篝の舞楽~夜の四天王寺にて
4日(日)、四天王寺の「篝の舞楽」を鑑賞してきました。
相変わらずの酷暑で良く晴れていたのですが、午後からの天候は不安定になり夕方は激しい雷雨の予報が出ていたため、19時開演の伽藍内での開催が危ぶまれ、心中はやきもきしながら向かいました。
ー私たちの「晴れ女」の威力もここまでかー
昨晩から天気予報を気にしながら、さすがに今回は覚悟してはいましたが、結局のところ、私たちのパワーは健在で雨は降らなかったのです。
それにもかかわらず、五智光院での上演となったのは、四天王寺側も準備の都合上、早い段階で判断して、雨天会場でと決めていたようです。
「篝の舞楽」というからには、篝火の下での幻想的な舞楽でないとその値打ちは半減します。
今回の判断は仕方がなかったとはいえ、残念でなりません。
上記ポスターの写真のように伽藍内の講堂前で見たかった!
前回の聖霊会の時は晴天で、5月とはいえ汗ばむほどの陽気だったので、予定通り「六時堂」前の「石舞台」で舞楽奉納は開催されました。
黄昏時の四天王寺
すっかりお盆の準備万端!
この行事には初参加なので18時30分の開場より少し早めの到着を目指して、18時頃、天王寺駅から向かって一直線に歩いていると、道沿いには「万灯供養」と書かれは提灯がぶらさげられていました。
「万灯供養」とは毎年8月9日~16日まで四天王寺で行われるお盆の行事で、霊名が記された約1万本のローソクに火が灯されて先祖供養が執り行われるのです。
谷町筋から一本東の旧熊野街道を進むと東に四天王寺の石鳥居が見え、そこにもお盆の正式名称である「盂蘭盆会」と書かれた垂れ幕と多くの寄贈?された「灯篭」が吊るされて、薄暗くなった中にぼんやりと浮かぶ明かりが不思議な光景を作り出していました。
極楽浄土の門
鳥居の奥に見える「西大門」に明かりが灯されているのを初めて見ました。
両サイドの菩薩様の絵もライトアップされて、全容をはっきり見ることができました。
以前から菩薩である事はわかっていたのですが、「誰?」と思ったので調べてみました。
左:慈悲の象徴「観音菩薩」、
右:智慧の象徴「勢至菩薩」とのことです。
何度も来ているのに、今更知るなんて情けない話です💦
西大門は「極楽門」とも言われ、極楽浄土へと向かう門に例えらえています。
昔は大阪湾が間近まで迫っていましたので、ここから「石鳥居」の間に夕日が沈むのを合掌して拝んだそうで、この辺りの地名に「夕陽丘」があるのもその名残でしょう。
藤原道長の嫡男・藤原頼通やその姉・藤原彰子(中宮)もここで波間に沈む入日を拝んだそうです。
その際に彰子に付き添った女房・赤染衛門が歌を残しています。
~ここにして 光を待たん極楽に
向ふと聞きし 門に来にけり~
(西方極楽浄土と向き合っている門で来迎の光を待とう)
当時の光景はさぞかし美しかったのでしょうね。
残念なことに今は海など全く見えず、ビルと道路と車や人ごみしか見ることができません。
本坊・五智光院
伽藍内で実施されるかもという淡い期待を寄せていたのですが、中心伽藍への扉は固く閉ざされているのを見て、すぐさま北(左)へ進路を変えて奥の「本坊」へと進むと、行列が見えました。
やっぱり中か…💧
ほぼわかっていた事ですが、落胆せずにはいられませんでした。
四天王寺の中心伽藍のほとんどは焼失したり戦火にまみれたりで再建され比較的新しく、もし現存していたなら「法隆寺」より古い国宝なっていたはずです。
地理的なことを考えたら、ここは攻められやすく、遺っているわけがありません。
私が灌頂会を受けた所⁈
この五智光院の全容を見て、「あれ?」と古い記憶が蘇りました。
ここは私が高3の卒業間際に「灌頂会」という儀式を受けた所かもしれない。
一応、当時はまったくわからないなりにも「受戒」したという扱いで、お釈迦様から始まり最後は私の名前まで続く系図もいただきましたっけ。
その意味を初老になって初めて気付き、まだ10代の若さだったので仕方がないとはいえ、嫌々参加したことは本当にもったいなかったと心から思います。
篝火なしの「篝の舞楽」
中に入ってみると、城で言うところの「武者走り」のような「外陣」があり中央と柱で区切られた造りでを見て、「ここだ!」と、それまでの疑いが確信に変わりました。
この「外陣」を通って御簾の向こうのご本尊前で法水をかけられたのです。
あの時、受戒灌頂会を受けたのは、この「五智光院」で間違いありません。
およそ45年前の記憶が瞬時に蘇り、感慨にふけってしまいました。
次第
始まる前の司会の前置きが長い!
