだろう。

次に考えられるのが、中核条件はロジャーズが考えるほどに万能ではなく、その適応は限られているのではないか、ということである。日常を生きるほとんどの人は、楽観的なロジャーズの人間観に対して、概ね同意するであろう。悲劇的な状況は、そう簡単には起こらない。そうした大多数の人たちに対して適用され、またその人たちを動かすアイデアであると考えるのであれば、その価値はもちろんあるだろう。その時考えなくてはならないのは、その禁忌についてである。

最後のアイデアは、そもそもその中核条件の中に、ロジャーズの人間観が生まれる素地が含まれているのではないか、ということである。すなわち、中核条件はロジャーズのような楽観的な見方をする方に行くことを、われわれに強いているものかもしれない。そうであるならば、中核条件に対する根本的な見直しが必要になるかもしれない。

最後のアイデアは最も悲劇的なシナリオではあるが、メイやティリッヒに則るのであれば、それゆえに希望が生じるとも言える。つまりわれわれ自身が自身の中にある悪をやってのける力と対決し、その人間観を見直すことによって、もう一度中核三条件はその本来の力を取り戻すことはできるのではないか、という期待である。

ロジャーズの中核三条件のユニークさとその価値は、ありのままを受容することで変化が生じるという、逆説にこそあると思う。その価値は最も辛い状況を生きる人にこそ、希望になるものではないだろうか。

参考文献

カール・ロジャーズ(2005)ロジャーズが語る自己実現の道 諸富祥彦・保坂 亨・末武 康弘訳 岩崎学術出版社
カール・ロジャーズ(2000)ロジャーズ選集(下) 伊東博・村山正治訳 誠信書房
カール・ロジャーズ(2001)ロジャーズ選集(上) 伊東博・村山正治訳 誠信書房
May, Rollo(1986)  “The Problem of Evil: An Open Letter to Carl Rogers”, in Tom Greening(ed), Politics and Innocence: A Humanistic Debate (New York: Norton)
ロロ・メイ(1972)愛と意志 小野泰博訳 誠信書房
トニー・メリー(2007)古典的クライエントセンタード・セラピー 近田輝行・三國牧子監訳 パーソンセンタード・アプローチの最前線:PCA諸派のめざすもの所収 星雲社
佐治守夫・飯長喜一郎編(2011)ロジャーズ・クライエント中心療法:カウンセリングの核心を学ぶ 有斐閣
田中富士夫編(2010)臨床心理学概説 北樹出版
パウル・ティリッヒ、カール・ロジャーズ(2009)宗教と心理学の対話 教文館

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?