郷土史には身近でリアルなウラの史実があった①~「あしたづ」第十号より
「あしたづ」との出会い
私の紀行サークル「レキジョークル」メンバーであるチコさんから、「あしたづ」という刊行誌を紹介され、図書館にあるよという情報を受けて借りてみました。
主に大阪府東部にあたる河内の歴史の詳細が書かれているのですが、私にとっては何もかもが興味深い歴史のひとコマが切り取られているので、夢中になってしまいました。
チコさんのお父さんは郷土史家であり、発行元である昭和59年11月発足の「河内の郷土文化サークルセンター」の一員でもあります。
同志の方々と様々な取り組みをされているようで、私たちの”なーんちゃってサークル”とは比べ物にならない専門的な深い歴史を網羅されているのです。
読んで見ると、様々な会員の寄稿記事によって成り立っていて、書く人によっては難解な語彙や知らなかった人物や事柄などが多数あって、常時スマホ検索しながらの読むという、情けない事態となりました。
あぁ。せめて電子版だったら、長押ししたらすぐに解るのに…
と思ってしまう自分に、その無知さを今更のように思い知ったのです。
その身近でリアルな史実は、あらためて歴史の奥深さを知る事となりました。
まずは最初に手に取った一冊の中から、心に残った逸話をここに記録します。
「あしたづ」とは、葦鶴と漢字表記し、歌語では鶴を「たづ」と読む。
湖の葦が群生したところにいる鶴の事。
万葉集にある大伴旅人の和歌より引用された。
|草香江《くさかえ》の 入江にあさる葦鶴の あなたづたづし 友無しにして
(草香江の入り江で餌を探す葦鶴の様子は何とも心細いものだ。 共に語り合える友もなくて)
▼楠木父子、子別れの人形
「天下分け目の大戦(おおいくさ)」と言えば、誰もが「関ヶ原の戦い」を誰もが思い浮かべることでしょう。
しかし、もっと過去にもう一つの「天下分け目の大戦」があったのです。
それは1336年に起きた「湊川の戦い」と言われる、楠木正・新田義VS足利尊氏の戦いです。現在の兵庫県神戸市中央区~兵庫区あたりが激戦地となりました。
これに尊氏は勝利し、その後15代(約230年)も続く「室町幕府」を築く事になります。
足利尊氏はメジャーでも、楠木正成はどちらかと言えばマイナーな武将と言えるかもしれません。
しかしながら、明治以降は「大楠公」と称され、昭和の戦後あたりまでは人々のお手本となり、湊川神社の主祭神となったほどの人物なのです。
終生、後醍醐天皇の忠臣として戦い抜いた姿勢は、その後の室町~戦国時代に至るまで、日本史上最高の軍事的天才として後世まで語り継がれるほどだったのです。
それ以前は、千早城、上赤坂城の戦いなどで獅子奮迅した正成は、尊氏とは味方同士として協力し合って鎌倉幕府滅亡に貢献します。
そうです。正成は元々は尊氏の能力を高く評価していて、後醍醐天皇に傘下に入れるよう進言するのですが、受け入れらなかったことが、そもそも二人が袂を分かつ原因になったのかもしれません。
もしここで後醍醐天皇が尊氏を受け入れていたら、歴史は大きく変わっていたでしょう。
自分の意見が通らかなったといって、正成の忠心は変わりません。あくまでもLOVE後醍醐のままでした。
さて、その「湊川の戦い」に出陣する際、この戦は勝ち目がないと悟っていた正成は、同行していた11歳の嫡男の正行を故郷に帰す事を決め、西国街道の桜井駅にて、今後の心構えを諭すのです。
正行は南河内方面の東へと帰り、正成は神戸方面の西へ向かって出陣しました。これが父子が正反対の方向へ進み、今生の別れとなった「桜井のわかれ」の所以です。
今でも大阪府三島郡島本町桜井1丁目には史跡公園として整備され、石碑もあります。
正成とか、正行とかややこしいですね~!
当時はその家によって、代々同じ一字を子に継承していて、楠木家は「正」なのです。
本書では、そのシーンを切り取った人形について書かれていて、残っているのは何体かあり、手に巻物を持っていたり、鉄扇を持っていたりと、それぞれ多少の違いはあるものの、正成と息子・正行が向かい合って、ちょうど諭しているシーンなのです。
私は今まで、ここまで深く楠木正成の事を掘り下げて考えた事はなく、よく考えてみたら私の地元エリアの武将にかかわらず、教科書に載っている程度の表面上の事しか知らなかった事に気づきました。
ましてや「桜井のわかれ」にともなう父子の感情など、考えた事もなく、こんはシーンがあった事すら知らなかった。
自分の家は絶やすまいと思い、嫡男を帰したのですが、その16年後の1348年「四条畷の戦い」において、正行は弟の正時と刺し違えて自刃して果てるのです。
くしくもそれは、父・正成が弟・正季と刺し違えての最期と同じものでした。
その時に兄弟で誓い合ったという言葉を残っています。
「七生滅賊」~何度生まれ変わっても、天皇のために国賊を倒す~
なんという忠誠心でしょう!!