舞楽についての説明は本当に無駄に長かったように思います。
舞楽の成り立ちや由来、「左方」と「右方」など、説明されて解るのは、すでに知っている人だと思いますし、また興味のある人は事前に調べているでしょう。
だらだらとした説明は、ほとんどの方には退屈なだけで、もっと簡単に手短にまとめるべきだと思いました。
●挨拶
この上まだ四天王寺管長の挨拶があるのか!とゲンナリしてしまうのも当然です。
しかし瀧藤尊淳という名を聞いた時、確か私が在校中も同じ瀧藤性の管長だったので、その息子さんだと悟りました。
調べるとお父様の名は尊教さんで、その方が当時の管長でした。
さて、尊淳さんのお話、初っ端に少し噛んでしまって何を言っているのかわからなかったのですが、ちゃんとオチも付く完全に難波言葉の漫談そのものの喋りで、時々笑いが起こり、和やかなオープニングとなりました。
大阪は僧侶でさえも笑いのツボを心得てる!
※上演中は完全撮影禁止なので、画像はフリーサイトやリーフレットより、あるいはリンクを貼っています。
●振鉾ー冒頭の舞
厭 の意味もあり、邪気を払い悪魔を抑え鎮めるために、必ず舞楽の最初に舞う。
左方・赤、右方・緑の衣装つけて、それぞれが順番に舞っていた。
●篝の火入れ
堂内での上演なのでなしです。
つくづく残念ですが、重文のお堂を焼失する恐れもあるので仕方がありません。
●承和楽
典型的な左方唐楽の舞楽。
承和元年(834)に初めて舞われ、年号から名付けられた。
やがて平安時代になると外来の舞楽も国風化され、日本独自に変化したひとつがこの「承和楽」。
●納蘇利
右方高麗楽の舞。雅楽。
雌雄の竜が昇天する姿を描いたもので、左方に中国の「蘭陵王」、右方に高麗の納蘇利。
双方のお面は、鞍馬山にあった天狗を思い出させたが、実は四天王寺所有の重要文化財。
●抜頭
本来は左方(唐楽)だが、四天王寺では右方(高麗楽)として舞う。
抜頭はインド神話に登場する王・バドゥに由来するともいわれている。
●長慶子
舞楽会の終わりに必ず演奏される雅楽。
舞はなく、源博雅の作曲と伝わる。
源博雅といえば夢枕獏の「陰陽師」に登場する安倍晴明の友人で笛の名手というイメージだが、醍醐天皇の孫にあたる高貴人。
開場内はツッコミ満載
この日は4人での活動でしたが、堂内のスペースは限られていて、椅子の用意もなく直に畳の上に座るという苦しい体制での鑑賞でした。
一気に入場したせいか、ミコさんとチコさん、ロコさんと私の二手に分かれて場所を確保してしまい、そのまま最後まで観ることになりました。
上演中、私の隣のお婆さんが居眠りをするのですが、不思議なことに舞楽が始まると舟をこぎ始めて爆睡し、時々前方にバッタリと倒れそうになるのですが寸でのところで体制を持ち直し、また爆睡するのです。
1時間の上演中、ずっとその繰り返しで、私は気になって仕方がありませんでした。
そしてロコさんの斜め後ろの人は、始終、咳込んでいて苦しそうで、いったん退出してうがいでもしてきたらどうかと思うのですが、ずっとその定位置で咳をしていました。
私たちの両サイドにとても気になる方がいて、気が散る舞楽鑑賞となりましたが、その状況が可笑しくて、二人で笑いをこらえるのがなかなかの苦労でした。
それにしても、やはり伽藍内の屋外で篝火の下の舞台で鑑賞したかった。
その残念さはぬぐい切れず、いつか当日のお天気を見て突発的に鑑賞しようかと、私は心中ではリベンジに燃えたのでした。
裏天王寺?「すしセンター」
さて20時半ぐらいだったでしょうか?
さすがにお腹が減っているので、どこかで打ち上げを兼ねた食事を摂りたいところです。
当初は天王寺駅前の居酒屋にでも入ろうと思っていたのですが、ここでわが「食いもん奉行」のミコさんが物申しました!
裏天王寺と言われる、細い路地を入ったところのすし屋を提案してくれました。
お寿司なら、いつでもどこでも大歓迎なので、一同は即賛成してミコさんについて行きました。
さすがミコさんです!
美味しい上に安くて驚きました!
いつもは並んでいるとのことなので、この日は夕飯時を外した時間だったからか、すぐに席に着けたのはかなりラッキーでした。
お腹が空いていたので、4人で一気食いして、あっという間にお腹一杯になり満足したのに、4人でなんと7,612円。
一人当たり1,903円という安さに驚きながらも、大阪人にとっては一番の嬉しい魅力でした。
やっぱり大阪は食道楽やから!
【参考文献】
・『赤添衛門集』の四天王寺参詣歌群について 倉田実
・しろくま堂
・第68回 四天王寺 篝の舞楽 リーフレット
・歌舞管弦
・四天王寺
サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。