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大阪人切望の「楠木正成の大河化」

※歴史上の人物、俳優名は敬称は省いてお伝えしています。

宴たけなわの「鎌倉殿…」ストーリーは史実通りだとわかってはいても面白いですね。

おそらく執権・北条義時の代までしか描かないのでしょうが、その鎌倉幕府にも終わりはあり、次の時代が訪れます。

次の室町時代までのつなぎとも言える南北朝時代は実はとても面白いのです。

しかしその面白みに気付くのは、私も随分とあとになってからでした。

天皇家が北朝と南朝に分かれるなんて、知ろうとする前からややこし過ぎて、スルーしていたのです。
(実際には徳川幕府の幕末の方がややこしいと思う)

そんなややこしい時代に活躍したのは、我が大阪の英雄、「楠公さん」こと楠木正成まさしげです。

彼は全国的には有名ではないのかもしれません。
しかし大阪の特に年配の方々にとっては、今なお歴史を語る上でのヒーロー的存在なのです。

大河ドラマ誘致のための署名運動が、地元の大阪・河内地方を中心に、地道に行われています。


Tripdvizor「湊川神社」



カオスだからこそ南北朝時代は面白い

まずは、楠木正成の生きた時代背景を知る上で、ややこしい南北朝の基本情報からお伝えします。

・北朝 【持明院統】光明天皇----足利尊氏
・南朝 【大覚寺統】後醍醐天皇--楠木正成

「統」という字に注目していただきたいのですが、同じ「とう」でも政党などの「党」ではなく、「血統」の「とう」です。
それらの血筋を指すもので、政治的に分裂した政党ではありません。

ちなみに現在の天皇家は「北朝」です。


キーパーソンは後醍醐天皇

1336年(延元1∥建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。

出典:コトバンク

そもそも、足利尊氏が北朝の光明天皇を利用して幕府を成立させた事に対抗して、後醍醐天皇がわざわざ場所を変えて南朝を立ち上げて「建武の新政」を始めてしまいます。

さらにその原因は、彼の曽祖父にあたる後嵯峨ごさが上皇が、すでに即位していた息子の後深草ごふかくさ天皇を退位させて、弟の亀山天皇を強引に即位させたことにあります。

ちなみにこの時の我儘天皇である後嵯峨上皇は、後鳥羽上皇VS北条義時の「承久の乱」の前年に生まれています。
大河ドラマで言うと、まさにそろそろ生まれる頃で、後鳥羽上皇(尾上松也)の孫にあたるのです。

不満の残る兄・後深草ごふかくさ天皇はその次には自分の子に天皇を継がせると言いますが、当然ながら弟・亀山天皇は了承しません。

ここに天皇家の兄弟が、兄:持明院統、弟:大覚寺統の二つに分かれ、争いが勃発。

そこに仲裁に入ったのが鎌倉幕府で、
「天皇は交互にを出す」という事で決着させました。

鎌倉幕府の仲介により一件落着したのも束の間、平気でこのルールを破ったのが後醍醐天皇なのです。

そんなルールを作った鎌倉幕府なんか潰してしまえ!とばかりに倒幕し、「俺様の子孫が天皇」と勝手に謳い、足利尊氏との対立は深まり、最期までダダをこねたのですが、志し半ばで病没します。


懲りない天皇家

同じことはこれより過去にもありました。

鳥羽上皇がすでに即位していた崇徳天皇を退位させ、腹違いの弟・近衛天皇を即位させたことで朝廷内に内部抗争が起こり「保元の乱」へと発展。

味方同士だった源氏と平氏が、その時の恩賞の差に源義朝が不満を抱いて今度は敵同士となって「平治の乱」が起こり、
そしてその時に伊豆へ島流しにされたのが源氏の嫡流の頼朝でした。

やがて頼朝は蹶起して平家を滅ぼすのですが、陰には後白河法皇のどっちつかずのタヌキのような対応が、平家滅亡の原因の一つとなったのは言うまでもありません。


結局日本史を騒がせてきた要因は歴代の我儘な天皇のような気がします。
要するに自分の私利私欲で牛耳ろうとした事で争いは起こってきたのです。



楠木正成ってどんな人?