これは現代人には皆無と言える精神思想です。
「自分」はなく、ただひたすら主君のためになんて、今の私達には理解できない。
いったい、いつまでこの精神はあったのでしょう。
幕末から維新にかけての志士たちには確かにありました。
みんな私情を捨てて日本のために命を投げうってきたし、明治から昭和にかけての戦争においても「お国のために」でした。
それを思うと、戦後の復興における急速な高度成長とともに、「個」が確立されて、「お国のために」という思想は急に衰退したようです。
楠木正成こと大楠公がお手本となっていた時期とちょうど重なっているのは、やはり世間一般の人々の方が、その精神が180度変わってしまった事によるものなのでしょう。
そんな風に思い至ると、本当の意味での日本人の精神的革命は「明治維新」ではなく、「太平洋戦争終結」だと言えるかもしれません。
▼村定めと人々の暮らし
江戸時代・享保年間より幕府の財政困難は危機的状態となり、「倹約令」が発令されました。
その衣食住全般の倹約規制の中、残された「村定め」を紐解いてみたら、当時の百姓たちの実像が見えてきました。
支配者側の領主がどのように百姓を治めようとしたか。
そして百姓はそれをどのように受け止めたか。
それらがハッキリと見えてきたのです。
かつて大阪府中河内郡に存在した日下村の森長右衛門貞靖の記録による「日下村森家庄屋日記」より、検証した事が書かれていました。
【領主側が定めた事は概ね以下の通りです】
①年貢の期限を規定。
②他領地への奉公禁止。
③衣類は絹の使用禁止。
④住居は筵敷きで、玄関や床の間、縁側を作ることは不可。
⑤休日の時期を限定し、多忙時は昼休みも禁止。
⑥三度の食事時以外はお茶を焚いてはいけない。
⑦芝居、浄瑠璃、勧進相撲、盆踊りなどの娯楽の禁止
⑧男女間での不意の懐妊においての堕胎費用は男7分女3分を負担する事。
⑨葬礼の際、輿(棺を運ぶため)の使用禁止と他所へ嫁いだものの葬儀の禁止。
⑩災害、ケガや病気などの見舞金の禁止
⑪酒の売買や飲酒の禁止。(宴会は厳禁)
⑫新規の商人の出入り禁止。
⑬賭博厳禁
えええー!!
ここまで細かく禁止されていたなんて、まるで奴隷以下の家畜のような扱いではないか?!
なんと勝手な掟でしょう。
大阪流で言うなら「アホ言うたらあかんで!」と、即ツッコミが入ります。
しかし、実際の百姓たちの対応を読んで安心しました。
他領への奉公は自領の労働力流出になるからなのでしょうが、実際には奉公に出ないと食べていけないし、従っていたら飢え死してしまうので、出奉公はしていました。
やはり生きるためには誰であろうと止められないのです。
また、襟裏や裾裏に絹を使い、密かにおしゃれを楽しみ、住居も床板を張り畳を敷いていたし、労働を労うための寄合にはお酒も出てたし、興のひとつとして賭博もしていました。
自由な商業活動も禁止というのは建前で、実際は河内で生産されていた木綿や菜種油などを扱う商人たちもすでに住み着いていたぐらいなのです。
平穏な暮らしの維持を願う庄屋にとっては、これらの事を見て見ぬふりするのが、一番の役目だったようです。
度々発令される「倹約令」に庄屋の方も「またか」と、呆れて聞き流し、表向きだけは頭を下げ、後ろを向くと舌を出して、むしろ小バカにすらして、ちゃっかり抜け道を作っていたのです。
ここまでの規制が守られたとは思えないし、だいたい、こんな些末なことまで規制する領主側の方がおかしい。
陸奥南部藩(青森県)の百姓たちが、領主のあまりにむごい仕打ちに堪り兼ねて反論した言葉が書かれていました。
「百姓を軽んじるのは間違いだ。
公家も庶民もみんな人間としては平等である。」
現代人の持つものと同じの正論中の正論です。
古代日本より、そのそも百姓の語源は「ひゃくせい」と読み、
天皇が慈しむべき天下の大いなる宝の万民とのことです。
そりゃそうでしょう。
どんなお偉いさんでも百姓が作った物を食べて生きているのですから。
自らを「御百姓」といい、武士が鉄砲を向けた時には大いに怒り、「雉や鳩と一緒にするな!」と激昂している場面もあります。
御百姓とは公儀法度を守り国家への義務を果たしている者であり、国家の基本である存在です。
本来、支配者側は御百姓が年貢を納めても、十分に暮らしてゆけるように責務を全うすべきなのです。
この事からも、百姓たちは立派なポリシーを持ち、たとえ領主に虐げられようとも、一歩も引かなかったのは、自分たちが国家の基盤であると理解し、本質を見抜く慧眼を持っていた事がわかります。
これらの「村定め」から、ドラマなどにあるように「無抵抗」で従順なだけではなく、きちんとした平等意識を持ち、人としての尊厳、そして何より武士と対等の生産者であるというプライドは根付いていたのです。
そこにはいつの時代も「不変の真実」が存在していたという事です。
私はこれを読んだ時、胸がスッキリしました。
同時に今も昔も、本質的な事は何も変わらない事に安心もできたのです。
ふと思うのですが、
享保年間といえば、名君と言われた8代将軍・吉宗の治世ですよね?
「享保の改革」のひとつで「倹約令」も実行されたのでしょうが、財政難の基本的要因は生産性はないくせに威張っているだけの武士が増えすぎた事ではないですか?
この辺りで、それこそ維新的な大改革をしていたら、ひょっとしたら徳川は潰れずに済んだのでは?
吉宗は本当に名君だったのか??
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《おまけ》
ルビがふれるなってうれしーい!今回はふんだんに使ってみました。(^^♪
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