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河合継之助の生き様~「峠・最後のサムライ」より

司馬遼太郎作品の映画・「峠」を観てきました!

このテのマニアックな映画を一緒に観るのは、やはりレキジョークルチコさんです。
歴史好き同士でないと、ツッコミどころの判別もできないし、後で余韻を楽しんで語り合えないのです。

結論から言うと、シブい映画だった!
昨年見た「燃えよ剣」よりもっとシブい!
これこそ、意味が分かるには歴史を熟知していないと、その真意はサッパリわからないでしょう。。。



河合継之助つぎ(ぐ)のすけの人生ハイライト

そもそも、知名度は低いでしょうね。
同じ幕末には、坂本龍馬や西郷隆盛、新選組など、有名スターが揃う中にあっては、どうしてもかすんでしまう存在です。

しかしながら、知る人ぞ知る気骨ある人物でした。
そんな河合継之助について簡単に説明させていただきます。

画像出典:Wikipedia


◇越後長岡藩の上級武士

越後長岡藩とは現在の新潟県中央にある長岡市のことで、幕末当時で7万4千石の小さな藩でしたが(実利は約14万石)、継之助はその地を治める牧野家の家臣でした。

幼い頃より剣術や学問に励み、文武両道の青年に成長し、25歳の頃、江戸や備中松山、長崎などを遊学し、佐久間像山のもとで蘭学や砲術を学び、大いに刺激を受けて新しい知識を得ます。

帰国した継之助は、39歳で郡奉行となり、遊学で得た知識を生かして、藩政改革に努め、藩の中心的存在になります。


◇中立の立場を主張

継之助が41歳の1868年、戊辰戦争が始まります。

薩・長・土の新政府軍か、会・幕の旧政府軍か。

それぞれがそれぞれの主張を通して前面対決を繰り広げる最中、河合継之助が中心となった長岡藩は、どちらにも属さず中立であることを強く主張し、非戦を訴えます。


小千谷おぢや談判

これは継之助にとって、運命を決定するもので、映画のストーリー的にも大きな見せ場でしょう。

現在の新潟県小千谷市の慈眼寺にて、継之助は新政府軍監・土佐藩の岩村精一郎との会談において、新政府軍を批判した上で、長岡領内への進入と戦闘の拒否を訴え、その旨の上申書を差し出します。

しかし、まったく受け入れられません。

やむなく奥羽越列藩同盟を結成し、長岡藩近隣で全面戦争となる北越戦争へ参戦する事になりました。


◇小藩にいた大きな人財

この当時、日本に3門しかなかったガトリング砲ですが、うち2門は長岡藩が所有していました。

ガトリング砲とは、簡単に言うと、以下の通りです。

外部動力・多銃身式に分類される構造を持ち、複数の銃身を外部動力(人力やモーターなど)で回転させながら給弾・装填・発射・排莢のサイクルを繰り返して連続的に発射する。

Wikipedia

これだけではありません。
その他アームストロング砲エンフィールド銃スナイドル銃シャープス銃などの最先端の武器を購入しています。

それらを入手するための資金作りは、継之助の苦心の様子が伺えます。
一、長岡藩の江戸藩邸を処分
二、相場暴落した米を買い箱館へ売る
三、為替差益にも目をつけ軍資金を増やす

そして、藩兵にはそれらに見合った近代的な訓練を強いていました。

あくまでも反戦を訴えながら、心中では無理であると見越していたのでしょう。
十中八九、戦闘になれば長岡藩のような小藩が勝ち残れないことも十分理解し、せめて奇跡を呼ぶための備えは怠っていなかったのです。

しかしその戦闘中に流れ弾を左足に受け、それがもとで破傷風となり42歳で他界してしまいます。



総評

◇配役ミスかもしれない

私は司馬遼太郎氏による原作は読んでいません。
しかし彼の事を熱く語ったエッセイは読んだり、また他の作家による時代小説にもしばしば登場し、河合継之助という人物には大変興味がありました。

それだけに私の中で膨らんだ継之助のイメージは、少なくとも役所広司さんではありませんでした。

もちろん役所さんは良い俳優さんだと心から思っています。
ただ、河合継之助ではないのです。

もっと若く、ギラギラと発熱するような俳優さんを持ってきて欲しかった。

領主の牧野雪堂(忠恭ただゆき)役の仲代達也さんの役でも良かったぐらいの年回りだったかも。

もっとも、仲代達也さんも久しぶりに見て感動しました。。。


小千谷おぢや談判で相対する土佐藩・軍艦の岩村精一郎役の吉岡秀隆さんも違うなぁ。
秀隆さんも良い役者さんですが、この役を演じるにはイメージが優し過ぎました。


◇地味で静かすぎた

この映画の史実は、新政府軍5万人に対して、長岡藩はたったの700人足らずでで挑んだどいうところに大きな武士の義があります。

その大きな義のための戦いなのですが、全体的に盛り上がりに欠けて、その意義というものが非常に解りづらい。

長岡城を奪われたり奪還したり、その他の戦闘シーンも、どれだけの大きな意味があったのかがわかりづらいのです。

結局、地方の小藩による小さな抵抗みたいな感じになっています。

もっとも、司馬氏原作の映画である「関ヶ原」や「燃えよ剣」もかなり玄人向けで、映像化されたものには、その真意が理解し難い。

やはり司馬氏の秀逸な文章力で綴られた原作には及ばずというところでしょうか。


◇生きていればもっと名を残した

驚くべきことに、継之助の命運を分けたのは新政府軍による攻撃ではなく、領民たちの一揆で、そうでなくても少ない人数なのに、一気に戦闘能力と気力が低下した事にありました。

なぜ、最新鋭の武器を仕入れてまで抗戦したのかが、領民たちには理解できなかったのでしょう。

長岡藩は大きく結束力に欠け、まとまりきれず自滅したに等しいのです。


河合継之助という人物は、徹底した実利主義で、何に対しても型や流儀などにいっさい固執することのない慧眼の持ち主でした。

ですから、徳川幕府崩壊も早くから予見できていたのです。

自分の信念を曲げす、藩命にも度々背いたため、叱責される事も多かったのですが決してはあきらめず、それどころか凡庸すぎる自藩の家老たちにも早くから見切りをつけていました。

案の定、幕末動乱時には継之助が必要となり、家老上席・軍事総督に任命され、長岡藩を牽引する立場となりました。


藩にとっても最後の切り札だったのですね。
まるで長州藩の高杉晋作です。


あくまでも彼は非戦を訴え、平和的解決を強く望んでいました。
それら一連の動きは、結局は周りからは理解されず、時代の濁流にのみ込まれるように生涯を閉じてしまいます。

後日、勝海舟や西郷隆盛などから、一代の傑物であるという高評価を得ているのを見ると、もし、生きて明治を迎えたならば、必ず近代日本の礎を築く大人物として偉業を成していたはずです。


生きていればと惜しむ人物は他藩にもたくさんいますが、当時の人達には俯瞰図は見えていなかったわけで、ひとまずここは生き残らなければならなかった。

正直なところ、動乱期には大した事をしてなくても、明治に入って近代日本が出来上がる時になって最終仕上げをした人物が偉人として名を残しています。


こういう風に信念を貫き通して、惜しくも散った人物こそが真の英雄である事を忘れてはいけないと、あらためて思った映画でした。











先週もたくさんのお祝いボードを頂きました。
いつもスキをいただきありがとうございます!






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