田舎豪族だが戦上手

河内の豪族であり、かつての北条氏と同じように自分の土地を守る田舎の土着武士でした。

河内守かわちのかみ」というれっきとした国司なのですが、私の勝手なイメージでは、普段は畑を耕したりする兼農武士のような感じで、いざという時には底力を発揮する「河内の大将」的な身近な殿様なのです。

1333年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒のクーデターに呼応した「千早城の戦い」は、あまりにも有名な楠木正成が挑んだ大きな戦いのひとつです。

幕府軍100万人をわずか千人の兵で退けた正成の奮闘が諸国へと伝わり、地方の豪族たちも蜂起し、討幕の機運は一気に高まるキッカケとなりました。

幕府内部からも離反者が出る結果となり、混乱して手薄になっていた鎌倉は新田義貞に攻め入られ、幕府が滅亡したのはこの「千早城の戦い」終結後からわずか12日目のことでした。



大河「太平記」では脇役

1991年の放送でしたが、私は全く観ていません。
32年も前になるのですが、私はいったい何をしてたのかと悔やむばかりですが、きっと仕事と遊びに忙しかった上、この南北朝時代にさほど興味がなかったからかもしれません。

原作は吉川英治の「私本太平記」。
主役は足利尊氏で真田広之。
そして我らが楠木正成は武田鉄矢です。

武田鉄矢はちょっと私としてはイメージが違いますが、親しみやすい雰囲気の田舎武士としての雰囲気は十二分に演じられたのでないでしょうか?

その他のキャストもいいですね。
足利家の重臣・高 師直こうのもろなおに柄本明、
尊氏の父・貞氏に緒形拳、
もう一人のスター・新田義貞に萩原健一、
キーパーソンの後醍醐天皇は片岡仁左衛門にざえもん(片岡孝夫)。

楠木正成は脇役ではありますが、見応えありそうなドラマです!



正義か忠誠か

楠木正成まさしげは、戦略家でありながら戦を嫌い、結果的には大胆な手を打つが、慎重な性格でもあるようです。

人を見る目も持ち合わせていたはずですが、それなのに、どういうわけか後醍醐天皇をひたすら尊敬し続けていました。

足利尊氏の器量や人柄、立場などはしっかり理解していたようで、敵対関係になることは避けたくて、主君である後醍醐天皇との板挟みとなっていました。

後醍醐天皇にも、尊氏と手を組むのを進言したりもしているのですが、そこは天下の我儘天皇、またここでもダダをこねて許さず、案の定、尊氏との争いに敗北となり、正成も自刃に追い込まれるのです。

後醍醐天皇さえいなければと思わずにはいられない。
絶対に日本史は変わっていたはず。

千世の勝手な独り言

人としての正義をとるか、
天皇への忠誠をとるか。

現代人の私からみれば、「そんなの正義に決まってる!」と断言できるのですが、楠木正成という人は、自分の家や正義を捨てて、我儘天皇への忠誠を取ったのが理解に苦しむところです。



着目したい「もう一つの幕末」

「幕末」といえば、誰もが連想するのが徳川幕府の末期でしょう。
確かに「明治維新」という武家政権そのものの終焉となる革命に繋がったのですから大変に面白い時期です。

しかし、この鎌倉幕府の幕末もまた面白い!
何と言っても楠木正成と新田義貞という日本史のスターが二枚看板として活躍しまくるのです。


もう一人のヒーロー

新田義貞は前回にも触れましたが、源氏の血を繋いだ八幡太郎こと源義家の血筋で、足利氏とは親戚です。

出典:源氏の身内争いが戦国時代を招いた?

大阪の地で楠木正成が幕府軍を翻弄している間に、本拠地である鎌倉をこれまた見事に攻め落とします。

仲良くしていただいているnoteでのお友達・砂川さんが新田荘跡を紀行されてその実像に迫ったレポートを投稿されています。
連載物でとても読み応えがありますので、良かったらぜひのぞいてくださいね。


そろそろ南北朝を描いてもいいのでは?

前回、この時代を描いた「太平記」からすでに32年。

今度は主役を楠木正成に変えて、彼の視点からの鎌倉幕府滅亡の物語を描いてもいい頃ではないですか?

見どころは次の通りです。

  • 一介の田舎豪族から幕府執権まで上り詰めた北条氏が滅ぶ哀れさ。

  • 後醍醐天皇の強気の政策。

  • 楠木正成が後醍醐天皇と足利尊氏との間で憂う様子。

  • 新田義貞が鎌倉を滅ぼす戦法。

  • 倒幕した楠木、新田の哀れな最期。

  • 楠木家の親子愛や兄弟愛にも注目。


あまり着目されることのない「もう一つの幕末」を丹念に描いて、不人気の南北朝時代を知るキッカケを作って欲しい。

「大河ドラマ・楠木正成」は大阪人のひとりとして実現する事を願ってやまないのです。




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※トップ画像は「みんなのフォトギャラリー」佐原 誠さんnoteより
楠木正成の家紋「菊水」

【参考文献】
Wikipedia
大河ドラマ「太平記」






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